2013年10月31日

日光御成道その1・江戸城大手門→東川口駅

将軍が利用した日光への街道。
江戸城の大手門よりスタートします。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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大手門。
相変わらずの厳重な警戒ぶりです。

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あまりの猛暑のため
今回も菅笠で歩くことにしました。

やっぱ快適。天然のクーラー。
もう恥ずかしさはどこにもありません。

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しばらくはビジネス街の中を進んでいきます。
この日は盆でしたが世間的には平日なこともあり
ビジネスマンが多い、多い。

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神田御門の跡を通り昌平橋付近を進みます。
ここには筋違橋もあったのですが今は消滅しています。

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かつてはここは大きな広場になってたようです。
古地図には火よけ地と書いてあったので
火事の時は他へ燃え移るのを防ぐ役目があったのでしょう。

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中山道と合流し本郷追分まで一緒に進みます。
東大の横の歩道には木が生い茂っていていい感じです。
影があるとやっぱ涼しいですねー。

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この本郷追分からは
いよいよ日光御成道単独の道となります。

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駒込を過ぎ王子駅の手前に
対になっている立派な一里塚がありました。

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四車線道路の真ん中に堂々と今も現存。
空襲にも耐えよく残ってくれたものです。

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この駒込から赤羽にかけては
意外とアップダウンのある地形が続きます。

王子付近では渓谷になってる場所もあり
街道はそれを避けるように直角に曲がっています。

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歩いているとわかる江戸時代の地形に沿った道筋。
これは電車で移動とかではわかりづらいですね。

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十条には浅間神社の富士塚があります。
富士山を模した山が境内にあるのですが
都内にはいくつか今も残っているんですよね。

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かつての江戸庶民が
富士山に気軽に行けなかったころに
この擬似登山をして信仰を深めたのだとか。

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赤羽は御成道の最初の宿場町でした。岩淵宿です。
荒川を渡った対岸には川口宿があります。

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どちらも川を前にした宿場町で
交通機関が発達した今はひっそり感が漂います。

ちなみに渡しは将軍と庶民用とで分かれていて
将軍が通るときは舟橋もかけられたといいます。

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赤羽付近にあった道標。
「川口善光寺」の名前が見えます。

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この善光寺は今はコンクリ造りの社殿なのですが
江戸期は庶民が気軽にいける善光寺として人気だったそうです。

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川口からは現代の岩槻街道に沿って
しばらく北上していきます。

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次の宿場町は鳩ヶ谷宿。
町中には案内板があふれ良い雰囲気です。

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郷土資料館は100円。
街道資料も豊富で街道好きには目からうろこです。

鳩ヶ谷宿はかつては一大ジャンクションだったようで
中山道や日光街道への脇道が古地図に書かれてありました。

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鳩ヶ谷宿を過ぎると
じょじょに緑が増えてきます。

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都内から約25キロほどの場所。
朝はあんなに大都会だったのに不思議な気分です。

今回は東川口駅をゴールとして
南浦和駅にある宿へと向かいました。


  
posted by にゃおすけ at 19:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日光への街道 | 更新情報をチェックする

2013年10月23日

本州一低い分水界と織田氏の城下町。

分水嶺という言葉。ご存知の方は多いですよね。
いわゆる山によって水の流れる方向が違う場所になります。

中山道でいうと長野県の鳥居峠がそうですね。
峠の西側に降った雨は木曽川として太平洋に流れて
東側に降った雨は信濃川として日本海に流れる感じです。

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大抵は山の峰が分水嶺にあたるのですが
山でない場所は「分水界」と呼ばれています。
(分水嶺も広義の意味では「分水界」になります)

本州一低い分水界というと
近畿は北部の丹波地方にある「水分け」が有名です。

低いところでなんと!95.45m。

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水分けには公園が整備され資料館もありました

これのどこが凄いのか。
数字だけではなかなか実感がないのですが

・こんな山の奥地なのにこれだけしか標高がない。
・海との高低差がこれだけしかない。
・よって川は淀んだ流れになってるので船が遡れる。
・仮に今より水面が100mあがると本州はここで真っ二つ。


僕は資料館での説明を見てこの4点で
ほぉーと思い感動してしまいました。

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右が日本海への入り口。

この分水界。
川を境に北側を日本海、南側を太平洋に流れています。

この川が流れる土地は
堆積した土砂の影響によって小さな扇状地になっています。
これによって川が周辺より高くなっているわけです。

パッと見た感じは
ただの平地に見えるので不思議な感じです。
まさかここで川の流れが変わってるなんて。

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この水分けの近くには
柏原藩の城下町がありました。

今も城下町の雰囲気がたっぷり残ってるのですが、
中でも上の写真”木の根の橋”は凄いものでした。

古いケヤキの木。
その根っこが川を跨いでる。実に豪快。

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柏原藩は織田氏の城下町。
江戸時代からの陣屋が残っています。

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織田の家紋。
やっぱ格好いいですね。

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そういえば織田信長を祀っている神社は
この柏原の神社と全国であと2ヶ所しかないのだそうです。

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八幡神社には三重塔が建っていました。

神社に三重塔って今の時代では珍しいですよね。
江戸時代までは神社と寺が同居する形式が多かったのですが
明治新政府による廃仏稀釈によって別々にすることになったので
あまり見かけなくなってしまいました。

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この八幡神社の境内には寺はもうないですが
鐘楼などが残っていてかつての名残を感じれました。

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柏原はスキー帰りによく通る町なのですが
実際に観光してみないとわからないものですね。
通り過ぎるだけでは勿体無い良い町でした。

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posted by にゃおすけ at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近畿ボラボラ_兵庫 | 更新情報をチェックする

2013年10月10日

西近江路その5・敦賀→今庄宿

長かった西近江路も今回がラスト。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

敦賀はかつては城下町でした。
この付近の西近江路は敦賀市街には入らず
東の山側をバイパスのように通っています。

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一方、敦賀市街からはというと
アクセス路として敦賀道がありました。

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気比神宮の大きな鳥居。
日本三大鳥居の1つなのだとか。

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街道に居座る猫ちゃん。

もふもふタイムです。
時間が知らず知らず過ぎていってしまいます。

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隣に流れる木の芽川は
これから向かう木の芽峠の直下が源です。

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西近江路との合流点は宮崎商店前。
ここで敦賀道は終わり。

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その先にある樫曲という集落は
立ち並ぶ家々が急坂の両側にあり印象的でした。

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草道に突入っ!

人が手を加えたであろう道筋は
登山道にない美しさがありますね。
歴史を刻んでいるといいますか。

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途中には九十九折もあって最高の雰囲気でした。

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越坂(おっさか)という集落がこの先にあり
山の上にある静かな雰囲気が印象的でした。

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越坂の先の集落は葉原。
葉原までは一気に標高が下がります。

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話に聞くと越坂の子供たちは
急坂を下って葉原まで小学校に通っていたそうです。
毎日この坂を!です。ちょっと凄いですよね。

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この付近の国道はやけに直線になっています。
かつて国鉄の北陸本線だった路盤を転用したのだそうです。

北陸トンネルができる前というとSL時代ですよね。
軒先にSLの写真が飾ってるの家もありました。

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峠の手前の最後の宿場が"新保宿”

どこか中山道の馬籠宿に似てます。
急坂を真ん中にある風情は先ほどの樫曲も同じですが
新保は宿場町だっただけにどこか立派さがありますね。

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新保宿を過ぎると一気に勾配をあげていきます。
やがて草道になり道が細くなり峠道風情になってゆきます。

今は木ノ芽古道として売り出し中のこの道も
普段はそんなに人が通らないようで
かなり藪ってる場所もありました。

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腰掛石で一服。

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今も残る昔の人も利用した石。
同じように一服してみるとシンクロした感覚になります。

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さぁ、木ノ芽峠です。
立派な石畳。

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今も平家の流れをくむ人が
茅葺き屋根で住まれているようです。

炭焼きの匂いがプンプン。
まさに江戸時代の場所です。

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この峠を過ぎると
スキー場の中を進んでいきます。

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初級斜面でも
雪がないと結構なものですよね。
下を見るとちょっとおっかない(^^;

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スキー場内の街道沿いにいらっしゃる”言うな地蔵”
いわれはなかなか面白いです。

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偶然ってすごい(^^;

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二ツ屋の宿場を経由しどんどん下っていきます。

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やがて現在の北陸本線とも合流し
今庄の町へ。

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文政時代に建てられた道標が
北国街道との追分にあたります。

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右も左も”京”の文字。

ようするに右は今歩いて来た西近江路経由。
左は北国街道と中山道経由。

ここは一大ジャンクションですね。
道を間違えたらとんでもないことになりそうです。

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今庄の町は
古い家が多く静かで雰囲気良い町でした。

ここから先は北国街道として
越前平野を北上していきます。

  
posted by にゃおすけ at 20:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 北国街道(北陸道) | 更新情報をチェックする