ポツンと古いホームが取り残されています。

これは一体なんなのか?
近鉄利用者は疑問に思ってる人が多いと思います。
今回は鶴橋駅の変遷から考察していきます。

1926(大15)大日本帝國陸地測量部地図
上の図は大軌(現在の近鉄)が開通して12年後のもの。
まだこの頃は省線(国鉄、現在のJR)の駅が存在していません。
しかも当時の駅は東に300mほど行った場所にあり
地上駅の相対式ホームでした。
この時の城東線(現在の大阪環状線)はというと
地上をSLがのんびり走る路線だったようです。
省線との交差は大軌が乗り越す形の立体交差でした。
現在の鶴橋駅の位置に移動するのは
城東線の高架が完成し省線の駅が設置される昭和7年になります。

昭和28年当時の空中写真
双方に駅が設置されてからは連絡が格段に向上し、
翌年には城東線が電化になってさらに便利になりました。
それまでの連絡輸送はというと
上本町駅で市電などに乗り換える方法しかなく
大軌はこの状況をどう打開すればよいか考えていたようで
一時は布施から玉造への路線を計画してたというから驚きです。
さて、移設された鶴橋駅は
当初は相対式ホームの2面2線のみでした。
その後、昭和14年に上本町行きホームが島式になって
2面3線となりラッシュ輸送が効率的になったようです。
この状況は昭和30年まで続きます。
あの謎のホームが一番輝いていた時期です。

昭和7年から昭和14年の鶴橋駅(『50年のあゆみ』より)
一方、省線の鶴橋駅はというと
現在のような近鉄線を直交する形の駅ではなく
玉造側に片寄った構造をしていたようです。
ホームの桃谷側の端には
下に降りる階段が設置されていました。
この階段は現在のホーム真ん中にあるものと
位置的に考えると同一のものだと思われます。
当時の様子を物語る絵葉書があったので
リンクを書いておきます。(該当番号A2438333482)
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/27/sort/1a/filter_id/9100

昭和14年から昭和29年ごろの鶴橋駅(『50年のあゆみ』より)
当時はこの狭い階段をもって
下車客や乗り換え客をさばいていたと思うと恐ろしいものです。
実際に利用してた人は混雑していたという話ばかり耳にします。
昭和30年の11月になると近鉄の駅に大きな変化が現れます。
奈良方面行きが1線追加となり島式2面4線の今と似た形状へ。
この工事はホームや線路の移設などかなり大掛りだったようで
上にある昭和28年の空中写真でも工事の様子がわかります。
一方、国鉄の駅にも大きな変化があり、
ホーム(通路)の南への延長と連絡改札口設置がこの時期です。
ただし当時の連絡改札口は現在のとは大きく違います。
『50年のあゆみ』という近鉄の社史によると
近鉄のホーム端から国鉄のホームに階段であがった先には
玉造方向に向かっての狭い通路のようなものがあって
通路の先に改札口があり(有人改札は5ブースほど)
それを抜けるとようやく乗り場という形だったようです。
そして車両は現在は使われていない玉造側のスペースも含め
6両編成がいっぱいいっぱいに止まっていたようです。
こういう構造だったことから乗り換え客は桃谷側に集中し、
今以上に1両目の混雑が激しかったのではと想像がつきます。

昭和39年当時の空中写真
ところで、あの謎のホームですが
この改良後においても駅構内図の案内には実は存在していて
旧東口への階段もあることから何かしらで利用してたことがわかります。
ただ、旅客用としては『100年のあゆみ』の社史を見ると
昭和30年まで使用とあるのでこれが正解なのかもしれません。

昭和30年代前半の鶴橋駅(『50年のあゆみ』より)
昭和31年になると
布施と上本町の間が複々線になります。
当時の複々線は今とは少し違っていて
1番 奈良線奈良方面
2番 奈良線上本町方面
3番 大阪線伊勢、名古屋方面
4番 大阪線上本町方面
現在のような便利な乗り場になるのは
昭和50年まで待たねばなりません。
少しマニアックな話になりますが
この複々線化によって大阪線と奈良線が完全に分離になりました。
当時の車両の電圧は大阪線が1500vで奈良線は600vで
大阪線の車両は600vの線路をノロノロと進んでいたそうです。
しかも1時間あたりの運転本数は30本はあったようで
その過密ぶりと電圧の問題を一気に解決したのが
この複々線化だったということになります。

昭和50年当時の空中写真
昭和45年になると
大規模な連絡設備拡張工事が完成します。
今ある大きな連絡改札口や駅の構造は
その後に多少改良はあるものの現在とほぼ同じです。
国鉄の駅ではホーム上にあった改札口はなくなり
乗り換え通路だった部分はホームに改良されました。
これにより玉造側に片寄っていた停車位置が
桃谷側に片寄って止まる形に変更になってます。
現在のホームを見渡してみると
優に10両は止まれる長さを感じることが出来ますが
ホームが長い理由はこういう経緯があったわけですね。
昭和40年代といえば
高度成長期で万博の頃であり
近鉄においても難波への線路が開通し、
輸送力増強が叫ばれていた時代になります。
この時の増強があるからこそ
今の便利な乗り換えがあるわけで有難いものです。


JR駅ホームから謎のホームを望む
謎のホームの考察いかがだったでしょうか?
今回の記事においては資料からの推察が主になってます。
もしお気づきの点がありましたら何なりとご指摘くだされば幸いです。
[ここに地図が表示されます]