2014年06月25日

鶴橋駅の謎のホームを考察してみた

近代化された奈良線ホームの向かいに
ポツンと古いホームが取り残されています。

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これは一体なんなのか?
近鉄利用者は疑問に思ってる人が多いと思います。

今回は鶴橋駅の変遷から考察していきます。

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1926(大15)大日本帝國陸地測量部地図

上の図は大軌(現在の近鉄)が開通して12年後のもの。
まだこの頃は省線(国鉄、現在のJR)の駅が存在していません。

しかも当時の駅は東に300mほど行った場所にあり
地上駅の相対式ホームでした。

この時の城東線(現在の大阪環状線)はというと
地上をSLがのんびり走る路線だったようです。
省線との交差は大軌が乗り越す形の立体交差でした。

現在の鶴橋駅の位置に移動するのは
城東線の高架が完成し省線の駅が設置される昭和7年になります。

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昭和28年当時の空中写真

双方に駅が設置されてからは連絡が格段に向上し、
翌年には城東線が電化になってさらに便利になりました。

それまでの連絡輸送はというと
上本町駅で市電などに乗り換える方法しかなく
大軌はこの状況をどう打開すればよいか考えていたようで
一時は布施から玉造への路線を計画してたというから驚きです。

さて、移設された鶴橋駅は
当初は相対式ホームの2面2線のみでした。
その後、昭和14年に上本町行きホームが島式になって
2面3線となりラッシュ輸送が効率的になったようです。

この状況は昭和30年まで続きます。
あの謎のホームが一番輝いていた時期です。

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昭和7年から昭和14年の鶴橋駅(『50年のあゆみ』より)

一方、省線の鶴橋駅はというと
現在のような近鉄線を直交する形の駅ではなく
玉造側に片寄った構造をしていたようです。

ホームの桃谷側の端には
下に降りる階段が設置されていました。
この階段は現在のホーム真ん中にあるものと
位置的に考えると同一のものだと思われます。

当時の様子を物語る絵葉書があったので
リンクを書いておきます。(該当番号A2438333482)
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/27/sort/1a/filter_id/9100

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昭和14年から昭和29年ごろの鶴橋駅(『50年のあゆみ』より)

当時はこの狭い階段をもって
下車客や乗り換え客をさばいていたと思うと恐ろしいものです。
実際に利用してた人は混雑していたという話ばかり耳にします。

昭和30年の11月になると近鉄の駅に大きな変化が現れます。
奈良方面行きが1線追加となり島式2面4線の今と似た形状へ。
この工事はホームや線路の移設などかなり大掛りだったようで
上にある昭和28年の空中写真でも工事の様子がわかります。

一方、国鉄の駅にも大きな変化があり、
ホーム(通路)の南への延長と連絡改札口設置がこの時期です。
ただし当時の連絡改札口は現在のとは大きく違います。

『50年のあゆみ』という近鉄の社史によると
近鉄のホーム端から国鉄のホームに階段であがった先には
玉造方向に向かっての狭い通路のようなものがあって
通路の先に改札口があり(有人改札は5ブースほど)
それを抜けるとようやく乗り場という形だったようです。

そして車両は現在は使われていない玉造側のスペースも含め
6両編成がいっぱいいっぱいに止まっていたようです。
こういう構造だったことから乗り換え客は桃谷側に集中し、
今以上に1両目の混雑が激しかったのではと想像がつきます。

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昭和39年当時の空中写真

ところで、あの謎のホームですが
この改良後においても駅構内図の案内には実は存在していて
旧東口への階段もあることから何かしらで利用してたことがわかります。

ただ、旅客用としては『100年のあゆみ』の社史を見ると
昭和30年まで使用とあるのでこれが正解なのかもしれません。

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昭和30年代前半の鶴橋駅(『50年のあゆみ』より)

昭和31年になると
布施と上本町の間が複々線になります。

当時の複々線は今とは少し違っていて

1番 奈良線奈良方面
2番 奈良線上本町方面
3番 大阪線伊勢、名古屋方面
4番 大阪線上本町方面

現在のような便利な乗り場になるのは
昭和50年まで待たねばなりません。

少しマニアックな話になりますが
この複々線化によって大阪線と奈良線が完全に分離になりました。
当時の車両の電圧は大阪線が1500vで奈良線は600vで
大阪線の車両は600vの線路をノロノロと進んでいたそうです。
しかも1時間あたりの運転本数は30本はあったようで
その過密ぶりと電圧の問題を一気に解決したのが
この複々線化だったということになります。

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昭和50年当時の空中写真

昭和45年になると
大規模な連絡設備拡張工事が完成します。
今ある大きな連絡改札口や駅の構造は
その後に多少改良はあるものの現在とほぼ同じです。

国鉄の駅ではホーム上にあった改札口はなくなり
乗り換え通路だった部分はホームに改良されました。
これにより玉造側に片寄っていた停車位置が
桃谷側に片寄って止まる形に変更になってます。

現在のホームを見渡してみると
優に10両は止まれる長さを感じることが出来ますが
ホームが長い理由はこういう経緯があったわけですね。

昭和40年代といえば
高度成長期で万博の頃であり
近鉄においても難波への線路が開通し、
輸送力増強が叫ばれていた時代になります。

この時の増強があるからこそ
今の便利な乗り換えがあるわけで有難いものです。

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写真 5.jpg
JR駅ホームから謎のホームを望む

謎のホームの考察いかがだったでしょうか?

今回の記事においては資料からの推察が主になってます。
もしお気づきの点がありましたら何なりとご指摘くだされば幸いです。


[ここに地図が表示されます]



  
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2014年06月18日

伊賀街道その3・島ヶ原宿→木津

伊賀から山城の国へ。西に進みます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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島ヶ原宿の朝。
本陣跡も残る静かな町並みです。

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ここからは木津川に沿って進むのですが
しばらくは川幅が狭く崖が多いので
山あいに迂回する形で街道が通っています。

さっそく
宿の外れからアップダウンが始まりました。

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歩いた季節は春。
ちょうど山つつじが見ごろでした。

関所の跡を過ぎると
いよいよ伊賀と山城の国境です。
国境には境界を示す2本の石柱が建っています。

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この石柱は元々は木製でした。
しかも背中合わせに建っていたそうです。

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今回の区間は伊賀街道として紹介してますが
別名では大和街道(加太越奈良道)とも呼ばれています。

調べるところ、伊賀街道は
古来から伊賀地方から伊勢方面に向かう道でした。
また伊賀地方から京、奈良へ抜ける重要な道でもありました。

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江戸時代に入り藤堂家が治めるようになってからは
新たに津城と伊賀上野城とを結ぶ道も整備されたようです。

ちなみに、江戸から奈良へ向かうには
大和街道(加太越奈良道)を利用するのが一番の近道でした。
大名行列も見られ全国的に見ても重要な街道だったようです。

さぁ、藪漕ぎです。

月ヶ瀬口駅から大河原駅にかけては
このような草道が今も残っています。

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踏み跡がしっかりしているので難なくいけるのですが
それでも道がわかりにくい場所がありました。

こういう時は上を見てみましょう。
電柱や電線がある時は大抵は道沿いに立っているので
100%頼ってはダメですが意外とうまくいくものです。

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藪漕ぎで、迷った時は、空をみる

もちろん、GPSと地図も併用しておくと安心です。

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大河原。
その名の通り目の前には大きな河原が広がります。

そして山の新緑はパッチワークのようで美しい。
街道にはチューリップが咲き誇り実に春らしい光景です。

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ここからしばらくは国道を歩きます。
歩道がなく交通量も多い大変なデンジャラスな区間です。

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雨の日や夕暮れ時などは特に注意が必要で
心配な方は無理をなさらないほうが賢明でしょう。

ただ、木津川が横に流れてるので景色は良いんですよね。
それだけに少し勿体ない区間ではあります。

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笠置の手前には大きな峠があります。
ひと山を越えるのでなかなかハードな道のりです。

急こう配が続いたてっぺんの峠には
なんとも言えない良い雰囲気がありました。

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笠置は磨崖仏で有名な笠置寺や温泉があり
今日でも人気スポットになっています。

笠置から奈良市内へのルートは
いくつか存在していて少しややこしくなっています。

1・舟で木津川を下り木津から奈良街道で奈良へ
2・笠置より柳生街道を経由して奈良へ
3・笠置より笠置街道(月ヶ瀬街道)を経由して奈良へ
4・笠置から五軒屋の渡し、山田、加茂、奈良阪を経由し奈良へ
5・木津まで行き奈良街道で奈良へ(今回)

今回のルートでは京へ向かう利用者も多かったようです。
なお、奈良へのルートで一番人気があったルートは
分間絵図にもある4番目のルートだったのではと思います。

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その4番目のルートの分岐点が木屋の集落。
かつては木屋集落の手前に五軒屋の渡しがあり多くの人が利用したようです。

木屋の対岸からは山に入っていき山田→加茂へと続いてるのですが
現在は藪が茂り放題で通行は一部困難な状態です。

古くは木津川の南岸を加茂にかけての街道があったのですが
度重なる川の氾濫で川沿いから山中に移ったのだそうです。

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木屋の中心部にあった道標。
この場所は信楽への道の分岐点でもあったようです。

右:和束、前:笠置 上の、左:奈良

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木屋を過ぎると加茂宿です。

位置的に宿場は今回のルートから離れていて
先ほどの4番目のルート上に存在しています。

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今回のルート上には何もないかといえばそうではなく、
恭仁京の跡や、国分寺の跡など見どころも豊富でした。

もちろん、これら2つの名所は江戸時代は跡だったわけですが
加茂宿にある渡しを利用すれば奈良と信楽、近江を結ぶ最短経路上でもあり
対岸の加茂の宿場町に近い賑わいがあったのではないでしょうか。

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再び国道歩いていくと木津の町に入ります。

木津は奈良の物流の拠点で
”津”という名の通り大きな港があったそうです。

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立派な茶の施設が並びます。

あの伊右衛門の福寿園もここにあり、
茶の良い香りが漂っていました。

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この地方に多い形の道標前でゴールとしました。
昭和初期のもので実に立派なものでした。


posted by にゃおすけ at 19:23 | Comment(2) | TrackBack(0) | 伊勢への街道 | 更新情報をチェックする

2014年06月10日

伊賀街道その2・平松宿→島ヶ原宿

伊賀盆地の奥深くへと入っていきます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

県境の長野峠を越えて
最初の宿場町が平松宿です。

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かつての賑わいを今に伝える”鏝絵(こてえ)”
富の象徴として装飾に盛んに用いられたそうですが
なんとも立派なものですよね。

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この平松宿は宿として成立する以前は
1km手前の元町バス停付近が中心部だったそうです。

ところが度重なる大火にあい縁起が悪いということで
藩命により現在の地に移ったようです。

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宿場の西の端に芭蕉の句碑がありました。
伊賀街道には芭蕉関連の史跡が多く見られます。

柳の木の横にある大きな道標には
「右 京、大坂、なら道」と書かれていました。

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彫りが深い文字で味わいのある道標です。
道中を行く人々にもよく目に止まったことでしょう。

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台風の爪痕が残る街道筋。
川が氾濫して道の上に川砂が積もっていました。

この先では国道の土手までも
崩壊して迂回路になっている箇所もありました。

どうもこの辺りは被害が大きかったようですね。

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上野城下の手前にある宿場が平田宿です。

枡形が残る静かな光景。
赤い丸ポストがいい味を出してくれています。

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街道は宿場の先で川を渡りますが
川底をよく見ると変わった岩盤が目につきます。
まるで一枚岩のようで不思議なものです。

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実は古い時代の琵琶湖の地層なのだそうで
象の足跡や化石がわんさか出てくるのだそうです。

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川を右手に見ながら進むと
やがて草道になっていきます。

昔は車も通っていたのでしょうか。
意外と路盤がしっかりしていて歩きやすい。
今は人のみが通れる静かな空間です。

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ほどよく藪が生い茂ってる旧道。
山側の石には磨崖仏が何体も彫ってあります。

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この六地蔵さんもその一つ。
苔が適度に生えていて辺り一帯が良い雰囲気です。
まるでタイムスリップしたかのような光景です。

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この付近の街道は
他に対岸の国道を通る道もあるようですが
藪が苦手でなければ今回のルートが断然おススメです。

ちなみにルートの選定は
三重県発行のウォーキングマップを参考にしてます。

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いよいよ伊賀上野城下です。
整然と並んだ幾重もの道筋が城下町らしいです。

民家と民家の隙間からは城がよく見えてました。

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東海道関宿からの加太越奈良道との追分には
立派な道標が立っています。

城下には古い家も多く残っていて
都会にも関わらず静かな雰囲気があります。
町並みが高台に形成されているからなのでしょうか。

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高台であることもあって
盆地の眺めは抜群にいいですね。
なんともすがすがしい光景です。

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城下の西の端には鍵屋の辻があります。
大きな道標と大きな松の木が目印です。

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その横には昔風の茶屋が営業していて
さながら昔の旅人気分を味わうことができます。

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木津川を渡ります。

江戸時代はこの地点まで
大阪からの舟が運行できていたそうです。
それだけ流れが緩やかだったということでしょう。

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次の島ヶ原宿の手前には三本松峠があります。

道筋は廃道状態になっていて
蚊や蜘蛛の巣が多く進むのに一苦労でした。

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三本松池は昔からある池のようで
付近の人たちの憩いの場だったそうですね。

池の周りの街道は直線状なので
草競馬までも開催されていたのだようです。

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芭蕉が尻餅をつくほど大変だという尻餅坂を過ぎると
いよいよ島ヶ原宿の町並みへと入っていきます。

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夕日に照らされた坂のある町並み。
なんとも美しく疲れが吹っ飛ぶ光景です。

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木津川の水面はまるで鏡のようでした。
次は木津へ向かいます。


  
posted by にゃおすけ at 19:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伊勢への街道 | 更新情報をチェックする