2014年08月26日

江田島兵学校の見学と呉めぐり。

広島は呉。軍関係めぐりの旅。
今回は江田島兵学校がメインでした。

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今は自衛隊の幹部候補生の学校ですが
戦前は海軍の学校でした。

桜がほとんど散った時期に行きましたが
その本数たるや数多く、さすがは海軍って感じがします。
満開だと凄いものがあるでしょうね。

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その桜ですが
散った花びらの掃除は生徒さんがするのだそうです。

なので、入学時は桜が好きだった人も
卒業するときは嫌いになっている人が多いのだとか。

見学にはガイドさんがつくので
このような裏話が聞けて楽しいものでした。

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古くからの建物が多く残っています。

近年、外壁を磨きあげられたのだそうで
竣工当時を思わせる外観に感動してしまいました。

今、こうしてみても
古さを感じさせない良さがあります。

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この煉瓦造りの建物は明治からのもの。
当時の煉瓦は日本での生産は少なかったので
イギリスから持ってきたのだそうです。

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校内には立派な松の木が生えそろっています。
どれも綺麗に手入れされてます。

ところが不思議なことに
虫が全然つかないのだそうです。

実は強力な除虫剤をまいてるとのこと。、
夏場のセミも校内には寄り付くことはないそうで
校内は意外と静かだという話でした。

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見学は無料。
個人の場合は予約不要で受付時間に行けばOKです。
この日は15:00の最終回に参加したのですが
老若男女30人ぐらいの人数でした。

所要時間は1時間半。
校内をずっと歩いて回るのではなくて
半分の時間は資料館見学になっていました。
なので、歩く距離は2kmほどでしょうか。

ちなみに資料館は海軍関係がメインです。

内容にボリュームがあるので
時間が足らない人も多いと思います。

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さて、翌日は自衛隊の呉基地見学をしています。

本来は艦艇に乗れることになっていたのですが
大雨の影響で滑ると危険なので周辺見学のみでした。

考えて見ればいろんな人が来るので靴は千差万別です。
一応、服装規定みたいなのはあるようですが
安全第一ということなのでしょう。

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見学は江田島兵学校と同様に無料でした。
受付時間中に行けば見学することが出来ます。
開催はたしか日曜日のみだったと思います。

ガイドさんが付きます。自衛官の広報の方です。
朝9時の回でしたが20人ほどの参加がありました。

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イージス艦がないので
これといった目玉はないとのことですが
それでも間近で見る船は迫力がありますね。

写真も見える範囲は自由に撮っても良いとのことで
こんな自由で大丈夫なの?と聞いたところ

「大丈夫、受付でしっかりチェックしているし」
「北朝鮮やロシアだと警戒するけどね(笑)」

ちなみに受付では国籍を書く欄があるわけですが
身分証のチェックなどありませんでした(^^;

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ガイドさんはあらゆる質問に答えてくれます。
この船にはどんな兵器が付いているのだとか、
練習船の内容や海底ケーブルを引く船はどれだとか。

参加のみなさんは質問する人が多くて勉強になりました。
もし雨が降っていなければ大半が艦内見学だっただけに
色々と話が聞けてラッキーだったかもしれません。

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さてさて。
「大和ミュージアム」にも寄ってきました。
2回目の入場ですが相変わらず盛況で凄い人です。

ちなみに前回の旅はこんな感じでした↓

梅雨の岩国、呉、竹原の旅
http://borabora.seesaa.net/article/20224929.html

呉で海猿体験
http://borabora.seesaa.net/article/20631070.html

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圧巻なのは1/10スケールの巨大模型。

大和ほどの大きさなら1/100でも凄いものなのに
このスケールにはあらためて感動させられました。

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ミュージアムの隣には
潜水艦の博物館「てつのくじら館」があります。

入口前に本物の潜水艦が飾ってあり
まずは大きさに圧倒されます。

自衛隊の施設なので見学は無料。
無料にも関わらず豊富な資料と解説がありました。

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内容としては機雷と潜水艦の仕組みについてが多かったです。
なぜ、機雷の展示が大きくスペースを取られているかなんですが
海上自衛隊の発足当時の重要任務が機雷を除去するという
掃海の仕事だったからということのようです。

展示の最後には潜水艦の中に入ることができ、
潜望鏡で町の様子を眺めることも出来ました。

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そうそう、昼食ですが
呉といえば海軍カレーが有名のようですが
今回は広島焼きを食べています。

小奇麗なレストランのような店もあるのですが
オススメは町中にある小さなお店です。

大阪では町中にたこ焼き屋をあちこちで見かけますが
同じような感じでお店が点在しています。

てっぱんを前にして食べる料理は旨いですね。

  
[ここに地図が表示されます]
 


  
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2014年08月19日

紀州街道その2・泉佐野→和歌山城&熊野街道その4・泉佐野→紀伊

大阪と和歌山を結ぶ紀州街道。
今回はいよいよ県境です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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鶴原駅からスタート。
南海電車の片引き扉がカッコいいですね。

この先の一部は熊野街道と重複区間になってます。
宿場町や一里塚に加え、古くからの王子跡もあって
なかなか見どころある面白さがあります。

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犬鳴山への道標がありました。
泉州には県境に向けての街道が何本も出ています。

矢印型の道標は大正期に多いですが
これは明治期のものなのでちょっと珍しいですね。
犬鳴山はお不動さんや温泉があって今も関西の名所です。

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安松八丁畷の石地蔵。かなり古いものです。
ちなみに畷とは田の間の道、まっすぐな長い道の意味があります。

この付近は見渡す限り田畑ばかりで
まるで昔と変わらないような光景が広がっていました。

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籾井(もみい)は大阪夏の陣の激戦地のひとつ。
塙団右衛門と淡輪重政の墓がありました。
街道は集落内を縫うように通っています。

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中心部には籾井王子跡もあるのですが
民家の庭先にあり見つけるのに一苦労でした。
でもこうして碑だけでもあるのは嬉しいものです。

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厩戸王子跡は旧道筋に残る。

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信達(しんだち)宿。
およそ九百年前からの歴史がある集落で
古来より熊野詣の人々で賑わったそうです。

江戸時代になると参勤交代の宿場町になって
今も本陣の門が残っています。

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古い家並みが続く信達宿。

ふと目の前をちびっ子が疾走していきました。
こういうのを見てると懐かしい気分にさせてくれますね。

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信達一ノ瀬王子跡付近には林昌寺への道標が立っていました。
このお寺は「法林の庭」が有名だそうです。しかも無料。
”あたご”と書かれた道標がこの先にもありました。

ここからしばらくは緩やかな上り坂が続いていきます。
山が大きくなってきて峠が近いことを実感させられます。

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和泉鳥取駅付近には波太神社の大きな鳥居があります。
昔はここから少し離れた場所にある神社が見えたそうで
街道上から眺めて拝むという習慣があったそうです。

街道は川沿いへ。
熊野街道でも一番の難所”琵琶崖”が待ち構えています。

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藪が生えてる奥に崖が見えてきました。

通路というには心細くロープ伝いに進むしかありません。
一歩踏み外すと転落の恐れもあります(^^;

ちなみに琵琶崖の由来は琵琶法師が転落して亡くなり、
夜な夜な琵琶の音が聞こえるようになった。とのこと。

ひえぇぇぇ。暗くなったら通りたくないです。

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峠を前にした山中宿。

宿場内には古い建物が何軒か残っています。
本陣跡や石畳風の舗装もあり気分を盛り上げてくれます。

ここは春になると桜の名所として賑わいます。
駅前には古い形式の食堂が2店営業中でした。

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さあ、峠越えです。

”雄ノ山峠”は南海電車が走る”孝子越え”に比べると
山は険しい上に山岳区間が長いのが欠点なのですが
和歌山城までの距離が短いのは大きな利点だったようです。

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県境に架かる境川橋。
日本最後の仇討の現場でもあります。

紀州藩では罪人の国外追放の際は
ここにまで持ってくるのが基本だったそうですが
事前に日時を公に(仇を討つ者にも)知らせておいたので
待ち伏せて仇を討つことが出来たという話です。

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現代の雄ノ山峠は阪和道と阪和線が平行して
山は大きく切り開かれて昔の面影は少ないように思います。

峠を過ぎると一気に下りが始まります。

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淡路街道との交差点。
左に曲がると根来寺に行くことができます。

和歌山で淡路?というのも不思議な話ですが
奈良県から淡路、四国へ渡るのは紀ノ川北部の
淡路街道(南海道)がよく利用されていたそうです。

熊野街道はここで右に曲がります。

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しばらく行くと山口宿が現れました。
宿場の前後には枡形がきっちり残り雰囲気良い場所です。
宿内には山口御殿があり参勤交代の折に休憩したそうです。

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さて、紀ノ川を渡ります。

紀州街道には渡しが2ヶ所存在していました。
今回は熊野街道と共用する川辺の渡しを利用しました。

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紀ノ川を渡り終えると大和街道と合流して西に進みます。

堤防上の道は歩道がなく車がびゅんびゅん。
しかも夕方なので西日がきつく大変な区間でした。

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田井ノ瀬の橋付近にあった八軒屋(宿)。

ちなみに後日に
もう1つの田井ノ瀬の渡しルートも歩いてきました。

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ルート上の永穂集落に一里塚跡もあったので
こちらのほうがよく利用されていたのではと思います。

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現在の永穂側の田井ノ瀬の渡し場跡付近。

川の流れは江戸時代と比べると大きく変わってるので
どこが渡し場であったかは特定は難しいのですが
田井ノ瀬側は橋の南詰にあった言われています。

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和歌山城下に入ってきました。

四ヶ郷の一里塚は両塚が残っていて貴重なものです。
交差点名のアルファベットは「SHIKAGO」と書かれいて
周りには「シカゴ」と書かれた喫茶店もありました。面白い!

参勤交代の折には
ここまで和歌山城から見送りがあったそうです。

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古くからの賑わった場所の地蔵の辻。

ここには有名な地蔵さんがありましたが
今は300mほど逸れた場所に移転されています。

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嘉家作丁付近には古い家々が残っています。
道路南側にのみ家が立ち並んでる光景は昔も同じだったようで
道幅は4間半、北側は紀ノ川を望んで松並木があったそうです。

国道24号線を越えるとゴールはもうすぐ。

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本町通りを進みやがて和歌山城に到着です。
平民は京橋まで。京橋は名前の通り京に一番近い橋です。
大阪から2日で歩き終えることが出来ました。

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2014年08月11日

紀州街道その1・高麗橋→泉佐野

大阪の街道の起点”高麗橋”よりスタートします。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

紀州街道は和歌山城の京橋に至るルートで
江戸中期からは参勤交代でも使われた重要な道でした。

まずは堺筋を南下していきます。
堺筋はその名前の通り堺につながる道です。
普段は交通量が多いですが休日の早朝で静かでした。

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大大阪時代を感じるレトロ建築が目を楽しませてくれます。
御堂筋が整備されるまでは堺筋が大阪のメイン通りでした。

通りには美しい並木が生え揃っています。
御堂筋はイチョウですが堺筋はユリノキの並木です。
こういう統一された景観はいいものですね。

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道頓堀に架かる橋は日本橋。

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日本橋の電気街を抜けると新今宮の労働者の町に入ります。
しばらくはこれまでの雰囲気とは一変します。

この地域は一般的に治安が悪いように言われてますが
歴史的に江戸時代からも似たような地域だったようで
無宿人(家出など行くえ知れずの人)が集まり、
格安の宿(木賃宿)が多く一大社交場だったようです。

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鉄道の開通により南部(釜ヶ崎、萩ノ茶屋)に中心が移りますが
今も変わらぬ昔の街道風情を味わうことができます。

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大きな木が植わる天神ノ森天満宮。
街道を挟んだ向かいには天下茶屋の跡があります。

秀吉が休憩したところから「天下」の名前がついたそうで
戦前までは大きな池や建物が残っていたようです。

天下茶屋というと今や特急も止まる大きな駅になりました。
しかし街道沿いはこのとおり昔のまま。なんだかホッとしますね。

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阪堺電車の線路と平行して進んでいきますが
恵美須町と住吉大社までの区間は本数は少ないようです。
なかなか良いシャッターチャンスに恵まれません。

粉浜付近で道頓堀からの勝間街道と合流します。

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住吉大社は立派な灯篭が圧巻です。

紀州街道が整備されたのは江戸時代からでなのですが
整備以前は山側に平行している熊野街道がメインだったようで
他にも海が近いということで舟運も大いに使われたそうです。

それでも摂津一之宮である住吉大社と堺までの道は
古くから存在し住吉街道、岸の辺の道とも呼ばれていました。

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住吉大社は遣唐使船がここから出航したように
航海安全の神様でもありますよね。

かつては街道を少し離れるだけで海原が広がっていたそうです。
その名残は浜寺公園付近で見ることができます。

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街道は大和川を渡ります。

大和橋は幕府直轄の公儀橋でかなり立派なもので
大和川下流では唯一の橋でもあったようです。

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この交差点には環濠があったという。

堺に入ります。

かつて堺の町の周りには環濠があったのですが
今はほとんど埋められてしまっています。

その環濠に架かっていた橋が”北之橋”で
この橋を渡れば堺の町だったというわけです。

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町に入ると刃物を売る店が出てきました。
いかにも堺らしい光景ですよね。

大通りに入ると真ん中に阪堺電車が通っています。
向かって左側に旧家が多いので浜側を道路拡張したのでしょうか。

立派な道標がありました。
「右、住よし、大さか。左、妙国寺。」
妙国寺参拝の人のための道標でしょう。
この寺はソテツで有名で寺の前にも同じような道標が立っています。

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堺の中心は宿院付近。
立派な常夜灯が目を引きます。

この付近は戦時中の空襲で焼け野原になったので
古い建物が少ないのは残念なところです。

南側の環濠を渡り堺の町を後にします。

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石津の集落は古くからあったようです。
この先、浜寺公園、伽羅橋、高石と続いていきます。

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助松付近には立派な松の木と塀がありました。
参勤交代では本陣としても利用された田中家住宅です。

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泉大津の高層ビルが見えてきました。

かつて泉州といえば紡績で賑わったそうで
今もあちこちにノコギリ屋根の工場を見ることができます。

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泉大津の大津神社。
この地域のだんじり祭りの中心地です。

だんじり祭りは堺市南部から岸和田に多い祭りで
狭い路地を勢いよく走っていくのが魅力の一つです。

この街道筋も例外ではないようで
祭りの時はまた違った表情を見せてくれそうです。

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だんじり小屋があちこちに。

泉州の名物といえば水なすです。
無人販売の店が道中にありました。3つ入って100円でした。

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岸和田に近づくにつれ古い家が増えてきます。

レトロモダン。右の建物は元は銀行でした。
岸和田は明治から大正にかけての建物も多く残っています。
さすがは泉州の中心地といった風情です。

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欄干橋には道路元標が置かれ交通の中心といえる場所でした。
「らんかんまで 〇〇里」こんな感じの案内板もあったそうです。

ここから岸和田城下の中心に入っていきます。

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城の西側にこんな町並みがあったんですね。驚きました。

資料館もあり雰囲気良い町並みです。
状態もよくいずれ重伝地区に指定されているかもしれません。

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天性寺は通称”蛸地蔵”です。
地蔵堂としては日本最大なんだとか。

由緒としては岸和田城に一揆が襲来したときに
1人の大法師と数千の蛸が危機を救ったのだそうです。

参道前には立派な道標がありました。

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海が見えてきました。
ここからは街道はやや山側へと移っていきます。

南海電車の貝塚駅付近は寺内町で
大きな願泉寺が町の中心部に建っています。

街道は碁盤の目のような町中を進んでいきますが
府道から少し離れると雰囲気良い家並みが残っていました。

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この辺りまで来ると田畑が多くなってきます。
遠くにはりんくうタワーも見えてきました。

やがて今回のゴールの鶴原駅。
その手前には立派な道標が立っています。

「左は紀州わか山。右は大川、あわしま。」

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ここで紀州街道は2筋に別れます。
1つは熊野街道と重複して山中渓を通るルート、
もう1つは孝子越えという南海電車沿いのルート。

次の記事では参勤交代路である
山中渓を通るルートで進んでいきます。


  
posted by にゃおすけ at 20:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野・紀州への街道 | 更新情報をチェックする