時代によってルートが変更になってる場所があります。
その一つが長野県の塩尻付近で
江戸初期は塩尻峠ではなく小野峠を経由していました。
この道筋を一般的に初期中山道と呼ばれています。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
9月にも関わらず吐く息が白い朝でした。
京都側の日出塩駅から攻めてみました。
近年の初期中山道は観光にスポットが当てられ、
塩尻市ではガイドマップ(無料)が発行されたり
道中には案内看板が設置され歩きやすくなってきました。
→ 初期中山道のページ(塩尻商工会議所)
http://shokinakasendo.shiojiri.com/map
ただ、このような一般向けのマップは
安全を優先として描かれている場合が多く、
本来の道とは違うことがあるので注意が必要です。
(今回は出来る限り昔の道をなぞるように歩いています)
国道19号からはこの坂を登っていきます。
中山道の桜沢付近が初期中山道との追分にあたります。
この付近は中央本線の工事などによって
周辺の地形が大きく変わってしまってるのですが
本来は中山道の高巻き道から分かれていたと思われます。
→ 高巻きとは
沢登り、登高困難な場所を避けて山腹に道をとり、
その場所の上に遠回りして出ること。
おそらく、この馬頭観音が道標代わりだったのではと思います。
台座には「贄川」「いな」の文字が確認できます。
いかにも古道な雰囲気。
沢を渡って向こう岸へ。
ここから先は道がわかりづらくなっていて
斜め上を見あげると県道が見えてきます。
今回は無理矢理よじ登ったのですが
この先で沢と県道の高低が同じレベルになるので
その地点こそが本来の初期中山道と県道との合流点かもしれません。
ここからは森林の中を縫うように
ガイドブックに書かれたルートを進んでいきます。
そういえば、冒頭に江戸初期に付け替えられたと書きました。
年としては1616年で中山道が出来たのは1602年ということなので
中山道として生きた期間はわずか14年ほどしかありません。
そんな古道の道筋が今もなぜ残ってるか?ですが、
中山道の指定から外れた後も権兵衛峠が整備されるまでは
木曽谷と伊那谷を結ぶ道として最重要路で機能していたので
今も至るところに往時の賑わいを偲ぶことができるというわけです。
もちろん、場所によっては面影がないところもあります。
例えば、上のヘアピンは往時は沢沿いに進んでいたことでしょう。
最初の峠は牛首峠です。
見事に視界が開けてきました。
これまでは朝日が木曽の山に隔たれて
鬱蒼とした中を進んでいたたけにこの開放感は嬉しいですね。
それにしても牛首峠の名前は少し変わっています。
こういう変わった名前のところって由来が変わってたりするもので・・・
史跡。牛首塚。
周辺に住んでいた娘(お玉)と飼っていた牛がいたわけですが
ある日、お玉は目を患ってしまいます。
それからは牛に乗って目の病に効く泉に通っていたところ、
しばらくして泉の近くの坊さんに恋をして世を儚んで心中したそうです。
それから、お玉がいなくなってからの牛は
暴れ狂って田畑を荒らしまわるようになったので
村人は牛の首を切ってこの地に埋めたということです。
・・・なんとも可哀想なお話です。
一里塚の跡。
旧道入り口。
歩みを進めていきましょう。
この先に山口集落があるのですが
集落までの道に旧道が存在しています。
こんな感じの藪道です。
春先ならまだマシなのでしょうが
時期が9月だったので一番酷い時でした。
こういう時は迂回も妥当なのですが
でもやっぱ旧道なので高まる気持ちを抑えられません。
入ってしまえば路盤は固く意外と進みやすい道でした。
小野宿までに集落が3ヶ所ありますが
どの集落にも家紋入りの蔵があったりと
往時の繁栄ぶりを感じることが出来ます。
コスモスが咲き乱れ、
秋真っ盛りの初期中山道。素晴らしいですね。
小野宿は三州街道の宿場町でもあります。
雀おどしのある立派な旧家が立ち並びます。
この宿場で有名なものの1つは
小野酒造さんの「夜明け前」というお酒。
あの島崎藤村の小説にも関わりがあるようです。
ひときわ目立つ大きな小野宿問屋。
この日はラッキーなことに開放日になっていました。
毎月第二日曜日。予約は不要です。
小野峠の方角も清々しい青空。
中は寺子屋の跡にもなっていて
全体的に重厚な造りで感動ものです。
窓からはこれから上る小野峠が良く見えてました。
小野峠への道筋には見どころが何か所かあり、
どれも魅力的なものばかりです。
この「色白水」は顔を洗ったり飲んだりすると
肌が白く美人になるといわれています。
その成分は限りなく中性に近いのだそうです。
水には綺麗な透明感もありました。
ここが一里塚への旧道の入り口。
次なる見どころは一里塚ですが
この色白水からは旧道が伸びています。
この旧道を辿っていくと
塚と塚の間に出ることができます。
江戸から数えて58番目の一里塚。
両塚がしっかり残ってるのは嬉しいですね。
塚の少し先には
日本武尊伝説がある「沓掛石」
東征した折に休んだと言われています。
この石の横には大きな池があるのですが
この池は明治の地図には存在していません。
聞くところによると
なにやら塩尻峠のトンネルや開発の影響で
水の流れが変わってしまったのだとか。
先ほどの色白水も昔はなかったという話もあります。
小野峠の手前で天然記念物の「枝垂れ栗」を見て
旧道を進んでいくと峠にたどり着きます。
小野峠。
小野峠は深いすり鉢状の場所にあるので
眺望はまったくもって何もありません。
天気の良い日は是非とも
右の登山道を進んで展望台に寄ってみましょう。
ものの5分で360度のパノラマが楽しめます。
諏訪湖や八ヶ岳が目の前に見え、
遠くは白馬、御嶽山まで。
右の奥の山が塩尻峠。左奥に松本平。
ここは標高1,075m。
寄っておいて損はない眺めです。
峠を下っていきます。
少し藪っている場所もありますが
先ほどの藪と比べると子供みたいなものです。
やがて大きな石仏「宿返しの石」が現れます。
どこか下諏訪の「万治の石仏」に似ていますよね。
宿返しの石をズーム。
ここから先の道筋は2つの説があるそうです。
真っ直ぐ進むルートと左に折れるルート。
この付近の道筋は4〜5日で出来たといわれています。
工期的に考えると直線に結ぶのが楽なわけで
直進が本来の道と考える識者が多いようです。
真っ直ぐの道はこんな感じ。
おそらくは、どちらも古い道には違いないのですが
真っ直ぐの道は明治の地図では途中で伊那へと折れているので
主に伊那に向かう人が使っていたのではと思われます。
そして初期中山道は左と考えるのが自然でしょう。
ただ、こういう面白い話を聞きました。
この「宿返しの石」は意外と古くないのだそうです。
少なくとも江戸初期にはなかったのではと考えられています。
左の道はこんな感じ。
こういう重要となる追分には
必ずといって良いほど目印があるわけで
江戸初期に石仏がなかったと仮定するならば
中山道だった時代は左の道がなかった公算が高いです。
この辺り、もう少し検証が必要かもしれません。
ちなみに下諏訪の万治の石仏は1660年に作られています。
「宿返しの石」は万治の石仏を模して作られたとするならば
それ以降に作られたと考えることも出来ますね。
山を下って行くと次第に住宅街の中へ。
家々に挟まれる形で一里塚が存在しています。
現在は片方のみ残っていました。
57番目の三沢の一里塚です。
伊那街道と合流して岡谷市街地へ。
長野自動車道の高架の手前の山側には
旧道のようなウネウネ道が存在しています。
その道筋には石仏が多くあるので
もしかすると本来の街道だった可能性もありますが
道幅的に?なので確証はありません。
東山道の駅の跡。
ただ、この辺りは歴史を感じるものが多く、
東山道時代の駅の跡もあったりするので
いろいろと複雑に道筋があったのはたしかでしょう。
岡谷市内をたんたんと車道沿いを進んで行くと
左の民家に一里塚の碑が見えてきます。
丸加製作所の先の民家の庭なのですが
石碑にはトタンが被せられパッと見わかりません。
せっかくの碑なのにこれでは勿体ないですよね。
これでは誰も気づかない・・・。
川を渡ります。
この川は地質的に水が地面に染みこみやすいとのことで
常に水量は少なく昔は歩いて渡河していたそうです。
ずーと真っ直ぐ進んで行くと
有名な伊那道道標がある場所で中山道と合流します。
ところが!
初期中山道時代の合流場所は別の地点にあります。
かなりの年代ものの石橋。
先ほどの川の地点から分岐すると
このような感じの道を通っていきます。
よくもまあ、痕跡が残っていたものです。
中山道として廃止された後も地域で利用されてたのでしょう。
この地点で中山道と合流します。
詳しいルートは上にあるマップをご覧ください。
今回、資料を集めるにあたって
岡谷郷土学習館の方々にお世話になりました。
→ 岡谷郷土学習館
http://www.82bunka.or.jp/bunkashisetsu/detail.php?no=762
あと、今回歩いてる途中でTwitterの方と出会ったりするなど
あらゆる面で満足度が高い街道歩きになりました。
初期中山道。古き良き日本の光景が待っています!
→ 当日の歩きながらのTwitter実況
http://togetter.com/li/720373