2014年09月24日

初期中山道・日出塩駅→下諏訪宿

中山道は日本橋と京の三条大橋を結んでいますが
時代によってルートが変更になってる場所があります。

その一つが長野県の塩尻付近で
江戸初期は塩尻峠ではなく小野峠を経由していました。
この道筋を一般的に初期中山道と呼ばれています。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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9月にも関わらず吐く息が白い朝でした。

京都側の日出塩駅から攻めてみました。

近年の初期中山道は観光にスポットが当てられ、
塩尻市ではガイドマップ(無料)が発行されたり
道中には案内看板が設置され歩きやすくなってきました。

→ 初期中山道のページ(塩尻商工会議所)
http://shokinakasendo.shiojiri.com/map

ただ、このような一般向けのマップは
安全を優先として描かれている場合が多く、
本来の道とは違うことがあるので注意が必要です。
(今回は出来る限り昔の道をなぞるように歩いています)

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国道19号からはこの坂を登っていきます。

中山道の桜沢付近が初期中山道との追分にあたります。

この付近は中央本線の工事などによって
周辺の地形が大きく変わってしまってるのですが
本来は中山道の高巻き道から分かれていたと思われます。

→ 高巻きとは
沢登り、登高困難な場所を避けて山腹に道をとり、
その場所の上に遠回りして出ること。


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おそらく、この馬頭観音が道標代わりだったのではと思います。
台座には「贄川」「いな」の文字が確認できます。

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いかにも古道な雰囲気。

沢を渡って向こう岸へ。
ここから先は道がわかりづらくなっていて
斜め上を見あげると県道が見えてきます。

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今回は無理矢理よじ登ったのですが
この先で沢と県道の高低が同じレベルになるので
その地点こそが本来の初期中山道と県道との合流点かもしれません。

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ここからは森林の中を縫うように
ガイドブックに書かれたルートを進んでいきます。

そういえば、冒頭に江戸初期に付け替えられたと書きました。
年としては1616年で中山道が出来たのは1602年ということなので
中山道として生きた期間はわずか14年ほどしかありません。

そんな古道の道筋が今もなぜ残ってるか?ですが、
中山道の指定から外れた後も権兵衛峠が整備されるまでは
木曽谷と伊那谷を結ぶ道として最重要路で機能していたので
今も至るところに往時の賑わいを偲ぶことができるというわけです。

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もちろん、場所によっては面影がないところもあります。
例えば、上のヘアピンは往時は沢沿いに進んでいたことでしょう。

最初の峠は牛首峠です。

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見事に視界が開けてきました。

これまでは朝日が木曽の山に隔たれて
鬱蒼とした中を進んでいたたけにこの開放感は嬉しいですね。

それにしても牛首峠の名前は少し変わっています。
こういう変わった名前のところって由来が変わってたりするもので・・・

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史跡。牛首塚。

周辺に住んでいた娘(お玉)と飼っていた牛がいたわけですが
ある日、お玉は目を患ってしまいます。

それからは牛に乗って目の病に効く泉に通っていたところ、
しばらくして泉の近くの坊さんに恋をして世を儚んで心中したそうです。

それから、お玉がいなくなってからの牛は
暴れ狂って田畑を荒らしまわるようになったので
村人は牛の首を切ってこの地に埋めたということです。

・・・なんとも可哀想なお話です。

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一里塚の跡。

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旧道入り口。

歩みを進めていきましょう。
この先に山口集落があるのですが
集落までの道に旧道が存在しています。

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こんな感じの藪道です。

春先ならまだマシなのでしょうが
時期が9月だったので一番酷い時でした。

こういう時は迂回も妥当なのですが
でもやっぱ旧道なので高まる気持ちを抑えられません。
入ってしまえば路盤は固く意外と進みやすい道でした。

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小野宿までに集落が3ヶ所ありますが
どの集落にも家紋入りの蔵があったりと
往時の繁栄ぶりを感じることが出来ます。

コスモスが咲き乱れ、
秋真っ盛りの初期中山道。素晴らしいですね。

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小野宿は三州街道の宿場町でもあります。
雀おどしのある立派な旧家が立ち並びます。

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この宿場で有名なものの1つは
小野酒造さんの「夜明け前」というお酒。
あの島崎藤村の小説にも関わりがあるようです。

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ひときわ目立つ大きな小野宿問屋。

この日はラッキーなことに開放日になっていました。
毎月第二日曜日。予約は不要です。

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小野峠の方角も清々しい青空。

中は寺子屋の跡にもなっていて
全体的に重厚な造りで感動ものです。

窓からはこれから上る小野峠が良く見えてました。

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小野峠への道筋には見どころが何か所かあり、
どれも魅力的なものばかりです。

この「色白水」は顔を洗ったり飲んだりすると
肌が白く美人になるといわれています。

その成分は限りなく中性に近いのだそうです。
水には綺麗な透明感もありました。

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ここが一里塚への旧道の入り口。

次なる見どころは一里塚ですが
この色白水からは旧道が伸びています。

この旧道を辿っていくと
塚と塚の間に出ることができます。

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江戸から数えて58番目の一里塚。
両塚がしっかり残ってるのは嬉しいですね。

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塚の少し先には
日本武尊伝説がある「沓掛石」
東征した折に休んだと言われています。

この石の横には大きな池があるのですが
この池は明治の地図には存在していません。

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聞くところによると
なにやら塩尻峠のトンネルや開発の影響で
水の流れが変わってしまったのだとか。
先ほどの色白水も昔はなかったという話もあります。

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小野峠の手前で天然記念物の「枝垂れ栗」を見て
旧道を進んでいくと峠にたどり着きます。

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小野峠。

小野峠は深いすり鉢状の場所にあるので
眺望はまったくもって何もありません。

天気の良い日は是非とも
右の登山道を進んで展望台に寄ってみましょう。

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ものの5分で360度のパノラマが楽しめます。

諏訪湖や八ヶ岳が目の前に見え、
遠くは白馬、御嶽山まで。

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右の奥の山が塩尻峠。左奥に松本平。

ここは標高1,075m。
寄っておいて損はない眺めです。

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峠を下っていきます。

少し藪っている場所もありますが
先ほどの藪と比べると子供みたいなものです。

やがて大きな石仏「宿返しの石」が現れます。
どこか下諏訪の「万治の石仏」に似ていますよね。

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宿返しの石をズーム。

ここから先の道筋は2つの説があるそうです。
真っ直ぐ進むルートと左に折れるルート。

この付近の道筋は4〜5日で出来たといわれています。
工期的に考えると直線に結ぶのが楽なわけで
直進が本来の道と考える識者が多いようです。

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真っ直ぐの道はこんな感じ。

おそらくは、どちらも古い道には違いないのですが
真っ直ぐの道は明治の地図では途中で伊那へと折れているので
主に伊那に向かう人が使っていたのではと思われます。
そして初期中山道は左と考えるのが自然でしょう。

ただ、こういう面白い話を聞きました。
この「宿返しの石」は意外と古くないのだそうです。
少なくとも江戸初期にはなかったのではと考えられています。

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左の道はこんな感じ。

こういう重要となる追分には
必ずといって良いほど目印があるわけで
江戸初期に石仏がなかったと仮定するならば
中山道だった時代は左の道がなかった公算が高いです。

この辺り、もう少し検証が必要かもしれません。
ちなみに下諏訪の万治の石仏は1660年に作られています。
「宿返しの石」は万治の石仏を模して作られたとするならば
それ以降に作られたと考えることも出来ますね。

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山を下って行くと次第に住宅街の中へ。
家々に挟まれる形で一里塚が存在しています。

現在は片方のみ残っていました。
57番目の三沢の一里塚です。

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伊那街道と合流して岡谷市街地へ。

長野自動車道の高架の手前の山側には
旧道のようなウネウネ道が存在しています。

その道筋には石仏が多くあるので
もしかすると本来の街道だった可能性もありますが
道幅的に?なので確証はありません。

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東山道の駅の跡。

ただ、この辺りは歴史を感じるものが多く、
東山道時代の駅の跡もあったりするので
いろいろと複雑に道筋があったのはたしかでしょう。

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岡谷市内をたんたんと車道沿いを進んで行くと
左の民家に一里塚の碑が見えてきます。

丸加製作所の先の民家の庭なのですが
石碑にはトタンが被せられパッと見わかりません。
せっかくの碑なのにこれでは勿体ないですよね。

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これでは誰も気づかない・・・。

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川を渡ります。
この川は地質的に水が地面に染みこみやすいとのことで
常に水量は少なく昔は歩いて渡河していたそうです。

ずーと真っ直ぐ進んで行くと
有名な伊那道道標がある場所で中山道と合流します。

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ところが!
初期中山道時代の合流場所は別の地点にあります。

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かなりの年代ものの石橋。

先ほどの川の地点から分岐すると
このような感じの道を通っていきます。

よくもまあ、痕跡が残っていたものです。
中山道として廃止された後も地域で利用されてたのでしょう。

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この地点で中山道と合流します。
詳しいルートは上にあるマップをご覧ください。

今回、資料を集めるにあたって
岡谷郷土学習館の方々にお世話になりました。

→ 岡谷郷土学習館
http://www.82bunka.or.jp/bunkashisetsu/detail.php?no=762

あと、今回歩いてる途中でTwitterの方と出会ったりするなど
あらゆる面で満足度が高い街道歩きになりました。

初期中山道。古き良き日本の光景が待っています!

→ 当日の歩きながらのTwitter実況
http://togetter.com/li/720373

  
 
posted by にゃおすけ at 19:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中山道六十九次 | 更新情報をチェックする

2014年09月10日

幻の徳川道その2・鈴蘭台→白川→大蔵谷

六甲山中を進む徳川道。
西国街道のバイパスとして作られた道です。
後半は鈴蘭台よりスタートです。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

今回の鈴蘭台から終点の大蔵谷にかけては
大規模な開発で徳川道の状態がよくありません。

そういう状況の中でも
いかに昔の道筋を辿っていけるかが面白いところで、
「ここに丘があったから迂回していたんだな」など、
歩いていると想像が膨らんで楽しいものです。

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旧道と迂回路の分岐点

星和台小学校付近。
ここからは再び山へと進路を取っていきます。

参考本の神戸市の「徳川道 西国往還付替道」によると
上の写真の分岐点から左に進む形になってるのですが
ハイキングマップには存在しない道なんですよね。

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「徳川道 西国往還付替道」より

この参考本は昭和53年の発行と古く、
ネットで通った人の記事を調べても出てこないので
てっきり廃道になってるものだと思っていました。

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それらしき入口があったので入ってみたところ、
意外や意外。いい感じの登山道が残っています。

しかも、徳川道を示す古い案内看板まで。

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石積みらしきものも発見。

こんな感じで1kmほど普通に歩くことが出来たのですが
この広く開けた場所からは大変なことになってました。

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開けた場所にある橋の跡。

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藪。しかも大藪です。
冬の時期だと多少はマシとは思うのですが
結局撤退して最初の分岐点に戻ることにしました。

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迂回路はとても気持ちの良い道でした。

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本来の徳川道の出口がこちら。
あの藪を掻き分けて行くとここに出たと思われます。

門は施錠され立入禁止のようになっていました。
何やら公園の施設を作ってるような気配があり、
もしかすると再整備の可能性があるかもしれません。

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ぎゃー、こんなところに廃車が。

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たんたんと登山道を白川の集落へと向かいます。

さほど通る人がいないのか
道の状態が悪く少しドロドロになっていました。

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高速道路が途中に2ヶ所あり谷状になっています。
江戸時代はそのまま尾根を進んでいたと想像できるので
現代はとんだ難所を作ってしまったようです。

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大歳神社の脇に出てきます。
久しぶりの人里です。

白川は宿場になる予定だった場所の一つ。
それだけに古い集落の雰囲気がありました。

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白川は地名にもある通り
川のある谷間にある村だったので、
徳川道は再び山へと進路をとっていきます。

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こういう尾根道を通っていたようですが
途中で住宅開発で分断している場所があったりと
今まで以上に旧道が残っていない状態です。

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分断されてる!!

再び、徳川道の痕跡が現れるのは
学園都市駅近くの高塚山付近からになります。

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近年になって高塚山は
ハイキングコースとして整備されたようで、
案内板にはしっかり徳川道と書かれています。

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昔の地図と照らし合わせても
ほぼ同じ道筋を辿っているので嬉しいですね。

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このハイキングコースは
前半の高塚山部分と後半の長坂部分に分かれてますが
どちらも程よいアップダウンが続く歩きやすい道です。

長坂付近は木の伐採がも行われていて
見渡しが実に良いものでした。

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長坂を過ぎると
住宅街に入り市街地になっていきます。

大きな道が何本もあるのですが
徳川道は一車線の旧道を進んでいきます。

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高台を進んでいきます。
途中に山神を祀った祠がありました。
昔はここに小高い山があったのだそうです。

元は山だっただけに眺め最高!
明石大橋や淡路島もバッチリです。
ここからは海岸へと一気に下っていきます。

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やがて左に川を見て西国街道と合流します。

【まとめ】

今回歩いた徳川道の後半部分は
すれ違った人はモトクロスの1台のみという感じで
登山道が荒れている箇所が多かったです。
たしかに開発されてしまってるので町歩きが多く
前半部分に比べると魅力が少ないかもしれません。

しかしながら、ラストの眺望の良さは
かつては山だったことを大いに実感させられるものでした。
途中の高塚山ハイキング道も素晴らしいものですし
幕末の名残りを求めて歩かれてはいかがでしょうか。


  
posted by にゃおすけ at 18:32 | Comment(2) | TrackBack(0) | 西国街道(山陽道) | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

幻の徳川道その1・石屋川→鈴蘭台

六甲山中を進む徳川道は全長約34km。
西国街道のバイパスとして作られた道です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

スタートは阪神石屋川駅付近。
ここは西国街道との追分になっていて
徳川道の起点であることを示す看板が立っています。

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今や六甲山のハイキング道で人気の徳川道ですが
元は幕末期に神戸市街地を避けるように作られた道で
大名と外国人とのトラブルを未然に防ぐ目的があったそうです。

当初は西国往還付替道と命名されたのですが
大正期にハイキング道”徳川道”として生まれ変わっています。

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護国神社から先にある長峰坂。

長い急坂が続きます。
昔はこの付近はすでに山道だったそうですが
今ではすっかり住宅地の様相になってしまってます。

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徳川道の入口がこちら。
基本的に案内看板通りに進むと峠に着くことができます。

ここから先は一気に登山道の様相になるのですが
狭くて急坂な場所は本来の徳川道でないことが多いようです。

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近年になり峠までの道筋には堰堤がいくつも築かれ、
それを回避するように新たな道が作られてしまいました。
また阪神大震災での土砂崩落の影響もあったかもしれません。

当初の目的では大名行列も想定していたでしょうし
今よりはいくぶん緩やかで歩きやすかったものと思います。
現在の徳川道は幕末時よりも相当ハードな道になっているようです。

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こういう沢渡りが多いのも特長的ですね。
前日の降雨量に十分チェックしないと痛い目にあいます。

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所々に石積みが残ってるのは嬉しいところです。
これが江戸時代のものかどうかの見分けは難しいところですが
山中では何か所かで古い時代のものがあったように思います。

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杣谷峠。「そまだに」と読みます。
標高は650mということもあって涼しいです。

ここからの徳川道は
あえて神戸市街を見下ろせないルートをとっていきます。

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穂高湖。

なかなか美しい湖です。
上高地の大正池に似ていることから命名されたといわれています。
ですので命名は昭和初期になるのでしょうか。

この付近の徳川道が湖にわざわざ寄っているのは
おそらく馬などの飲み場確保のためだったのでしょう。

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高原のような道筋が続きます。
幾度も川と交差し沢を渡っていきますが
森林植物園の手前には「飛び石渡り」が残っています。

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大きな石が直線上に置いてあって
それを伝って川を渡るというものですが
どの石も立派なもので渡りがいがありました。

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森林植物園内(有料)の中を進み、
昔からある大きな長谷池の横を通り出口へ。

池には睡蓮が咲き誇っていました。
そして紫陽花も8月にも関わらず結構咲いていて
標高が高いことを思い知らされます。

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森林植物園を出ると最初の藪漕ぎ区間です。
高校の横から入るのですが実に難解です。

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右手の門の横から入ります。

藪自体はそれほどではないのです。
入口は二又に別れてるのですが整備されたほうは行き止まりで
鬱蒼とした雰囲気のほうの道が正解なのです。

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やがて、すずらんの湯に出てきますが
この付近は無理矢理駐車場に出るしかありません。
詳しくはヤマレコでの記録をご覧ください。

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すずらんの湯の周辺は
現在の有馬街道(古くは天王谷越)との交点になります。

ここは丁度、谷間になっているので
西へ向かう徳川道は再び山へと進路を取ります。

次の難所は惣山です。

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惣山は今や住宅開発によって
昔の面影は一部現存しているハイキングコースしか残っていません。

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惣山の麓には古い道標が残っていました。
「右 ニたび山 左 まや山道」

ここが徳川道であった何よりの証拠です。

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徳川道の1回目は鈴蘭台西口駅で終了としました。
一気に石屋川から大蔵谷まで歩こうと思えば行ける距離ですが
ルート上に廃道など不確定要素が多いので2回に分けました。

山道があると時間配分が難しいですね。
次回も結構な藪道があるそうなので覚悟して進みます。


  
posted by にゃおすけ at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 西国街道(山陽道) | 更新情報をチェックする