2015年04月07日

【INGRESS】4か月が経過してのテクニックや雑感など

12月から始めて4か月が経ちました。

Ingressは青と緑の陣取り合戦なわけですが
続けていくうちプレイスタイルに変化が出てきました。

今回はどのような流れでレベルをあげてきたのか、
時間経過とともにノウハウを交えて書いていこうと思います。

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INGRESSプレイイメージ

まずはレベル1→レベル8までは
だいたい10日ぐらいであがっています。

英語アプリなので当初は何がなんだかわからず、
インストール自体は11月にしていたものの
レゾ?MOD?何それ?って感じでした。

たとえば、敵ポータルをハックするとダメージを受けますが、
-5%とかの表示を見てダメージを食らわしてやったぜ!ははは!と
小躍りしてました。(注・こっちがダメージを受けてます)

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攻撃アイテムはレベルによって威力が違う

レベル1からレベル4はひたすらハックでした。
リンクやCFのノウハウがわかってきたのはレベル5ぐらいから。

この時はまだキーの仕組みや多重なんて何もわかっていません。
リンクボタンを押して出た場所をひたすらリンク、リンク。
今考えると結構迷惑なことしていたかもしれません。

でも、このひたすらリンクをすることで
キーの仕組みがわかってきました。

Aというポータルがあるとしましょう。Aにはキーがあります。
Bのポータルにはキーがありません。
どうすればAとBをリンクすることが出来るのか。

答えはBの場所まで行けばAへリンクすることができます。
この時、リンク先にあったAのキーが消失します。
ようするにリンク起点側のキーはいらないわけです。

CFという三角形を作るとポイント(AP)を稼げるのですが
三角形を作るにはリンクを3本(場合によっては1本2本)張る必要があるので、
キーの仕組みこそが攻略上の重要ポイントかなと思います。

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スキー板でハックしたこともありました

レベル5あたりから使い始めたのは
IntelMapという広域を見渡せる地図。

かなり重い時があるのですが見渡せることによって
次はここに行こう!など楽しみが出来ました。

ポータル群が密集している場所への遠征は
AP稼ぎにかなり有効でCF作りの練習にもピッタリ。

大阪では四天王寺や住吉大社、布施、
緑ファームの京橋へも出かけていました。

レベル7になると火力の強いバスターを使えるのですが
住吉大社の境内に緑のCFが大量にあったところを、
一気に焼いてAPが大量に貯まってスカッとした記憶があります。

ただ、大量に焼いたことで緑に恨まれないかと
その日1日は少しビクビクしていました(^^;

あとになって余程のこと以外は恨まれないと知ったのですが
これぐらいのレベルの時は世界観がよくわかってなかったというか、
Ingress的にはまだまだ何もわかってなかったのかなと思います。

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エージェント画面に表示されるメダルの数々

レベル8から上のレベルになるには
リンクの本数や歩行数など実績に応じたメダルが必要です。

実績メダルがないといくらAPがあっても
上のレベルにはあがれず歯がゆい思いをします。

この実績メダルはいろいろ種類がありますが、
レベル6ぐらいの時から何をどうすればメダルを貰えるのかを
意識するようにプレイするようになってきました。

今思えば、もっと早い段階で意識しておけば
トントン拍子でいったのではと思えてなりません。

例えば、Builderというメダルは
レゾネーターを刺した回数の実績によるものです。
これって自分が刺した上へのアップグレードも有効なんですよね。

1レゾが刺されていたら2レゾを上書き、
さらに3レゾ、4レゾと上書きしていくとその分の回数がカウントされます。
自分のレゾのアップグレードではAPは貯まりませんが
この地道な積み重ねこそが実績稼ぎという点で有効なんだと思います。

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知らず知らず長距離を歩いてしまうことが多々

レベル11到達は始めてから1か月でした。

1月初旬からは地域の青の仲間との連携できる
ハングアウトというチャットアプリを使うようになりました。
これに加えGoogle+のコミュニュティも利用しています。

そして、地元で派手に活動していると
敵の緑さんに声をかけられることが増えてきました。

実はこれまでは緑さんに対する意識は
せっかく作ったのを壊すなんてヒドイ!いや〜んな感じしたが、
実際に会ってみると皆さん礼儀をもって接してくれる。普通の人間。

当然といえば当然ですがゲームというバーチャルな世界なだけに
過剰なまでに敵だ!敵だ!と警戒していたのかもしれません。

今の緑さんへの意識は
CF壊してくれてありがとう的な感覚です。(少し美化しすぎか?)

と、いうのも、キーを大量に持っている地元において
破壊がないとCFが作れずほとんど何も出来ない状況に陥ります。
APをどんどん稼ぎたい今はどんどんCFを作りたいわけで
上のレベルになるにつれこのような意識へ変化していきました。

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多重CFの例

レベル12は1月中旬、レベル13は2月頭で到達しました。

この頃に覚えたのは多重CFというもの。
人によってはもっと早い段階で理解している人もいると思いますが
パズルが苦手ということもあって後手後手になってきてました。

多重CFの利点はいろいろあるのですが、
稼げるAPの量が普通に作るより多いことが一番でしょう。
キー集めや頭を使わないといけないのが少しややこしいですが
今思えばもっと早い段階でマスターしておけばよかったと思います。

多重CFを理解する上で転機になったのは
大阪の青に所属するDai Tさんの以下の動画でした。



シリーズものになっていてどれも見応えがあります。

多重を作るようになってからは
イベントリの中の割合に変化が出てきました。

イベントリとは自分が持つことができるアイテム一覧です。
アイテムは2000個までしか持つことができないので限られたスペースで
バスターやレゾ、キーなどやり繰りするのもIngressの面白いところです。

以前はキーは200程度だったのですが
今では常時500程度持っています。

キーが増えたということは何かを減らす必要があって
特にレゾは各レゾ100以上常備していたものが

4レゾ40、5レゾ30、6レゾ35、7レゾ35、8レゾ120

大体このような割合になっていきました。
もちろん、プレイスタイルによるとは思うのですが
4と5は現地で調達できるのでこれぐらいで十分かと思います。

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現在のレベルは14。3月中旬に到達しました。

Ingressのノウハウがだいぶわかってきた時期に
京都で大規模なイベントが行われました。

「XMアノマリーShonin-証人-」

内容的には計測時間が4回設けられていて
時間内にいかに有利に進めれているかが競われるというもので
約5000人(これ以上?)の参加者がありました。

このイベントには1人で参加しても良いのですが
今回は地元のチームに入って参加しています。
開催の一週間前には作戦会議があったり、
Web上でアイテムの状況や質問など随時やったりと
重大任務の一員になれた気がしてワクワクするものでした。

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で、本番当日。

大勢の敵を目の前にしてバトルを繰り広げます。
物量戦ですが頭脳戦といっても過言ではないでしょう。
8レゾが飴の様に溶けていく様は衝撃的でした。

詳しいことは他の人のレポを読んで頂くとしまして
Ingressの楽しみ方はほんと幅広いですね。

さいごに。

史跡がポータルになっていることから
歴史好きな自分はどんどんハマっていったわけですが
今後もますますハマっていくだろうなと思います。

あくまでリアル優先で。
最近は街道歩きをしてる時でも
Ingressを立ち上げていることが多くなってきました。

どっちがメインかわからん・・・(笑)

さて、今後の予定ですが
レベル15には5月上旬。16は7月上旬を目指します。
予定通りいくかな?しばらく廃人状態が続きそうです。

  
posted by にゃおすけ at 19:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム(Ingress・ポケモン) | 更新情報をチェックする

2015年04月01日

淀川河口部の道の変遷と梅田街道・難波橋→尼崎

先日、大阪歴史博物館の講演会で
梅田街道が取り上げられていました。
大阪は中之島の難波橋から尼崎の大物への道です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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難波橋は通称”ライオン橋”で人気があります。
明治45年に架橋されています。

それ以前の橋は25mほど下流に架かっていました。
ここが梅田街道のスタート地点になります。

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横に流れるの堂島川。そして中之島が見えます。
江戸時代は蔵が立ち並んでいました。

川筋には数多くの案内板が設置されて
天下の台所と言われた大坂を感じることができます。

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かつての大阪市内は舟運が盛んで
市内を縦横無尽に運河が掘られてました。
まさに水の都といった光景だったことでしょう。

梅田街道沿いの運河の名残に
堂島掘割(梅田入堀)という大阪駅付近までの堀がありました。

この堀は明治に入ってからのものなので
大阪駅に着いた荷物を船に乗せ換えて市中に運んだようです。

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かつて高架道路の下に堀があった

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出入橋

出入橋は堂島掘割に架かっていた橋で
今も舗装されず石造りのまま残っているのは驚きです。

福島、旧梅田貨物駅の横を進んでいきます。

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この梅田という地名ですが
江戸時代は元々湿地帯だった場所を埋めて田んぼにしたところ
埋田となり後年に梅田と呼ばれるようになっています。

大阪に住んでいると梅田というと
阪急梅田駅あたりをイメージしてしまうのですが
この辺りの町名も梅田ということで随分広いものです。

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都会から郊外の様相に変わってきました。
旧道沿いには大きな工場の名残を散見できます。

新淀川の手前にある旧紡績工場の敷地には
明治時代に作られたレンガの壁が今も残っています。

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新淀川を渡ります。

江戸時代の淀川というと
下流で大川、堂島川、中津川と分かれていたのですが
明治期の治水で大きな川筋を作られることになりました。

それが現在の(新)淀川の流れで
元々あった道や村は川の底に沈んでしまいました。

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新淀川が開削された後も
しばらくは渡し舟が運行されていたようですが
現在は遠く離れた国道2号線の淀川大橋で迂回するしかありません。

この淀川大橋ですが
新淀川開削時は西成大橋という名前でした。
下流側に平行して架かっていたそうです。

欄柱は鼻川神社に保存されています。

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鼻川神社は本来は新淀川の河川敷にあったのですが
開削の際に現在地に移設を余儀なくされました。

またこの付近が中津川と新淀川が合流する地点になっています。

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梅田街道には渡し場が2カ所存在していました。

その一つが「野里の渡し」
現在は埋められている中津川を渡るもので
柏里付近が大坂側の船着場でした。

かつての堤防跡には
サンリバーという商店があるのですが
おそらく中津川を意識しての命名なのでしょう。

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野里の渡しのモニュメンがありました。
明治9年になると「槲(かしわ)の橋」が架けれられています。

この後しばらくは中津川の旧堤防沿いに進みます。

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中津川の旧堤防の風情

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八丁橋の交差点。

この付近の住民は梅田街道を八丁街道と呼ぶ人が多かったそうです。
橋は延宝6年(1678)に出来た中島大水道に架けられていました。

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中島大水道は今は緑道になっています。
この地域の悪水を海に流すために作られていたのですが
新淀川開削後は役目を終える形で埋められてしまいました。

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2つ目の渡し場が「佃の渡し」

神崎川を越える渡しですが
近代的な堤防によって名残は残っていません。

対岸は佃島です。

佃煮は江戸の佃が発祥ですが
元々は大阪の佃の漁民が江戸に移って(後の佃)のものとなります。

現在も東京と大阪の交流は続いているそうで
学校では交換授業という形でお互いに行き来しているようです。

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弧を描いたような道筋。
地盤が安定せず砂地でもあったので
右側に長屋が建っていたのですが阪神大震災で崩壊しています。

この地域に多い神社は住吉神社です。
かつては村ごとに住吉さんがあったそうですが
現在は合祀されたりと少なくなってしまっています。

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佃地区の住吉さんは田蓑神社。

名前は変わってしまっているのですが
拝殿の奥には住吉さんが四連並んでおられます。

そして拝殿の上に書いてある文字は住吉神社。
こういう名残り探しは楽しいですね。

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右手に左門殿川を見つつ歩いていくと
尼崎は大物(だいもつ)の辰巳橋にたどり着くことができます。

大物は大きな港があり
堺への船が多く出ていたそうです。

大物の隣が尼崎城のあった尼崎になるのですが
今では一つの尼崎のくくりになっちゃいましたね。

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最後に梅田街道の歴史を書いておきましょう。

中世までの大阪と尼崎を結ぶ街道は
遠く山陽道と接続する中国街道がメインでした。
その頃の梅田街道は湿地帯の中に細道として存在するだけで
たとえ近道であっても通る人は少なかったようです。

中国街道のレコ
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-163845.html

戦国時代に入ると軍勢を移動するために道が整備されていきますが
梅田街道の原型はこの頃に出来上がってきたと思われます。
江戸時代になっても尼崎へのメイン扱いにはなっておらず
あくまでメインは中国街道で梅田街道は脇道扱いでした。

整備されてもなお遠回りの中国街道がメインだった理由として
古くからの賑わいがあり街道筋に人々が多く住んでいた上に、
一段高い場所なので地盤が安定していたということなのでしょう。

それでも近道ということで結構利用者は多かったようです
「摂津名所図会大成」よると「中津川の下流 野里村にあり この街道は
大坂より尼がさきにいたる近道なるがゆへに西国往返の旅人兵庫西の宮
尼が崎等の諸商人ことごとくこの渡しを越ゆるにより常に行人間断なく
別けて尼がさきの魚商人飛脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸商人日毎に通行して
頗る賑わしき道条なり」と賑わいぶりを今に伝えます。

明治時代になると街道名が付けられ、
梅田街道は難波橋北詰から辰巳橋までと定義されていきます。


   
posted by にゃおすけ at 19:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大阪近辺の街道 | 更新情報をチェックする