2015年06月23日

【街道シンポジウム】 谷汲巡礼街道・赤坂宿→谷汲山華厳寺

中山道の赤坂宿から谷汲山華厳寺まで
街道シンポジウムの一環で歩いてきました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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中山道との追分に立つ道標には
”たにくみ”の文字が刻まれています。

谷汲山は関西で人気のある西国三十三カ所の一つ。
三十三番札所ということで結願場所でもあります。
順路的には西から来る形になっているので
道標は西向きのわかりやすい場所に設置されていました。

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赤坂宿は立派な港の設備をもっています。

これは大垣や伊勢湾への舟運によるもので
周辺の物資の集積地として大変賑わったようです。
近代においては金生山の石灰を運ぶ鉄道が整備されて、
今も駅の跡などの遺構を見ることが出来ます。

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赤坂の家並みを抜けると田畑が広がっています。
この辺りはまだ平坦なので歩きやすいものです。

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谷汲巡礼街道の特長としては
第一に自然石の道標が多いことがあげられます。
また自然石に限らず地蔵型や常夜灯も豊富です。

特に自然石の道標はどれも形が似ていることから
おそらく同じ時期に整備されたのではと思います。

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近年立てられた谷汲巡礼街道を示す道しるべ。
しっかりと「江戸時代」と書かれています。

所々、区画整理などによって消滅箇所がありますが
おおむね旧道に沿って進んでいきます。

遠くに谷汲山が見えてきました。

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杭瀬川を渡ります。

天井川だったので両側に高い堤防が築かれて
明治時代においては川の下にトンネルが作られていたそうです。

いわゆる「マンポ」というレンガ造りの代物です。

今はその痕跡を見つけることは困難で
天井川であったこともわからない状態になってますが
おそらくは河川改修の影響なのでしょうか。

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明治の新道と江戸時代の旧道との追分。
道標には”新道”とくっきり刻まれています。

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周辺を歩いてみると新道のほうに町並みが集中していて
旧道はいくぶん長閑な感じで対称的です。

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この辺りの史跡といえば「乳くれ地蔵」さん。
お乳がよく出るようになることで有名です。

このお地蔵さんには面白い話があります。
行き交う女性に対して乳をくれとせがんだ老人がいたそうで、
当然ながら女性は気味悪がって逃げていたわけです。
実は老人は乳をくれるような優しい人を探していて、
ここに地蔵を立てて欲しかったとのことでした。

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麦畑が広がる街道風情。

やがて揖斐川の渡し船の利用者で賑わったであろう
杉野集落へと入っていきます。

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そういえば、古い建物をあまり見かけませんが、
明治時代にあった濃尾地震の影響なのでしょう。

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揖斐川を渡ります。

かつての渡し場は現在の橋より少し下流だったそうです。
とは、言っても増水時などで場所は変わっていたらしく
しかも近年において河川改修が行われているので
どこが本来の場所だったかを探るには難しところです。

ちなみに、対岸の橋のたもとにある常夜灯は
下流にあった渡し場跡からの移設になっています。

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山が近くなってきました。

揖斐川の旧堤防の上を進んでいき、
名鉄の廃線跡を越えると名古屋方面の追分がありました。

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この立派な道標なのですが
俳句調に書かれている大変珍しいものです。

みぎハいせ
ひだりハき婦や
名古屋道

き婦とは岐阜のことですね。

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山際を進んでいきます。
かつての平地は悪水のたまり場だったらしく、
平地を進むことが出来なかったようです。

時には山の中を進んでいく格好ですが
明治時代になって治水工事が行われてからは
平地の中を進む道が整備されていきます。

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小野地区にある百観音。

これらの石仏は街道沿いにあったものですが
ここにどういうわけか集められたものです。

石仏には敦賀、京都、大坂の文字が書いてあるので
西国巡礼の折に置かれたのかもしれませんね。

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小野坂峠への道筋。

江戸時代の道は掘割状になっていていたり、
所々に石積みや五輪塔の一部が残っていたりと
ここは昔は道であったことを教えてくれています。

やがて自性院というお寺の横を通ります。

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ここは茶所でもあったようで、
峠を前にした巡礼の人々に茶を接待していたとのことです。

江戸時代の道はトンネル横から九十九折で登っていきます。

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小野坂峠は時代によって三度ルートが変わっています。

現在のトンネルが出来るまでは
明治に江戸時代の直登の道の迂回路として
勾配が緩やかな道が整備されています。

いわゆる車や馬車を通すためのものですが
このように時代によって幾つもルートがある場所というのは
いかに交通上で重要な場所であったことがわかります。

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小野坂峠。

谷汲側の展望はなかなか良い感じでした。
ここから先は所々に旧道を交えながら進んでいきます。

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相変わらず多い道標と丁石。

丁石とは寺までの距離を表すものですが
近づくにつれ数字が減っていくので面白いものです。

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この道標は道教え地蔵と呼ばれているのですが
お地蔵さんの小さい指に注目してみてください。
指先で進むべき方向を示してくれています。

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やがて家や食堂が多くなってくると
谷汲山の門前町へと入っていきます。

上の写真は谷汲山の門の前ですが
これは近世に出来たもののようで昔からの山門はまだ先です。
おそらくは鉄道整備などで麓に向けて門前町が広がった影響なのでしょう。

かつてはこの山門と昔からの山門の間にある川のあたりまでは
ウネウネとした道が続いていたそうです。

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参道の光景。
両脇には土産物屋が軒を並べていました。

立派な山門が見えてきました。
街道自体はこの山門で終了だと思いますが
丁石は本堂から数えられています。

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谷汲山の本堂。
ハート型の常夜灯がなんともかわいいですね。

 
 
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2015年06月16日

『街道プレゼン』 伊勢への交通の変遷

関西の街道シンポジウムに参加してきました。
参加者各人がプレゼンをしていくのですが
私が今回選んだテーマは伊勢への交通でした。

以下、当日のプレゼン内容を紹介していきます。

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昔も今も人気のお伊勢まいりですが
歴史的にどのように変化していったのか、
交通の観点から紹介してみようと思います。

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歴史的には大きく3つに分けられます。

1の中世までは集団参拝は何回かあった程度で
細々とした個人での参拝が多かったそうです。

これが江戸時代に入ると
”ええじゃないか”といったお蔭参りなどで
全国的な爆発的人気になっていきます。

さらに近代になると
初詣といったイベント要素が加わっていきます。

さて、お蔭参りですが、
江戸時代に起こった集団参拝のことを指しますが
とにかく凄い人数が伊勢に向かいました。

宝永年間では2ヶ月間に330万〜370万人が訪れてますが
当時の人口(2700万人)を考えると相当なものですよね。

この爆発的な人気の要因ですが

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御師や講の存在がありました。

今でいうツアー会社みたいなもので
道案内や宿の手配や積立金などをやってくれたりと
何も知らない人でも安心していけたのは大きいといえます。

これに加えて、

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平穏な世の中という時代的背景。

平穏でも庶民の移動には厳しい制限があったわけですが
伊勢神宮参詣の名目だと通行手形の発行審査は緩かった上に、
歩くルートはどこを通っても特に問題がなかったそうです。

これが各地で争いごとが多かった時代だったとしましょう。
旅をするにもきっと命がけだったに違いありません。

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さらに、加えて、
全国的な街道の整備があげられます。

いわゆる五街道や伊勢へ至る地方街道の整備は
街道沿いには宿場、茶屋、松並木、一里塚などが設けられたりと
女性でも比較的安心して歩けるようになっていきます。

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これは宮川の渡しの図なんですが
犬に女性にいろんな人がいっぱいいますね。

絵図なので声はありませんが、
きっと各地の方言が飛び交っていたではと思います。

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これは私が歩いてきた街道の地図です。
伊勢への街道を紹介してみます。

江戸方面からは伊勢参宮街道です。

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伊勢へ向かう街道として
「伊勢街道」と名が付く道がいくつもありますが、
現代の一般的な認識ではここを指すことが多いです。

大阪や京都方面からはいくつもルートがあるのに対して、
江戸や尾張からはこの道が実質的な一本だったので
相当な往来があったのではと思います。

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これは東海道の追分に立つ有名な鳥居です。
伊勢参宮街道はここを起点としています。

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こちらは香良洲道の道標。

一生に一度の旅ということで
あちこち寄り道する人が多かったと思いますが

特に香良洲神社は伊勢神宮と関係しているので
街道を迂回して寄る人が多かったようです。

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伊勢といえば注連縄。一年中飾ってあります。

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内宮の手前にあった立派な常夜灯です。

ことのほか伊勢街道沿いには巨大なものが多いのですが
全国各地のいろんな人が多く往来するということで
いわば広告塔のような役割があったのではと思います。

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京都方面からは東海道を経由して伊勢別街道です。

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巨大な寺内町があったり、

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旅籠には講の板が掲げられています。
よく見ると京都の文字がいっぱいありますね。

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そして、ここにもありました巨大な常夜灯。

大阪方面からはいろいろ道があるんですが
メインの道といえば伊勢本街道です。

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有名な暗越峠を通って奈良を経由して山道を進みます。

本街道の後半は峠越えの連続ですが
大阪と伊勢への最短ルートを通っています。

対して、迂回路として青ごえ道が有名ですが
こちらは峠は少ないけども遠回りといった具合で、
峠道を嫌う人や女性が多く通った道といわれています。

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近年、本街道は歩きやすいよう整備されつつあって、
このように案内看板を見かけることができます。

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太一の常夜灯。
太一とは伊勢神宮のことですが
関西以外ではあまり見かけないかもしれません。

さて、時代は移って近代になると、
鉄道や車での参拝になっていきます。

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国鉄と近鉄の戦いになるわけですが
大阪方面は近鉄が優勢で京都方面は国鉄が優勢だったようです。

左の電車は名車の2227系電車です。
よく見ると左に窓がないのがわかると思いますが、
この中は何があったと思います?

(答えはトイレでした。)

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さいごに、近年の伊勢参りの傾向です。

今やなくてはならない初詣ですが
鉄道会社の集客競争がきっかけだったわけです。

初詣は時代をおって全国的な広がりを見せてきて、
正月といえば初詣!的なイベントになってきています。

そして、鉄道や道路といった交通の整備によって
気軽に行けるようになったので参詣だけの目的ではなく
何かのついでの人が多くなってきてるように思います。

いざ三重県まで来て、観光するところある?
そういえば伊勢神宮があったねー。
じゃ、そこ行ってみよー。ってな感じです。

もっとも、江戸時代においても
参詣が終われば奈良や京都に寄る人もいたので
参詣のみを目的とする人は少なかったかもしれません。
ただ、当時は旅は一生に一度といった感じだったので、
伊勢神宮に対する意気込みは相当なものがあったと思います。

三つ目の修学旅行についてですが、
昔と比べると行き先がだいぶ変わってきていますが、
大阪の修学旅行先といえばお伊勢さんが今も多いです。

近鉄は修学旅行用の車両をわざわざ用意していたほどで
当時それに乗ることが楽しみ楽しみで仕方なかったです。

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以上で終わります。
エンジョイ!お伊勢参り!

【おまけ】 
・メンバーぼんたさんのプレゼン「道中記の歴史
・第5回 街道歩講 in 谷汲 実況中継
・2日目の街道歩きの様子 (動画約1分)


 
  
posted by にゃおすけ at 19:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする

2015年06月09日

日光西街道(壬生道)その2・楡木宿→今市宿

さわやかな5月の街道歩き。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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楡木宿の読み方は「にれぎ」で
宿場内に楡の大きな木があったのが由来です。

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小山から続いてきた日光西街道ですが
楡木から先は日光例幣使街道と重複しています。

現代はこの先も例幣使街道として扱うことが多いですが
一里塚は江戸を起点として数えられていますし、
五海道其外延絵図日光道壬生通が発行されてるので
日光西街道(壬生道)と考えるのが妥当かなと思います。

ただ、江戸時代の街道名はあってないようなものですから
この辺りは深く考えないほうがいいかもしれませんね。

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奈佐原宿。

一見、何もないような町に見えるのですが
国の無形民俗文化財が2つもある凄いところです。

その一つが人形浄瑠璃で
今も春と秋の祭りで公開することがあるそうです。

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遠くに日光連山が見えてきました。

街道のところどころに杉並木の名残りが出てきました。
日光が近いことを実感させてくれます。

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続いての鹿沼宿は彫刻屋台で有名です。
町のあちこちで屋台蔵を見かけることができました。

鹿沼宿の入口は鳥居跡(とりいど)の交差点です。

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この変わった地名は、鎌倉時代において、
日光連山を遥拝する巨大な鳥居から由来しています。

鳥居跡で内町通りと田町通りの2つの道筋に分かれますが
宿場町形成時に整備されたのは内町通りのほうで、
田町通りは江戸期以前の古日光街道にあたります。

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追分にある二荒山神社

資料によって継立を月に20日は内町通りが担当し、
残り10日を田町通りを担当したという話もありますが、
このように宿場で2つの道筋があるのは珍しいですね。

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画像提供:東京国立博物館

ここで絵図を見てみましょう。
上の細い道が古日光街道の田町通りです。
下の大きな道が日光街道の内町通りにあたります。

このように絵図を見ていると
宿場町風情が手に取るようにわかりますね。

一つ面白い点としては、
鳥居跡の交差点を越えた先まで杉並木が続いています。
しかも分岐点には何もない感じです。

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一般の旅人が多かった壬生道において
道に不慣れな人が多かったものと思います。

それゆえ、家並みや杉並木に沿って歩いたと考えらますから
迷わないよう杉並木で誘導していたのかもしれませんね。

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鹿沼宿は戦国時代は鹿沼城の城下町でもあったので
寺が集中してる地区があったりと城下町風情を感じます。

鹿沼市役所の裏が「鹿沼城址にあたります。

この辺りは電線が地中化されてて空がスッキリ。
なんとも気持ちの良いものです。

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御成橋を渡ります。
橋には可愛いモニュメントが埋め込まれていました。

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橋を渡った先の高台には不動堂があり、
日光連山や鹿沼宿を一望することができます。

江戸期においてはここで旅の安全を祈願したのだとか。

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杉並木が始まりました。

杉の外側には遊歩道が整備されていて
とても心地よく歩くことができます。

ふと、中から杉の外を見てみると
昔ながらの長閑な光景が広がっていました。

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日光市との境には杉並木寄進碑が立っています。

日光の杉並木は日光東照宮創建と同時に植えたのが始まりで
今や世界最長の並木道としてギネスに載るほどになっています。

その由緒が刻まれているのが寄進碑で
慶安年間に各街道の入口と神橋に建てられています。

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鹿沼市から続いてきた杉並木は
日光市に入るとさらに凄みを増してきました。

管理状態が良いのでしょう。どれも大木です。

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こちらは一里塚の跡。
杉並木の外側にこじんまりした塚が残っていました。

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杉の大木に比べると小さく埋もれる感じですが
江戸時代においての杉はそれほど樹齢がないので
ちょうど良い感じに街道から見えていたのかもしれませんね。

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杉並木が途切れると文挾宿。
この宿場名も難読で「ふばさみ」と読みます。

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宿場は延命地蔵尊のあたりからですが
その手前には立派な追分道標がありました。

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左 大谷、右 鹿沼。

宇都宮方面の道筋なのでしょう。
鹿沼方面とは今通ってきた道ですが
江戸の文字や倉賀野の文字は見当たりません。

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文挟宿の北の端は枡形のように折れ曲がっています。

そこに立っているのが村の倉庫。
これはただの倉庫ではありません。

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江戸期は飢饉が多くありましたが
それに備えて設置されたものだそうです。

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宿場から外れると再び杉並木が始まります。

途中にまた一里塚の跡があり
こちらも杉並木の外側に設置されています。

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それにしても杉の中を歩くのは気持ちがいいものです。

花粉症の人は大変かもしれませんが
雨が降ってると杉の香りが際立つかなと思いました。

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板橋宿。
ここも宿場内は杉並木が途切れています。

業務をする上で並木は邪魔だったのでしょう。
途切れてる様子は絵図にもしっかり描かれています。

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画像提供:東京国立博物館

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板橋宿の北の端で枡形のようになっていて
それを過ぎると再び杉並木が始まります。

ここからはバイパス道が出来たおかげで
車がほとんど通らない道筋になっていました。

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たまに通る車と比較してみると
杉並木の大きさを実感できると思います。

地震坂は戦後すぐにあった地震によって
松並木が断層で一部移動してしまった場所です。

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本来の道筋は看板のあった後方になるそうで
振り返って見るとどれだけ移動したかがわかります。

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元の杉並木は道から大きくずれている

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元の杉並木と道路との境目

杉の木が動くって相当なものでしょうが
倒れなかったあたり杉って凄いですね。

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今市宿が近くなってきました。
ところどころに民家が増えてきました。

途中にあった千本木集落。
絵図にも書かれている地名です。

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日光街道の追分。
追分地蔵があります。

左 宇つのみや 右 かぬま
道標にもどこか風格があります。

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今市宿は名水があることで有名です。
いまいちの水で乾杯して完歩としました。


  
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