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往時は大変賑わったであろう深日駅
かつて岬町深日(ふけ)は淡路島への拠点でした。
船に接続する難波からの直通電車があったのは今は昔。
深日で大阪から続いてきた孝子越街道(紀州街道)と分かれ
一路、海側へ進路を取ります。
和歌山へ向かう街道はいくつかありますが
大川峠を越える大川越街道は難所が少ない上に
大川寺(報恩講寺)や淡嶋神社への参拝の人々、
さらに四国、淡路の拠点の加太へ向かう人々など
多種多様な人々が利用していたと思われます。
多奈川のあたりは発電所があり鉄塔が何本も立っています。
空を見上げると電線がまるで蜘蛛の巣のようです。
かつて海岸線だった場所は埋め立てられ
大きな工場が建ち昔の面影が少なくなってしまいました。
道路と民家の位置に注目
多奈川の集落付近は川の堤防上を進むのですが
民家とのレベルが異常に高いのがわかります。
これは何度かの洪水によって
徐々にかさ上げされたのだそうです。
西畑越道との追分には道標がありました。
「右 大川 加太 道」
なかなか立派なものですよね。
お地蔵さんの祠もあって重要な分岐だったことがわかります。
この先にある中ノ峠を越えると
いよいよ海が見えてきます。
この辺りの海はなんとも綺麗です。
海岸線では釣りを楽しむ人が大勢おられました。
大阪と和歌山の県境には
「紀伊國」とのみ書いている国境石があります。
文政四年製。
波打ち際なので風化が激しく、
本来は「是より南 紀伊國 大川」と書かれてありました。
しばらく海岸線すれすれで進んでいきます。
高潮注意の看板があったりと荒天時は注意が必要です。
右前方に大川峠が見えてきました
やがて大川寺に到達します。
古い石塔などが多く残り時代を感じさせるお寺です。
寺の手前には嘉永橋という江戸期の石橋が今も残っています。
嘉永なので嘉永年間(1850年ごろ)のものになります。
奥の平成の橋、昭和の橋との対比が面白いですね。
一番左が嘉永橋
さぁ、難所の大川峠です。
ここには平成に出来たトンネルと昭和時代の旧道、
そして昔からの街道と3本のルートが存在しています。
今回通ったのはもちろん江戸期の道ですが
藪が多くとても夏場は歩けないような雰囲気でした。
この隙間が江戸時代の道の入口
所々に石積みが残る
かつては九十九折だったろう場所。
土砂で崩れてしまって何が何だかわかりません。
峠には立派な祠がありました。
比較的綺麗なので定期的に清掃されてるのでしょう。
この大川峠には
旧陸軍の施設が存在していたこともあって
今も名残を見かけることが出来ます。
対岸にある友ヶ島といい海峡を挟んでの大川峠は
明治期において戦略的な要地だったのでしょう。
大川峠から和歌山側に進んでいくと加太の町です。
加太は江戸時代よりさらに前の古い時代からの港で
南海道の駅の一つだったことがあります。
平城京からの使者や旅人は
この地から四国へ向かったといわれています。
人形で有名な淡嶋神社。
境内には数多くの人形が置かれてあります。
加太にあった道標。
「左 あわしま道 右 和か山道」
ここからの大川越街道は
淡嶋道と名前を変え和歌山城下を目指します。
古い石橋の跡?
【グルメ情報】
街道沿いの加太春日神社向いのお店。
ここのあげパンが超旨いです。一個80円。
昼に行くと揚げたてほやほやでした。
加太駅の南側はかつて陸軍の兵舎がありました。
この影響で街道の跡は全く残っていません。
川の左側に軍に施設が広がっていた
軽い山越えをすると視界が広がります。
ここから先はずっと平坦道です。
和歌山の工業地帯を遠望
南海加太線の線路沿いは道路事情がよくないからか
狭い道筋にも関わらず多くの車が行き交っていました。
逆に考えると狭い道筋は
昔からの光景そのままということなので
これはこれで有難いですが少しおっかないですね。
加太線沿いに進む
紀ノ川の手前にある住吉神社。
かつては堤防付近に渡し場があったので
神社にお参りして舟に乗る人が多かったとのこと。
ちなみにこの北島地区には
紀州藩の御殿もあったそうです。
写真の中央部に和歌山城
紀ノ川を渡ると和歌山市中心部。
鉄道橋だった河西橋は老朽化が進んでいます。
そのため架け替えの計画もあったりします。
地元では和歌山市駅のことを市駅と呼ぶ
和歌山城京橋でゴールとしました。