善光寺への巡礼者はここで分かれます。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
9月の3連休。ヒンヤリした朝です。
道標が立っています。
「右 中山道、左 北国脇往還善光寺道」
この場所は追分ではあるのですが
昭和初期に新道が開通してから移ったもので、
江戸時代の追分はもう少し先になります。
こちらが元々の追分。
立派な常夜灯が今も堂々と立っています。
本来なら常夜灯も移設すべき存在なわけですが
道標と比べると重すぎたということなのでしょう。
晴れ渡った青空。
奈良井川の河岸段丘上を進んでいきます。
さて、今回の善光寺西街道ですが
正式には北国西脇往還と名前がついています。
「北国」の「脇」とついてるので
日本海へと通じる北国街道の脇道なわけですが
ただ単なる脇道ではなく善光寺参りの人々以外にも
中山道からの日本海への道といった重要な役割もありました。
塩尻はぶどうの産地。ワインが有名ですね。
道中を歩いていると甘い香りに誘われます。
「ナイヤガラ」という種類が特産です。
この品種は昔ながらの方法で栽培してるので
種は多めで皮が薄いのが特長です。
家への土産にひと箱買ったのですが
「途中で食べな!」と2房も手に持たせてくれました。
穂高連峰がチラッと見えてきました。
街道はほぼ一本道。気楽に歩けます。
最初の宿場は郷原宿です。
雀おどしのある立派な家々が連なっています。
現在の町並みは安政年間の大火後のものですが
これほどまでの連なってる姿はそうそうありません。
「宿場全体が誠に見事な一個の作品だ」
と絶賛した人がいたほどです。
家々の前には立派な庭木が植えられ
道路と民家の間には小さな石橋がそれぞれに架かり
他の宿場にはない独特な景観があります。
「左、東京 すわ いな道 右、京 いせ きそ道」
”江戸”表記でなく”東京”表記に注目です。
明治になると石の道標に代わるもの(看板類)が増えて、
道標自体が少なくなっていく傾向になるので
”東京”表記はちょっと貴重ですね。
村井宿。
こちらも大火に見舞われています。しかも2度。
その影響か古い風情はあまり残っていないですが、
町割や鍵の手、用水路に面影を感じることができます。
本陣跡にある立派な門。
元禄年間では82軒ほどの家々がありました。
宿場の外れで国道19号と合流します。
この辺りはいつも混んでる印象があります。
幹線なのに片側一車線。
松本市街地の交通事情は
昔とあまり変わってないかもしれません。
これから秋祭りの季節です。
街道沿いの家々の軒先には
下のような白い紙が垂らしてありました。
道端には道祖神などの石仏。
松本平ではよく見かける光景ですね。
南松本付近。通称ナンマツ。
ここには市の文化財になっている中田家住宅が建っています。
外観も結構なものですが庭園も大そうなものらしく、
今回は見れなかったのですが事前電話予約で見学できるみたいです。
「國道十九號線」
今に残る昔の字体はいいですね。
この橋を渡ると松本市街地中心部に入ります。
町中ではこのような
旧町名のいわれを書いた案内をよく見かけます。
この立派な緑橋の石材は
元は松本城の大手門のものだそうです。
本陣跡付近は開発されて面影が残っていませんが
角を曲がると蔵のある町並みがありました。
レトロな建物がいっぱい。
松本市街地は湧水が多いのも特徴的です。
町のあちこちには水飲み場が設置されています。
女鳥羽川からの眺め。奥には北アルプスが見える。
街道は他の城下町と同じく
城の近くを避けるような道筋になっています。
松本の市街地を過ぎると上り坂が始まります。
信大の横を通って旧道を進みます。
振り返ると松本平がよく見えてきました。
宿場の入口にある大きなケヤキ。岡田神社への参道です。
次の宿場町は峠を前にした岡田宿です。
元々松本の次の宿場は刈谷原宿だったのですが
距離が長い上に峠の先ということもあって
後年になって追加設置されています。
岡田宿が設置される前は
ほど近い場所にある浅間温泉に泊まるのが定番でした。
設置後もその状況は一行に変わらなかったので
岡田宿に泊まる客はあまり多くなかったといいます。
だったらなぜ設置したの?なのですが
宿場機能というのは宿泊させる機能だけはないので
他の宿場同様にそれなりには繁盛はしていたようです。
宿場内の道幅は広くて特長的です。
これは真ん中に水路があった影響です。
次回は大きな峠を2つ越え麻績宿を目指します。