2015年09月29日

大阪の高低差とディープな町めぐり。

大阪市内は東京に比べると高低差は少なく、
水路が発達し全般的に平坦なのが特長です。

しかし大阪城周辺に目を向けてみると、
上町台地の高低差はかなりのものがあり
大阪のひと味違った魅力を感じることができます。

今回は街道シンポジウムの一環で
大阪市内のマニアックなポイントを巡ってみました。

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まずは天保山。(9:15・数字は立ち寄り時刻)
今や若者のスポットとして有名な場所ですが
元はというと人工的に土を積み上げて造られた山。

1831年(天保2年)では20mもの高さがあったので
古絵図でも描かれるほど目立つものでした。

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天保山の作られた目的としては
当時の港湾部は水はけがよくなかったので洪水防止目的と
市中への大型船の入港をしやすくするためのものでした。
(横に流れてる川は当時の淀川の本流の一部)

現在の天保山の高さは4.53m。
明治になって砲台の設置などで削られてしまいました。
今となっては往時の面影はほとんど残っていませんが
水都大阪を象徴すべき場所の一つでしょう。

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次に向かったのは対岸の桜島です。

桜島はUSJが出来て観光客で賑わっていますが
かつては重工業地帯で空襲が激しかった場所でした。

天保山から桜島へは渡船を利用します。(9:30)

大阪市には無料の渡船が数多く残っていますが
天保山の渡しは他の渡船とは一風違っています。

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外人さんがびっくりするほど多いんですよね。

USJへ通勤されてる方が大半だと思いますが
外人が乗ってることによって雰囲気はガラッと変わるもので
海外でクルージングのような気分にさせてくれます。

以前は住宅地が広がる天保山側(港区)と
工業地帯の桜島側への通勤での利用が主でした。

工場は少なくなり道路が出来たりで利用者は減っているようで
現在の天保山渡船の利用者は1日に900人ほど。
昭和40年代は約1700人の利用者があったそうです。

渡船について詳しくは以前の記事にて

→古き良き日本が残る大正区の渡し船めぐり。
http://borabora.seesaa.net/article/363108975.html

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次に向かったのは安治川トンネルです。
JR桜島駅から西九条駅へJRで移動しています。(10:10)

安治川トンネルとは川の下を潜ってるトンネルで
昭和19年9月に完成。日本初の沈埋工法で造られています。

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地下へはエレベーターか階段で降りる形で、
向こう岸で再びエレベーターか階段で上る形です。

ここまでは普通のトンネルかもしれません。
でも凄いところは昔は車も通っていたことです。

建物左側の大き目のシャッターが車用の入口です。
エレベーターの老朽化と橋の整備で廃止になるのですが
ピーク時はどのような感じで捌いていたのか気になるところです。

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活気のある九条商店街を経て九条の遊郭へ。(10:30)

関西の遊郭といえば飛田新地が有名ですが
九条の松島も負けてはいません。

ここは明治時代において外人の居留地が近く(川口)、
工業地帯も近く市電の便もよいので好立地だったようです。

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独特な家並みが連なります。(11:00)

かつては中心である仲之町の目抜き通りには
桜が植えられ桜筋とも呼ばれていたそうです。

次は地下鉄谷町線で九条から四天王寺前夕陽丘に向かいました。

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上町台地の上に上ってきました。(12:00)

大阪市内の中でも高低差のある地形で
古代は西側がすべて海だったという話です。

もしかすると福井の東尋坊のような
断崖絶壁な景色が広がっていたかもしれません。

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平地から一気にせり上がる形になっているので
ここからの夕日の眺めは大変素晴らしいものです。

上町台地にある地名は夕陽丘のほか、真田山や、茶臼山、
帝塚山など、山や丘とつくのが多く特長的です。

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見事な坂。

このような坂が幾つもあるのですが
広義で「天王寺七坂」と呼ばれそれぞれに特長があります。

その中でも源聖寺坂は
江戸時代そのままの雰囲気が味わえてお勧めです。
また周辺は寺が多く寺町を形成しています。
これは豊臣時代に大阪城近くから移転してきたもので
寺が多いおかげで町の喧騒がないのも良いところです。

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清水寺は京都の清水寺と同じく舞台があります。
改修によって現代風になってしまっていますが
高低差がなければ作れない代物です。

ここには玉出の滝もあります。
大阪市内唯一の天然の滝です。

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次に向かったのは大阪城です。(14:15)
地形的には上町台地の北の端に位置していて
旧淀川を堀の一つとして作られています。

元々、上町台地の名前のおこりは
秀吉時代に町人は台地の下(=下町)に住まわせ、
武士は台地上に(=上町)住まわせたことから。

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大阪城の見どころは多すぎるので割愛させてもらって、
次に向かったのは八軒家浜です。(15:40)

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今でいう天満橋駅近くになるのですが
ここは熊野街道の大阪の起点にあたる場所で
古い時代からの港になっていました。

八軒家浜から南の方角を見てみると
見事な高低差があることを確認することができます。

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ここが上町台地の北の端。
なんともダイナミックなものです。

この付近から空堀にかけては
空襲の被害が少なかったので古い風情が残ります。

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大阪の街道の中心”高麗橋”を経て堺筋へ(16:10)

堺筋は紀州街道の道筋であり、
御堂筋が整備される以前の大阪のメインストリートでした。

今も往時の立派なビルがいくつか残っています。
特に綿業会館ビルは素晴らしいものです。

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難波橋を経て中ノ島。
中央公会堂を見て帰路につきました。(17:00)


  
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2015年09月14日

【街道シンポジウム】 京都の古道。志賀越道・三条大橋→唐崎

京の都から滋賀県の唐崎に至る道です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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高瀬川沿いを進みます。

かつての京の都には御土居という土塁があって
中の人は”口”と呼ばれる出口から外に出ていました。

今回は三条大橋からスタートしましたが
志賀越道の本来の起点は荒神口です。

古くは吉田口、今道口、志賀道口ともよばれています。

江戸時代はここを境に洛中、外を洛外と分けられ
御土居が作られた戦国時代には七つの口がありました。

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荒神橋は大正3年製。
水害で2度も流されてますが復旧しています。

御所からの重要な道(避難路)ということもあって
幕末においても立派な橋が架けられています。

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荒神橋を渡ると斜めの道を進みます。

京の道は碁盤の目のような道筋が基本ですが
志賀越道は平安時代の頃からと歴史が古い上に、
洛外であったことで町割りに関係しなかたっようです。

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京大の吉田キャンパス。

幕末までは構内を斜めに横切っていたのですが
尾張藩下屋敷が作られる際に分断されています。

なぜ歴史ある街道の道筋をわざわざ分断したか。
調べていくと面白いものがありました。

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一つに志賀越えの途中にあった崇福寺の衰退。
延暦年間には当時の十大寺に選ばれて栄えたのですが
抗争や火災などで室町時代には廃寺になってしまっています。

元々、志賀越道は崇福寺の関係で賑わっていたので影響は大きく
追い打ちをかけて東海道などの新道が整備されていくと
京から近江へのメインルートが変化していきました。

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角にあった宝永年間の道標には

右 さかもと、からさき、白川
左 百まんへん。

と、刻まれています。

一応、行き先となる名前は書かれてますが
志賀越道は江戸時代においてはすでに脇道的な存在だったようで
尾張藩下屋敷で迂回させても特に問題なかったと考えられています。

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志賀越道は歴史が古い道だけあって
古い時代の石仏が数多く見かけることができます。

上の子安観音さんは鎌倉時代のものです。
秀吉が聚楽第に石仏を移したところ不気味な声で
夜な夜な「白川へ返せ」と言っていたそうで
元の場所に戻すと声が止んだという話があります。

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少しずつ勾配が出てきました。

明治時代に出来た琵琶湖疎水との交差地点。
疎水の位置が高いので滝のように潜る形で立体交差になっています。

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志賀越道は琵琶湖疎水と直交する

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白川と平行する府道を進みます。

この道は比叡山ドライブウエイや
国道161号のバイパス道とも接続しているので
交通量が結構多いのは難儀なところです。

しかも歩道がないのでヒヤヒヤしました。

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川は次第に渓谷に。

次の山中集落の手前には
不動院とラジウム温泉がありました。

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温泉旅館のような佇まいですが日帰り入浴が可能で
ラジウム量が半端ないことで有名だそうです。

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川に沿った道は洪水などの影響にさらされることが多いですが
ふと、川向こうを見ると人工的な石積みと路盤がありました。

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おそらくは旧道だとは思うのですが
明治の地図では今歩いてる府道が道筋になってるので
旧道だとするとそれ以前のルートかもしれません。

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滋賀県との県境を越えます。
峠はまだ先。

山中の集落は比較的大きなもので
名前のとおり山間の村で風情があります。

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古くは宿場だったという記述もあり
峠の拠点として栄えていたそうです。

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また寺が多いのも特長的で
鎌倉時代の阿弥陀如来石仏は道沿いにあり
街道をゆく我々を見守ってくれてるかのようです。

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このような双体道祖神も多いです。
関西では珍しいものです。

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志賀越道は県道(京都府内では府道)と分かれます。
この先の県道は永禄年間に信長の命によって作られた新道で
志賀峠の道筋はそれ以前の本道にあたります。

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次第に山深くなっていきますが
砂防ダムの影響で随分と地形が変わってるようです。

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旧道は砂防ダムの底を通っています。
水が蓄えられていないので歩くことが出来ますが
「白川砂」という川砂なので歩きづらいものです。

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それでも路盤はしっかりしてる感じで
明治の資料では川の右側を進むルートなのですが
砂防ダムが出来てから水路が変わってしまったと思うので
多少疑問点はあるもののこの道が正解なのでしょう。

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立派な常夜灯です。

左 むどうじ道と書いてる道標もあります。
”むどうじ”とは比叡山無動寺のことで
常夜灯の間を抜けると寺へ行けるようです。

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門型の砂防ダム

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ここからはさらに歩きづらくなっていきます。

案内看板は所々に立っていて安心感はあるのですが
道はこの通り、びっしりのシダの藪道。

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所々では崩壊している箇所がありました。

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コンクリの擁壁は比叡山ドライブウェイのもの。
道路をくぐると峠になります。

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展望は雨のためか皆無でしたが
晴れだと違っていたかもしれません。

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峠から先は古道の風情の中を進みます。
大きな掘割状になっている所もあり見事なものです。

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ただ、こちらも崩壊してる箇所が多く、
水路には土砂がたまり道に水が流れ込んでいるなど、
道がどんどん崩れていってる感じがします。

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張り紙には今通ってきた道が通行不能とあります。
京都府側には何もなかったのに。

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志賀大仏。
5mはあるでしょうか。

ここには立派な小屋があり
雨をしのげて昼食を取れました。

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大仏を過ぎるとあとは良い道です。
目の前には琵琶湖が広がります。

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やがて西近江路との追分。唐崎です。
近くには近江八景のひとつである唐崎神社があり
ここからの眺めはなかなかのものです。

志賀越え道は崩落を止めなければ
どんどん廃道に向かってるように思えます。

崩落個所だけでも整備すると距離も手ごろだし
人気のハイキング道になるのではと思いました。


  
posted by にゃおすけ at 19:00 | Comment(4) | TrackBack(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

善光寺西街道その3・麻績宿→善光寺

お盆の街道歩き。
曇り空の涼しい道中になりました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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麻績宿。
今回は大阪から夜行バス入りでした。

宿場近くには麻績インターというバス停があるので
目覚めたらすぐに歩き始めることができます。

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麻績宿の端にあった番所跡には
かつては「右 うゑ田道 左 せんこう寺道」の道標がありました。
”うゑ田”とは上田のことで北国街道に繋がっています。

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市野川は峠を前にした間の宿。
奥に見える山が今回の難所の猿ケ馬場峠です。

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コスモスが早くも咲いていました。
標高が高いこともあって秋の訪れは早いようです。

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草道を進んでいきます。
九十九折で標高を稼いでいきます。

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お仙の茶屋跡は美人が働いていたので
麻績村の男衆はここまでよく通っていたのだとか。
まぁ、この手の話はあちこちでありますね。

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峠の手前には聖湖が広がります。
古くは馬場池、夜が池とも呼ばれていました。

現在はリゾート地な場所なのですが
かつては周辺の村々の貴重な水源ということで
湖を巡っての争いが多かったといいます。

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旧峠入口。左へ。

旧猿ケ馬場峠へは草道を進みます。
通る人が少ないからか藪が酷い状態です。

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峠には碑が立っています。
先ほど書いた湖を巡っての争いのものです。

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村の境は元々はこの位置でした。
争いの結果少し標高を下げた場所に馬塚を作り、
明治までは馬塚を境界として続いていました。
後に元の峠に戻され記念碑が建てられたわけです。

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念仏石

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馬塚

峠からは急な坂が続きます。

ざっと一気に600m下ることになるので
善光寺からの逆ルートだと結構きつい登り坂です。

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火打石茶屋の跡を過ぎると、
立派な一里塚がありました。

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上は「のぞき」と呼ばれた場所。
善光寺平を一望できる良い場所だったので
望遠鏡の貸し出しがあったといいます。

現在は木が生い茂って何も見えませんが、
有名な姨捨のような絶景だったのでしょうか。

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峠を下った先にある桑原宿という間の宿。

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ここにある七曲り松は老木で
名所絵図にも描かれるほどの有名なものです。

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桑原宿を過ぎると稲荷山宿です。

宿場周辺から見える山々を見てると
善光寺平は山に囲まれた盆地であることがよくわかります。

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上の写真は軽井沢方向のもの。
中山道に繋がる北国街道は山と山の間を進んでいくわけです。
今通ってきた猿ケ馬場峠や妙高の山々も見えました。

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稲荷山宿は大火で燃えているので古い風情は少ないですが
その後に建てられた明治時代の蔵が数多く残っていて
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

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宿場の入口にあった道標には「西京街道」
西京とは京のことです。

明治になって江戸は東京になったわけですが
京は東京に対する西なので西京と呼ぶことがありました。
この道標はその名残ということですね。

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稲荷山宿の本陣。
善光寺地震の影響により門が大きく傾いています。

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稲荷山宿は善光寺西街道で一番大きな宿場町でした。
近くにある長谷寺は奈良、鎌倉と三長谷寺と謳われていて
多くの人が寄り道をしていったといわれています。

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右 東京 の道標

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長谷寺が山の中腹に見える

宿場を抜けて少し進むと
北国街道との追分があります。

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かつては大きな道標があったようですが
現在はモニュメント的なものがあるぐらいです。
一見すると見過ごしてしまいそうな場所ですが、
ここは江戸へも続く道と分かれる重要な場所でした。

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真新しい北陸新幹線の高架をくぐります。
交差点には立派な道標がありました。

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「せんく王うし道」

善光寺への道という意味です。
道標には当て字を用いるこうが多いですが
「うし」は「牛に引かれて善光寺参り」からでしょうか。
江戸時代の道標で指さしは珍しいですね。

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篠ノ井駅付近や今井駅付近は平坦な道が続きます。

今井は長野オリンピックの選手村があった場所で
モダンなマンションが立ち並んでいます。

またここには大仏がおられます。
奈良の大仏ほどではないですが大きなものです。

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大仏はこの建物の中に

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犀川の手前にあるのが丹波島宿。
家々には魔除けの飾り瓦があるのが特長的です。

家の門には昔の屋号が書かれてあったりと
宿場を意識した町づくりを感じます。

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この先では犀川を渡りますが
河川改良で渡し場を含めて一部消滅しています。

犀川は松本平では梓川や奈良井川なのですが
新潟県内になると信濃川へと名前が変わります。
松本付近から続く流れは日本海へと流れているわけですね。

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橋の欄干に注目です。
時代毎の橋のイラスト描かれています。

当初は渡し舟、舟橋、木橋の時代を経て鉄橋。
そして今のコンクリ橋。

交通量が多かったことこともあって
各時代の技術を取り入れた様子がわかります。

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橋を渡った先には立派な常夜灯。

元の渡し場付近から移設されてきたもので
善光寺が近いことを感じさせてくれます。

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しばし旧道を進むと長野駅前。

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ここからは善光寺まで真っ直ぐ道なりに進みます。

丁石しかり常夜灯しかり。
次第に参道の光景が濃くなっていきます。

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善光寺の門前には立派な芝居小屋がありますが
江戸時代においても付近には芝居小屋が建ち並んでいて
多くの人で賑わっていたそうです。

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この場所は善光寺の入口と呼べる場所で
日本海への北国街道は右へと進路をとります。

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夕方なので人通りが疎らな参道。
善光寺は提灯がぶらさがる珍しい光景に出会えました。

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posted by にゃおすけ at 19:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | その他の街道 | 更新情報をチェックする