2015年10月28日

水戸街道その2・亀有→天王台駅

2年ぶりの水戸街道歩きになりました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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亀有駅をスタートすると
まず中川に差し掛かります。

中川は江戸時代はじめまでは
利根川と荒川の本流とした流れだったそうです。
その後の工事でそれぞれ東へ西へと川筋を移設して
中ほどに残った流れが中川というわけです。

かつては橋の横に大きなタブ木が植わっていたのですが
切り株だけのモニュメントが作られていました。

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この中川を渡り終えると「新宿」
読み方は古くは「あらしゅく」と呼ばれていたのですが
今は「にいじゅく」と呼ばれています。

宿場の中ほどでL字に折れています。

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そこにあった煎餅屋さん。
なんとも味のあるお店のたたずまいです。

そういえば、
関西では煎餅屋は関東に比べると少ない気がします。
あるのは和菓子や饅頭屋といった甘い店が多いです。

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新宿の端で成田道と分かれます。

ここにはかつて大きな道標があったのですが
現在は”葛飾区郷土と天文の博物館”に移設保存されています。

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帝釈天道の道標。
あの有名な柴又の帝釈天へと道が続いています。

古地図を見ていると賑わいある光景を見ることが出来ます。
江戸から日帰りで行ける場所にあった帝釈天は
庶民にとって人気スポットだったみたいです。

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JR貨物線の浜街道踏切を渡ります。

こんなところに浜街道?なんですが
水戸街道は元々は日本橋から水戸城下を結ぶ街道でしたが
明治以降は岩城街道とまとめて陸前浜街道として扱われています。

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葛飾橋で江戸川を渡ります。

かつては江戸防衛の観点から橋が設けられず渡し舟でした。
ただし将軍が鷹狩りなどで通る際は舟橋が設置されたそうです。

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松戸側の渡し場跡の様子ですが
河川敷になっていて痕跡を見つけるのは困難になっています。

反対側の金町側には関所もあったのですが
こちらもすっかり河川敷きの中です。

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この渡し場付近では
鮮魚を扱う店が多く賑わっていたそうです。
江戸川では今も天然うなぎが取れるとのことで
松戸ではうなぎ屋を何軒か見かけることができます。

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松戸宿に入ります。
昔ながらの痕跡は少ないようですが
秋祭りの準備で町は活気に満ちていました。

自慢の神輿が道路に出ていて心躍ります。

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一方、松戸神社に寄ってみると
七五三で賑わっていました。

町の雰囲気は昔の面影が少ないものの、
こういう昔ながらの風習はいいものですね。

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松戸神社の手前には坂川が流れています。

別の名は「逆川」で江戸時代に開削された人工河川です。
開削までは江戸川の水が逆流する浸水被害が多かったといいます。

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馬橋宿(間の宿)の入口。

ここには地名の由来になった橋が架けられています。
馬橋が架けられる前は大雨の度に流されていたのですが、
とある坊さんが馬の鞍の形をした橋を架けたところ
流されることがなくなったということです。

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馬橋を出ると幾分アップダウンが増えてきます。
この醤油壺で出来た坂は見事ですよね。

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付近の旧道は少し高台になっていて
往時の雰囲気がいい感じで残っていました。

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さて次は小金宿です。
今も江戸時代に建てられた旅籠が残ります。

小金宿の規模は松戸宿の半分ほどだったそうですが
水戸藩にとって江戸との距離がちょうど良い位置なことから
専用の本陣や旅籠が設置されて重要な宿場だったようです。

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元は小金城の城下町として発展した小金。
この地は太日川(現在の江戸川)の要所でもあったので、
水運により城下に市が立ち並び宿場が形成されていきます。

城自体は江戸時代を迎える前に廃城となってしまいますが
軍事的にも経済的にも栄えた場所であったようです。

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水戸道中と書かれた立派な道標。
隣には水戸海道と書かれたものもあります。

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柏へと歩いていくと日光東街道を過ぎたあたりは
松並木が続いていたのですが面影がありません。

また一帯は小金牧あるいは上野牧と呼ばれて
江戸幕府軍馬放牧場があった場所だったそうです。

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柏集落の入口には凹状をした木戸があったわけですが
関所の役割はもちろん馬の放馬防止の役目がありました。

街道の横をよく見ると土手があるのがわかりますが
これも一つの放馬防止対策だったそうです。

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日光東街道との追分

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柏に入ります。
柏神社の周辺の賑わいは凄いですね。

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ここ柏は江戸時代は一集落に過ぎない町でしたが
明治になって鉄道が開通してからは交通の要衝になり
広大な放牧場や開墾を経て大きくなった経緯があります。

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北柏駅付近は大きなアップダウンが出てきます。
ここはかつての難所「根戸の大坂」がありました。

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常磐線を跨線橋を越すと我孫子宿に入ります。

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茅葺の大きな家があったのには驚きました。
これは宿場の問屋兼名主であり脇本陣跡とのことです。

この他にも料理屋が固まってる場所があったりと
宿場の名残りがどこかに残る我孫子宿でした。

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我孫子宿の外れで成田道と分けます。

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「右 成田道」

この立派な道標の前には
花が飾られていていました。

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車庫で分断された先に旧道が残っている

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10月にもなると日暮れが早いです。
17時を過ぎるともう真っ暗でした。


   
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2015年10月21日

日光東街道その2・境宿→雀宮宿

一気に日光街道との合流点に向かいます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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境宿の朝。
利根川を前にした宿場だけに規模は大きく、
南北に続く町並みは一見の価値があります。

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画像提供・東京国立博物館

古い絵図にもバッチリ町並みが描かれています。
これは五海道其外延絵図の関宿通多功道というもので
幕府の手によって作成されたものです。

こういう絵図は重要な街道のみ作られていることから
日光東街道も主要街道であったことがわかります。

絵図は東京国立博物館の画像検索で見ることができます。
他にも東海道や中山道などもあり見応えたっぷりです。

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日光東街道は単調な景色が多いですが
絵図を手元に見ながら歩くと楽しいものです。

今回の区間においては柏→境宿までと比べると
住宅地は減り田畑が広がる光景が多くなっていきます。

この辺りはお茶の産地ということから
茶畑を見かけることができました。

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谷貝宿。
100軒規模の宿場町でした。

道路を見てみると宿場の前後において
幅が異様に広くなっているところを見かけます。

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明治期の地図で確認してみると
道に沿って点々が付いているのがわかります。
この印は松並木か杉並木があったということで
道幅が広い理由はその跡地だったというわけです。

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たとえばこういう場所

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続いての宿場は仁連宿。
入口には枡形の跡が残っています。

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この直角カーブが枡形の名残

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仁連宿は120軒前後の宿場町でした。

絵図によると宿場の中央部に
高札場があり向かいには本陣があったそうですが
先ほどの谷貝宿と同様あまり面影が残っていません。

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仁連宿の絵図

この辺りの宿場は短い間隔で続いています。
次の諸川宿は一転して古い風情が残る宿場でした。

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見世蔵作りの立派な家々が残っていて
本陣が付近には屋敷の塀が続いていました。

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この微妙になカーブをしてる道筋なんて
おそらくは枡形のような役割があったのではと思います。

橋を渡りクネクネした旧道を進むと七五三場の集落です。

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この七五三場の手前に旧道が残る

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読み方は「しめば」。なかなの難読ですよね。
iPhoneで入力するとキチンと変換できたのには驚きました。

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由来としては幕領で養蚕などの聖地だったらしく、
立入禁止ということの〆(しめ)とのことです。
行事の七五三とはどうも関係ないみたいです。

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野菜畑の光景が続きます。
立派な長屋門を構えた家々が増えてきました。

武井宿を経て吉田用水の水路と合流し、
水路と平行して進むと結城宿に入ります。

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結城は城下町でもあるので防御の観点からか
道筋が大きくコの字に曲がっています。

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絵図で確認するとこの通り。
ここまでなっている宿場はそうそうありません。

土地勘があれば短絡して歩く人もいたでしょう。
しかし正確な地図やGPSも持たない当時の旅人にとっては
道にある並木や家並みになんとも心強いもので
この絵図の通り歩いて行ったのではと思います。

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毘沙門天の前にある追分常夜灯。
台座には小山、さかいの文字が刻まれています。

毘沙門天は街道から少し離れた場所にありますが
おそらくこの道標は寺に寄り道をした旅人が
本来の道に戻るための道しるべではと思います。

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結城は関ヶ原の戦い以前は
徳川家康の次男秀康が結城家の養子に入り支配していました。
その後は幕領を経て譜代の水野家が支配していくことになります。

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結城というと結城紬で有名ですね。
取り扱う立派な家々が軒を連ねています。

軒先には結城紬ののれんが掛かって
なんとも風情がいいものです。

名物としては「ゆでまんじゅう」を見かけました。
饅頭を茹でたものでほっこりしててなかなかの美味でした。

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結城宿の北の端に2つ面白い道筋がありました。
上の写真は枡形の役割をもっていたようです。(1)の場所。

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この場所は絵図では真っ直ぐの道が描かれていません。(2)の場所。
一見、直進の道も古い道であるようにも見えるのですが
白い建物の後ろが少し小高くなってるのに注目です。

この小高い丘は、当時の技術においても
切り開いて直進する道を作ることが可能だったと思います。
ここをあえて迂回する形で道を作ったということは
自然の地形を利用しての枡形ということなのでしょう。

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筑波山が見えてきました。
物流基地を過ぎると山の中に入っていきます。

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アスファルト舗装がなければ
まるで江戸時代に戻ったかのような光景です。

この売店なんて茶屋のよう。

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北関東は麦畑が多いですね。
相変わらず一本道が続きます。

ふと横の景色を見てみると
街道は他の場所より一段高い場所を進んでいるのがわかります。
川と川に挟まれているので安定した場所を選んでということなのでしょう。

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仁良川の集落には陣屋がありました。
宿場ではないので人家は少なかったようですが
絵図を見ると立派な枡形があり重要な場所だったことがわかります。

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不自然に曲がり道が多い薬師寺付近。
街道沿いには石仏が大事に安置されていました。

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下野薬師寺は資料館が併設されています。
奈良時代において正式な戒壇が設けられたのですが
当時全国に3カ所しかない珍しいものだったので
「本朝三戒壇」と総称されたそうです。

現在は発掘調査が進んでいるようですが
あまりの広い敷地には圧巻でした。

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大谷石を使った建物が増えてきました。
やがて多功宿に入ります。

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古い道標には石橋の文字が刻まれています。

これは日光街道の石橋宿のことで、
この辺りは日光街道とほぼ平行して進んでいきます。

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JRの貨物ターミナル付近を過ぎると日光街道との追分。
雀宮宿はまだ少し先ですがこれにて完歩としました。


  
  
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2015年10月07日

日光東街道その1・柏→境宿

日光への道シリーズ。
千葉県からの日光東街道を歩きます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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日光東街道は左へ

南柏駅にほど近い場所がスタート地点。
ここは水戸街道との追分にあたります。

この辺りはかつては幕府の馬の育成場で
今も地名に名残りを見ることが出来ます。

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旧日光街道入口の交差点。
ひたすら一本道を進んでいきます。

ここからしばらくは
神社や石仏、寺などをほとんど見かけません。
現在は開発されて住宅街を形成していますが
昔はそれほど住んでいなかったということでしょう。

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さて、日光東街道とはどういった街道なのでしょう。

栃木県の宇都宮の手前の雀宮宿で日光街道と合流する道で、
いわば千葉県周辺からの短絡路といった意味合いがあり、
日光参詣目的の他、参勤交代でも利用されていました。

名称としては日光東往還、結城道、関宿道、日光街道の他、
幕府では関宿通多功道と呼ばれてます。

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おおたかの森駅の周辺は
開発により大きなマンションが立ち並んでいます。

公園の一角には一里塚が復元されてました。
塚には木が植えてあり100年後の姿が楽しみですね。

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駅を過ぎても続く開発の波。

かつての街道は区画整理によって
近い将来は何もなくなってしまうのでしょうか。
バリケードが設置され通りにくくなってました。

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枡形のような道筋にかつての名残

初台、江戸川台と東武野田線沿いを北上していきます。

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所々に残る街道の痕跡

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利根運河を渡ります。

これは江戸時代にはなかったものですが
舟運目的で明治23年に江戸川と利根川を結ばれました。
旧来の川筋を行くより40キロも短縮したそうです。

往時はたくさんの舟で賑わったとのことですが
常磐線が開通してから衰退していきます。

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橋のたもとにはビリケンさん。

関東で見かけるのは珍しい気がします。
しかも福の神と彫られていて大正時代に作られています。

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街道沿いにはこのような石仏群が多く見かけます。

特に庚申塔の多さにはびっくりです。
関西ではあまり見かけませんし関東にいることを実感します。

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やがて最初の宿場町「山崎宿」
宿場の雰囲気はバス停の名前に残る程度で
それがなければ通りすぎてしまうほど。

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この木製の常夜灯は素晴らしいですね。
結構な年代のものと思うのですが
一体いつごろのものなのでしょう。

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森の遊園地の観覧車が見えると野田市中心部へ。

野田駅周辺はレトロな雰囲気が残っていますが
日光東街道は少し離れた場所を進んでいきます。

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市役所付近にある広大な森。

かつては放牧地だったようで
馬が外に出ないよう土塁や水濠が設けれられていました。
今も右手に「野馬土手の痕跡」として痕跡が残ります。

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次第に郊外の様相になってきました。
ゴルフ場の横を通っていきます。

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国道16号と交差するあたりは
大きくL字状に迂回する形の道筋になっています。

これはおそらく弁天池が残っているように
付近一帯は大きな湿地帯だったのではと思います。
街道は湿地を避けるように通っていたのでしょう

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中里宿。
店ののれんに宿場名が記されていました。

この先にもゴルフ場があるのですが
旧道はゴルフ場の中の擁壁の中に吸い込まれています。

私有地なので侵入することはできないのですが
隙間から見るとしっかりした道筋が残っているのが確認できます。

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残ってるのは嬉しいのですが・・・。
通れないのでなんだか複雑な気分です。

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関宿(せきやど)が近づいてくると
街道は江戸川の河川敷の中に吸い込まれてしまいます。

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これは治水工事の影響なのでしょう。
堤防が立派になったのは良いことですが
おかげで道筋の痕跡を見ることが出来ません。

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若い松並木。

復活プロジェクトか何かで1km以上続いていたと思います。
柏にあった一里塚と共に100年後が楽しみですね。

やがて関宿の城下町へと入っていきます。

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関宿城の埋門が街道沿いに移設されていました。

このように城の痕跡が
少ないながらも残っていたりするのですが
肝心の本丸付近は江戸川の河川敷になってしまっています。

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また関所もあったのですがこちらも河川敷に。
関所では舟改めを主にしていたそうで
川に半島状に突き出した棒鼻が特長的でした。

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こちらは三の丸跡からの構図。
博物館の模擬天守がいい感じで見えていました。

古地図を見ながら歩いていると
古くからの道筋が結構残っているもので
散策を1時間ほど楽しむことができました。

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関宿を過ぎると利根川を渡ります。
千葉県から茨城県へ。

すっかり日が暮れてしまいました。
対岸の境宿は予想していた以上に大きな町でした。

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川渡し場で賑わった境宿。
宿場の中心部には立派な家が軒を連ねます。

次回は一気に雀宮宿を目指していきます。

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