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天王台では”台”と名前にあるように、
起伏のある台地状を進んでいきます。
立派な鳥居があり懐かしい光景が広がります。
ふと国道6号の左手を見てみると
国道と田畑とで高低差が目立ちます。
平地は利根川を前にした低湿地帯だった影響で
街道は地盤が安定してる山沿いに作られたようです。
やがて間の宿である青山宿。
国道から一つ中に入っているので静かな町並みです。
利根川の増水時は大いに賑わったことでしょう。
青山宿を過ぎると利根川を渡ります。
現在は堤防と堤防の間を広くとっていますが
水路自体は今も昔も似たような幅だったそうです。
ちょうどこの辺りが船渡し場だった
利根川の先にある宿場は取手宿。
水戸街道の中でも新しい部類に入ります。
江戸時代の初期は我孫子宿を出ると
成田街道の道筋を通り布佐付近で利根川を渡るルートで
この先の若柴宿手前で合流するので大回りでした。
なぜ、江戸時代初期はこのような道筋だったのか。
それはこの先の道筋にヒントがあります。
取手宿。かつては宿場町としての機能の他にも
利根川水運の拠点地でもあり大変な賑わいがありました。
旧街道沿いには古い家が多少残っていて
なかなかの風情が残っています。
本陣は染野家住宅で1795年築造のものです。
茅葺の大きな建築は本陣としては珍しいもので
パッと見は田舎の大きな住宅といった感じなのですが
使われてる木材や唐破風造りの玄関などを見ていると
本陣の”格”というものを感じることができます。
週末を中心に公開されていて
周辺の街道の古写真の展示もありました。
八坂神社の狛犬。
険しい岩の上に凛々しく立つ姿のものは
関西では見かけないタイプですね。
次の藤代宿にかけては平坦な道筋を進んでいきます。
遠くに筑波山が見えてきました。
立派な水田が広がります。
地名に「新田」が付く場所が多くなってくるのですが
昔は小貝川水系の低湿地帯で通行に難がありました。
これが先ほどの江戸初期まで大回りしていた答えの一つで
江戸中期以降に水戸街道の新しいルートができてからも、
取手宿〜藤代宿の間には「本通り」「中通り」「椚木廻り」「大廻り」といった
増水時対策の迂回路が用意されていました。
古い道標には江戸の文字。
裏には水戸と書かれています。
常磐線の踏切を渡ると藤代宿です。
踏切の名前は旧陸前浜街道踏切でした。
宿場の中ほどで直角に曲がっています。
写真の左手にある公民館が旧本陣です。
広大な敷地の中には元々あった植木が残っていて
かつての名残を感じることができます。
藤代宿の隣町には宮和田宿という宿場もありました。
宮和田宿は藤代宿と日によって交代する当番制だったので
現在では藤代宿としてまとめて扱われるのが一般的ですが
宮和田宿にも本陣が存在した立派な宿場でした。
小貝川を渡ります。
かつての暴れ川は今はとても静かです。
ここは下総国と常陸国の国境でした。
小貝川を渡った先は
こんどは牛久沼流域の低湿地帯に入ります。
平坦な道が続きやがて大きな道標。
ここが江戸初期の水戸街道の合流地点です。
文政9年のもので
水戸16里 江戸13里 布川3里と書いてあります。
水田の中を進みと
左手に細長い台地状の地形が見えてきます。
これが若柴宿で街道から横方向に見渡せる宿場は
そうそうあるようでないもので珍しいものです。
台地上に広がる若柴宿。
湿地帯を避けた場所に設けられた宿場で
メインストリートの左右両側には坂があって
昔ながらの名前がそれぞれについています。
宿場の出口はクランク状になっていて
それを過ぎると起伏がある道筋になっていきます。
森のような鬱蒼とした中も通っていきます。
この膨らみはなんでしょう?
これは成井の一里塚。
上に木が残ってないので一見するとわかりませんが
両塚ともに残っているのはポイントが高いですよね。
牛久宿。「く」の字型の宿場町で
江戸側が下町で水戸側が上町と呼ばれていました。
牛久駅前は国道と合流することから
結構な賑わいがありました。
やがて今回のゴール「ひたち野うしく駅」
ここは科学万博の臨時駅でした。