瓦坂峠、松子山峠、飢坂と続きます。
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早朝の三原宿。
この日は放射冷却で冷えました。
さすがは城下町だけあって西の惣門跡付近までは
枡形のような痕跡がいくつも見受けられます。
順勝寺の山門は元は三原城のもの。
戦国時代のもので建て方に古さを感じますね。
新幹線の高架を越えると海へと進路をとります。
この辺りは区画整理の影響で大きく消滅してしまっています。
旧道復活が復活する安芸と備後の国境には
明治期と大正期の2つの国境石がありました。
木の浜一里塚跡。
かつては周辺が沼田川(海)だった影響で
地名に浜という名前が今も残ります。
この付近を走るJR山陽本線は
昔は海側にグルッと回るルートだったのですが
現在はトンネルが出来てショートカットしています。
この山のどこかに道があったのだろう
街道も古くは峠道でショートカットしていたようですが
いかんせん資料が少なく山の形容を眺めていると
怪しい道筋が見えたりして悩ましいところでした。
本郷宿に入ります。
国道と離れてるのでひっそりとしています。
町中にあふれる「お好み焼き」ののぼり。
このお好み焼きは俗にいう「広島焼き」のことですね。
沼田川の渡し場跡(大渡)。
水量が少ない時は歩いて渡っていたといいます。
橋の横には地蔵、常夜灯があり必見です。
のどかな道が続きます。
国道を少し下に見る形で続く道筋は
川の氾濫から避けるためか少し高台を通っています。
またこの付近は古墳が多いのも特長的です。
特に御年代古墳は国指定史跡に指定されています。
草道のある旧道風情はいいですね。
藪が少ないので歩きやすくハイキング気分です。
追分というバス停がありましたが
ここは竹原方面との分岐にあたります。
最初の難所は瓦坂峠です。
峠入口までなだらかな坂が続いていくわけですが
サテライト山陽という場外車券場付近では
藪があって少し歩きづらい感じでした。
瓦坂峠の手前の旧道
一般的に今の時期(4月)は藪の量が少ないので
旧道探索に適しているといえます。
逆に10月ごろは薮の最盛期なわけで
写真のような場所でも歩けなかったりすること多々あります。
この先の瓦坂峠の雰囲気もきっと違うハズ。
石畳が残る瓦坂峠付近。
峠での展望はよくありませんが
いかにも峠といった雰囲気がありました。
広島城下から13番目の峠ということで
十三峠とも呼ばれることがあったそうです。
下り坂にも石畳が残っています。
横大路の集落が見えてきました。
横には綺麗な小川が流れます。
ここは名前のとおり道に関係した集落で
道標があり間の宿の役割もあったのでしょう。
東 大坂 西 廣島 道。
南 竹原 北 三次 道。
明治年間のものです。
寛政年間の雨乞いの地蔵さんもおられます。
こちらは振り返ってみての構図。
道標に地蔵に峠のある光景は
まさに萌えの3点セットといったところでしょうか。
一里塚の跡。
安芸国に入ってからは自治体が立てた案内をよくみかけます。
家々の屋根に目を移すと
この地方独特な色合いをした瓦が増えてきました。
立派な石積みが多いのもこの辺りの特長ですね。
田万里市は間の宿です。
この写真の手前には枡形の跡がありました。
峠を前にした休憩所の役割があったものと思います。
広島や山口では宿であっても市と称することがありますが
町は市(市場)から発展したということなのでしょう。
この先にある海田宿も海田市というのが一般的ですね。
次なる難所は松子山峠です。
かつては難所と言われるほどの険しさはなかったようですが
現代になって通る人が少なくなり道は荒れてしまいました。
まさに現代になっての難所といった感じで
特に夏場は大変な状況になってるのが想像できます。
峠の入口はこの草道。
パッと見た感じは農道の入口っぽいですが
この先にある国道バイパスがある影響で廃道になっています。
バイパスとぶつかるあたりは痕跡すらほどんどなく、
竹林の中をよじ登らねばなりません。
松子山峠はもう少し先。
県道と交差するあたりには一里塚跡がありました。
碑は塚のモニュメントの少し手前にひっそり立っています。
モニュメントは塚が2個きちんと作られていて
なかなか立派なものでした。
山道に入ります。
先人の方々のレポートでは激しい藪の記述が多いですが
時期的なものもあってか少し荒れたハイキング道な感じでした。
手作りの西国街道の案内看板に沿って進んでいくと
あっけなく松子山峠に着いてしまいます。
道筋には溜め池が何個かあるので
池沿いに進んでいくと良いかもしれません。
松子山峠を無事越えると四日市宿(西条)。
水が美味しい日本酒の町です。
立派な蔵がある店が立ち並びます。
各酒蔵の前には名水を飲める井戸があり
名水めぐりを楽しむ人で賑わっていました。
今の西条は酒どころとして有名ですが
有名になったのは実は明治時代になってから。
江戸時代は安芸藩随一の規模の宿場町でした。
松子山峠を前にした重要な場所でもあったので
本陣は藩直営で運営されお茶屋番をおいていました。
この何気ない川が西条のいわれ。
川を境にして西を西条、東を東条として賑わっていました。
次の難所は飢坂峠です。
予定では西条で終わるつもりだったのですが
松子山峠が思いのほか楽だったので予定より早着してしまい
翌日は雨予報だったので八本松駅まで進むことにしました。
飢坂峠に続く一本道。風情がありますね。
読み方は「かつえ坂」といいます。
名前の由来は空腹で多くの人が倒れたり、
飢饉で苦しんだ場所などそれっぽいことが書かれています。
鬱蒼とした峠道を抜けると
八本松の集落が見えてきました。