2016年02月24日

伊勢南街道その1・和歌山城→名手宿

和歌山城から伊勢へ向かいます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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和歌山の街道の起点というと京橋です。
大阪や奈良、伊勢、四国方面への道が延びています。

橋の南側は和歌山城内になるので
一般人はここからスタートです。

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ぶらくり丁。

和歌山市街地は町名が「町」と「丁」と混在しています。
これは江戸時代の名残で「町」は町人の居住地、
「丁」は武士の居住地だったそうです。

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この付近は和歌山でも一番の繁華街。
昼から夜にかけて多くの人で賑わっています。

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しばらく紀州街道の道筋と重複して進みます。

伊勢南街道は伊勢へと向かう道ですが
別名で大和街道や和歌山街道とも言われています。

古代においては南海道の一部にあたり、
江戸初期は紀州藩の参勤交代路としての役割もありました。
参詣道としても伊勢、高野山、西国三十三カ所、大峰山など、
街道沿いに数多くの信仰場が存在しています。

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嘉家作丁の交差点。
「懸け造」という独特な家々が連なっています。

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和歌山市街は空襲にあっているので
古い建物は少ないだけに貴重な存在です。

この付近は国道に沿って歩くわけですが
北側は一段下がっているようになっています。

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その理由は紀ノ川の旧堤防だった名残。
1633年の紀ノ川大水害後に築造されています。
当時はすぐ横に川が流れていたわけです。

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地蔵の辻。

パッと見はいたって普通の交差点ですが
市街地からの別ルートが交わる地点である上に
有名な地蔵があったので多くの人で賑わっていた場所です。

お地蔵さんは移設されてしまっていますが
少し離れたJRの高架下におられます。

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四ヶ郷の一里塚。

市街地にも関わらず対になって残っています。
横にあった案内看板によると道幅はほぼ昔のとおりで
地盤は今より少し低かったようです。

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和歌山市街地も郊外になっていくと
水田が広がる光景になってきました。

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八軒屋宿は紀州街道との追分にあたる宿場で、
大坂へはここから渡し船で対岸へと渡っていきます。
江戸時代中期以降の参勤交代はここで渡っていました。

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堤防上の国道を進みますが歩道がないので要注意。
千旦の交差点で旧道へと折れていきます。

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この付近は弧を描いた道筋になっています。

これは旧紀ノ川の自然堤防を利用したもので、
先ほどの国道の堤防道も元は自然堤防だったわけです。

この弧を描くような道筋は結構長く、
だいぶ先にある船戸の渡しまで続くことになります。

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6月の頭は田植えのシーズン。
水田がまるで鏡のようで美しいものです。

いくつか雲があったほうが写真に映えますね。

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布施屋駅付近。
熊野街道と交差します。

この先には馬次の集落がありますが
名前の通り継立場があったそうです。

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馬次は宿場のような役割があったので
立派な古い家が点在しています。

気が付けば紫陽花の季節。
季節は目まぐるしく変わっていきます。

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ここが船戸の渡し場跡。
伊勢神宮の常夜灯と古い家のコラボがいい感じです。

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紀ノ川にはいくつも渡し場がありましたが
伊勢南街道のメインは船戸の渡し場です。
対岸には取締りの番所が設けられていました。

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岩出宿。
今も良い雰囲気が所々に残っています。

規模的には大きいもので
紀州藩主の別館も置かれていたほどです。

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宿場内は少し複雑な道筋になっていました。

下の写真は道路の角にあった道路元標ですが
普通の路地といったところにあったので驚きました。
ここがかつてメインルートだった証ですね。

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岩出の道路元標

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岩出宿の先にあった立派な道標。

右 こかわ二リ半 かうや(高野)道
左リ 祢ごろ(根来) 大坂道

岩出から先では歴史街道の標識を多く見かけますが
歴史街道的には「大和街道」と案内されています。

奈良へ行く道でもあるので間違いではないのですが
沿道にある数多くの道標には大和(奈良)と文字は殆どなく、
圧倒的に伊勢の文字が多くなっています。

そう考えると、大和街道というよりは
伊勢街道として紹介するほうが合っていると思うのですが、
こればっかりは何か考えがあってのことなのでしょう。

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道標の先の地域は岡田嶋。
かつては紀ノ川の氾濫原でした。

井阪地区からはアップダウンが出てきて
河岸段丘の地形を使った道筋になります。

付近には条里制の時代の道の痕跡が残っていて、
この大きく弧を描く道筋もその一つだそうです。

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紀ノ川の渡し場があった付近の町並みには
賑わいを感じる家並みが続いていました。

東田中神社の前には一里塚がありました。

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左に長田観音が見えてきました。
厄除けで有名な観音さんです。

角にあった立派な道標を見てみると

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右 いせ かうや
左 長田厄除観音 こかわ寺へ ぬけみち

ここにも大和(奈良)の文字がないですね。

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アスファルトの下は石畳だったのでしょうか

松井の集落は粉河の元々の集落でした。
何かの都合で粉河寺の門前に移転してきたようですが
その辺りの詳しいことはわかりませんでした。

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先ほどの「こかわ寺へ ぬけみち」の道標ですが
正式な分岐点(抜け道ではないルート)はこの辺りで
山側の粉河寺を遥拝できるお堂が建っていました。

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その場所に立っていた道標がこちら。

こかわ いせみち

なかなか立派な自然石のものです。

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淡路街道との追分。
四国、淡路方面の港である加太とを結ぶ道で、
ここから先は一層賑やかな道中になっていたのではと思います。

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常夜灯と自然石の道標がいいですね。

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高野辻。
和歌山市街地から高野山への分岐点です。

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常夜灯には弘法大師永代常夜灯と書かれ、
右 かうやみち 左 いせ まきのを とも書かれてます。

「まきのを」とは西国三十三カ所の槇尾山のこと。

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名手宿。
久しぶりに見る大きな集落です。

ここには本陣建物が残っていて見学可能でした。
無料で16:00まで中に入ることができます。

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2016年02月17日

西国街道その13・八本松駅→西広島駅

いよいよ広島城下へ。
雨の道中になりました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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いきなり難所が待ち構えています。大山峠です。

明治に入って現在の国道と鉄道が出来るまでは
大山峠がメインルートで多くの人が行き交っていました。

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山深い場所ですが
八本松駅の時点で既に標高が高いので
東から進む場合は意外と楽な峠越えです。

しかしながら、道の状態が悪い。
靴がドロドロになってしまいました。

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大山峠での下り道。

峠の前でもそうだったのですが
明治時代に土砂崩れがあった影響で
元々の道が一部付け替えられてしまっています。

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綺麗な滝です。

大山峠は急だったため駕籠に乗った人も
ここから歩いて登ったのだとか。

やがて民家が見えてくると
川と国道と線路と平行して進みます。

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この付近の鉄道はセノハチと呼ばれています。
貨物列車は補機がないと運行に支障がでるほどの難所です。

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時おり1両で下ってる行く姿を見かけますが
これは次なる押上げのために回送しているためで
他ではあまり見かけない珍しい光景になっています。

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川の水がとても綺麗です。
名残りの松が残っていて風情ある中を進んでいきます。

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瀬野駅手前には間の宿がありました。

平山神社を中心に発展してきた上瀬野一貫田宿。
大山峠を前にした休憩の拠点でした。

広島らしい瓦の民家が軒を連ねます。

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瀬野駅の裏側の旧道には明治の道標がありました。

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「左、縣道。右、國道」

こういう道のみの表記は珍しいですよね。

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「右ハ 四日市、左ハ志わ」

道標の横には一里塚の跡もあったりしたので
かつての瀬野は一大拠点だったことがわかります。

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安芸山陽道の標識。
海田市付近まで多く見かけることができました。

瀬野を過ぎれば広島市街地まで近くなってきます。
山にへばりつく形で新しい住宅地が開発されています。

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この立派な松は出迎えの松。

広島城下が近いこともあって家来はここで
参勤交代の責を終えた藩主を出迎えてました。

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安芸国内の道幅は二間半(4.55m)と定められて
松並木や一里塚が整備されていました。

今は数本しか残ってませんが
古写真を見ると往時の姿が目に浮かびます。

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海田宿手前には「海田ふるさと館」がありました。

地域の民俗歴史資料の展示がある資料館で、
街道沿いにあった道標が移設されてあったり、
海田市の土地の変遷など興味深いものでした。

裏にある巨大な檜も必見です。

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この道の膨らみは街道松があった名残り。

案内板には古写真が添えられていて
リアルに情景を思い浮かべることができました。

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こういう新旧対比できる案内板はいいものですね。

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海田宿の本陣跡。

広島藩は藩主の公用宿泊所として藩直轄が多かったのですが
これらは御茶屋とも呼ばれ藩主以外も利用できたそうです。

往時の建物自体は既になくなってるのですが
幅広な土地と豪華な石積みのスロープに面影がありました。

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海田宿の重要な場所の一つが海田恵比寿神社。
この神社を中心に上市、中市、下市と地域がわかれていました。

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左手にある千葉家住宅は見学することができます。
千葉家は藩の輸送に関する重要な役目を担っていました。

江戸時代の木造建築物です。
原爆で広島市街地の古い建物がなくなってしまってるので
往時の雰囲気を伝える貴重な建物ではないでしょうか。

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海田宿を過ぎると船越峠が待ち構えています。

海田市という町は江戸時代から海の干拓が活発だったので
時代を追うごとに使える土地が広くなっていっています。

瀬野川の流れも土地改良の影響で川筋は変わっています。
昔は宿場中心部である今の海田市駅付近を流れていました。

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船越峠手前にある旧道分岐ポイント。

どちらも西国街道で正解ですが左は1808年以降の道です。
対する右はそれ以前の道でプチ峠越えが待っています。

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ようするに1808年までは左の道筋は海が広がっていたということで
海を避けるために峠越えをせざるえなかったのでしょう。

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船越峠は今や住宅街の中にある峠ですが
雰囲気的に昔は山の中だった雰囲気がプンプンしています。

この船坂峠への街道の道筋は
一車線にも関わらずとんでもない量の車が行き交っていて
歩くのに大変苦労したのですが峠を越えて謎が解けました。

峠の先はなんと4車線道路のバイパス道。
だから多くの車が殺到していたわけですね。

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広島市街地に入ってきました。
住宅街の中を進んでいきます。

原爆爆心地から3.3km地点。
寺の前に当時を伝える案内看板があったのですが
写真を見ると全壊寸前だった様子がわかります。

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古い家屋はないものの道筋は昔のままなので
多くの被災者もこの道を通ったのだろうと想像できます。

この先の西国街道は爆心地を通っていくわけですが
広島市街地区間は原爆と切り離しては語れないですね。

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三本松跡。

三本松が植わったモニュメントと
横には我羅我羅橋の跡がありました。

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かつて小川に架かっていた橋だったのですが
竹で出来た橋だったので渡る時にガラガラ音がしたとのことです。

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広島駅構内を過ぎると猿猴橋を渡ります。

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広島は太田川の中州で栄えたので
この先で何本もの橋を渡ることになるのですが
戦前からの橋も原爆に耐えいくつか残っています。

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この猿猴橋の竣工時は
立派な飾りが欄柱の上に立っていましたが
戦前の金属回収によって撤去されてしまいました。
でも、最近になって復活の動きがあるみたいです。

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猿猴橋の次は京橋。

城から見て京に近い橋ということで京橋ですが
ここからがいよいよ広島城下ということになります。

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繁華街の中を通り抜ける西国街道。
多くの若者で賑わっていました。

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爆心地近くが広島宿。
元安橋のたもとには道路元標があります。

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かつては大きな高札場も立っていたり、
太田川を行き交う水運(人、モノ)の利から
城下の中心として賑わっていました。

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元安橋から見る原爆ドーム。
ドームと街道とは目と鼻の先の位置です。

街道は平和公園の中を抜け己斐橋を渡ります。
己斐橋は太田川の本流に架かる橋です。

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やがて今回のゴール西広島駅。
広電に乗って帰路につきました。


  
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2016年02月04日

西国三十三箇所めぐり。施福寺と巨石ハイキング。

西国三十三箇所めぐり4番札所は
大阪府は和泉市にある槇尾山「施福寺」です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

施福寺は山の上にあるので
西国の中でもハードなお参りです。
今回はハイキングがてら出かけてみました。

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槇尾山はいろんなコースがあります。

公共交通の便が悪いので普段は人が少ないのですが
ちょうど紅葉が見ごろの時期だったので
10時の時点での駐車場はほぼ満車状態でした。

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登山道からの周遊コース歩きました。

槇尾山は大阪府南部に位置しているので
関空や和歌山方向の眺めが素晴らしいです。

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槇尾山の山頂。

木を伐採してくれているおかげで
展望が効いて良い感じです。

少し先には名所の「蔵岩」があります。

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とても大阪府とは思えない光景ですよね。

足元を見ると見事な絶壁。
何かが縮んでいくような感覚がしました。

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かつての西国参りでは
前の札所が和歌山の粉河寺ということで
槇尾山へは和歌山側から峠越えをする必要がありました。

下は施福寺の境内にあった道標。

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左 かうやさん、こかわてら
右 さかい、大坂、ふじ井てら

前の札所はもちろんのこと
次の札所の藤井寺まできちんと書かれてあります。

巡礼は寺の番号順に回る必要はないのですが
こういう道標を見かけると順番に回ったほうが
よりご利益があるのかなと思ってしまいます。

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槇尾山「施福寺」です。
境内には大きな紅葉の木がありました。

ご朱印をもらい下山へ。

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下山道は次の札所への道でもあるので
石積みなどに歴史を感じることができます。

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山門を過ぎると駐車場。約7kmの道のりでした。


   
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