2016年03月31日

西国街道その14・西広島駅→玖波宿

宮島を眺めながらの道中。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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西広島駅からは山沿いを進んでいきます。

現在のJRと国道は海沿いなので意外ですが
江戸時代は海が迫っていて地盤が悪かったので
干拓よる平地になるまでは迂回せざるえませんでした。

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原爆の爆風に耐えた鷺森神社。この辺りも被害があった。

古江付近。「江」という地名は
かつては海沿いだった証拠ですよね。

草津にある立派な建物は小泉酒造さんです。
明治天皇が小休止されています。

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もともと草津は間の宿の役割があって
広島湾に面する港であったことから浜田藩の船屋敷あったり、
近代においては広島牡蠣養殖の中心地になっています。

草津という地名は群馬の草津温泉や滋賀にもありますが
広島の草津も結構有名だったわけですね。

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草津の先で江戸時代の本道と海辺近道と分けます。
本道は右折してさらに小高いほうへ。

広電建設などによって途中で分断されていますが
古い時代の味わいある道が続いていました。
一方、海辺近道は干拓以後のものとなるので
新しい時代の道らしく広くて対照的です。

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海辺近道

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井口の先にある龍神山。
この山の中に街道の痕跡が残っています。

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西国街道と書かれたモニュメント。いいですね。

今歩いている街道は山陽道、西国街道と
大きくわけて2つの呼び方があるわけですが
五街道と違って名前は藩によって違っていたそうで、
広島藩では専ら西国街道と呼ばれていました。

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まるで登山のような藪道。
道の脇には古い石積みが残ります。

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山頂への道の脇に残る旧道

龍神山は古絵図を見るに
断崖が迫る難所だったようです。

一応、海沿いに迂回路もあったのですが
潮が満ちては通れず足場が悪いということで
迂回するにも大変な場所でした。

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宮島が目の前に現れた

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賑わう五日市駅前

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五日市を過ぎると楽々園。
ここには名残の松が数本残っています。

川の様子を見ると海水が少し混ざっているように見えます。
これは海が近く昔は海だったことが影響してるのでしょう。
近くの隅の浜は塩業で賑わっていたそうです。

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廿日市宿。
由来は毎月二十日に本陣近くで市があったことから。

山の上には廿日市天満宮があります。
ここからの眺めは最高で宮島がよく見えました。

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廿日市から先は再び山へと進路をとります。

その直前に地御前さんへの道筋と分けます。
いわゆる「地の御前道」です。

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ここを左に進むと地御前さん

宮島の対岸に位置する嚴島神社の外宮で
かつて厳島は上陸が許されていなかったので
地御前神社から対岸を拝んでいたとのことです。

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山陽自動車道沿いの区間。
この先は並行する場所が多くなります。

街道は峠越えで距離を短絡して進むのが基本ですが
高速道路も高速性を生かすためにトンネルを利用して
距離を短絡して進んでいくのが基本になっています。

このような感じで似たルートを通ることから
平行する箇所では街道が犠牲(消滅)になった箇所が多く
便利さと引き換えになくしたものが多いように思います。

この四朗峠周辺もそんな感じ。
峠付近だけはかろうじて昔の道筋が残っていました。

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四朗峠

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狭い山道を進んでいきます。
少し藪っているところもありました。

ここは高庭駅跡。
古代山陽道の駅家にあたります。

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実は田んぼのあぜ道のような場所もあって
本当に街道なのか?と不安があったのですが
こういう史跡があると安心しますね。

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その先にある高畑ため池は江戸時代のもの。
この付近の灌漑対策に一役買っています。

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妹背の滝に寄ってみました。
雄滝と雌滝があって双方とも豪快なものです。

街道から少し離れるので寄り道した形ですが
マイナスイオンをたっぷり堪能できました。

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大野浦駅を過ぎると再び山の中へ。
坂道を上っていくと海が見え宮島も見えます。

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宮島

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この付近の道はかつては石畳だったそうです。
今は保存の観点から特殊なアスファルトで保護されています。

少し先には復元された石畳もありました。

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今回のクライマックスは残念道です。

残念という変わった名前は
幕末期において間違えて味方を切ってしまった話で
霊を慰める意味で残念社という神社が作られています。

残念道はそこへ通じる道なわけですが、
幕末の話なので明治以降に名前が付いたのでしょう。

アップダウンがありハイキング感覚で進みます。

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残念社。静かな場所です。

ここからの展望は見事なもので
「三県一望の地」と言われています。

大分県、愛媛県、山口県の三県ですね。

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ここには吉田松陰の腰掛岩がありました。
山口に近づくにつれ松陰の史跡が多くなっていきます。

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長い下り坂の長坂を下っていくと
目の前に大竹のコンビナートが見えてきました。

玖波宿まであと少しというところですが
昔の街道はまたまた山へと入っていきます。
ここも安全重視で海を避けるルートを取っていたわけです。

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線路に削られて道が細い

鉾の峠を越えると、
馬ためし峠を越えていきます。

馬ためし峠は早い時期にトンネルが出来たので
旧峠への道筋は少しわかりづらいものになっています。

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旧峠の入り口は山裾を右へ。トンネルは左へ

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先人達のサイトを見ても旧峠を進む人はおらず、
トンネルを迂回するしかない!と半ば諦めていたのですが
よーく見てみるとありました!江戸時代の峠!

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急坂で蜘蛛の巣が半端なかったですが
馬ためしというだけあって相当なものでした。

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峠を越えると玖波宿。

枡形の跡などがくっきり。
夕闇が迫る静かな空間を楽しめました。


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2016年03月17日

伊勢南街道その3・橋本宿→大和上市

和歌山と分かれ奈良へと入っていきます。
梅雨の蒸し暑い道中となりました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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橋本宿の朝。
国道には車が少なく静かです。

付近の紀ノ川は実に雄大な流れですが
県境に向けて徐々に川幅が狭くなっていきます。

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橋本宿の東の外れには
枡形の跡のような道筋が残っています。

道標には

左 こうや こかわ き三井寺 わか山
右 いせ 山上 よしの なら はせ たへま

さすがは信仰の道だけあって寺の名前が多いですね。
山上とは大峰山、たへまとは当麻寺、はせとは長谷寺のこと。

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注目すべき点としては
和歌山城から来て初めて見る「なら」の文字。

本来この道は奈良への近道なはずですが
なぜここまで刻まれてこなかったのか不思議です。

・当たり前すぎて書かれてなかったのか。
・和歌山→奈良へは別ルートが一般的だったのか。

このどちらかと思いますが
実際のところはどうだったのでしょう。

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県境が近くなってくると
若干のアップダウンが出てきます。

川幅が狭まり、丘を縫うような道筋です。

そんな中、鬱蒼とした場所がありました。
その名も闇峠(くらがりとうげ)。

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峠がピークと思いきや、
一旦下って、一気にまた登るという
凸凹した感じの峠になっていました。

名前から少し気味が悪い感じですが
周辺には墓があったり、宿場の郊外に位置することから
もしかすると刑場だったのでは?と考えてしまいます。

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かつての下兵庫の駅付近は
木賃宿がずらーと並んでいました。
橋本宿の正規の宿は高くて泊まれなかった人には
大変重宝された場所だったといいます。

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白壁が続く旧道風情。
国道から一つ入っただけなのにとても静かです。

次の真土峠は万葉集にも出てくるのですが
当時の道筋は紀ノ川寄りに進んでいたようで
江戸時代のルートとは少し変わっています。

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旧真土峠からの眺め。

車を通らせるために掘り下げられているので
国道から伸びるスロープ状の坂で旧峠まで登ります。

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県境(国境)には川が流れています。
付近の風情にかつての国境の雰囲気が残ります。

国境を越えてからもアップダウンが続きます。
長閑な田園光景が広がり平坦になると大和二見の集落です。

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踏切の名前は伊勢街道。

マップや標識類は大和街道と案内しているのが多いですが
現地で話をしていると伊勢街道という声をよく耳にします。

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さぁ、五條です。
重伝地区に指定されているので
雰囲気ある家並みが続いています。

五條の由来は
街道が5本交わっていることからと、
川が5本交わっているからなど説がありますが
少なくとも京都の五条のような意味ではないようです。

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五新線のコンクリート高架橋。

新宮とを結ぶ鉄道を建設していたのですが
途中でとん挫してしまっています。

最近までは一部の高架橋を利用しての
バスも走っていたのですがそれも廃止されてしまいました。

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まるで時が止まっているかのような町並み。

昭和チックな餅屋さんがあったり、
民家では一番古い歴史をもつ建物があったりと
五條はなかなか見どころがあります。

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本陣交差点手前にあった道標。

右 いせ 大峰山上、よしの
左 かうや わか山 四国 くまの

ここは十津川方面への分かれ場所でもあります。

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この先で紀ノ川と一旦分かれて
街道は山側へと進路をとっていきます。

なぜ、このような道筋になったのか。
おそらくは、この先の紀ノ川は峡谷になっているのと、
奈良方面への分岐の関係かなと思ったりします。

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ここで奈良方面への中街道と分かれます。

伊勢南街道はこの先に宇野峠が待ち構えています。
難所といっても今は掘り下げてしまっているので
かつてほどの険しさはないようです。

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峠を下ると再び紀ノ川が寄り添ってきます。
川の名前は紀ノ川から吉野川に変わっています。

断崖絶壁のような道筋を進むと下市口の町。
大峰山への入口にあたります。

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吉野らしく木材の集積場があったりと、
狭い平地を上手く利用して町並みが作られています。

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六田駅はかつての吉野駅。
現在の吉野駅まで電車が通るまでは
ここから渡し舟と徒歩で向かっていました。

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柳と大きな常夜灯が印象的な「柳の渡し」

常夜灯は道標も兼ねていて
「よしの」の文字が刻まれています。

この付近の川の流れは実に緩やかで
渡し場が他にも2カ所ほど存在していました。

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国道沿いを進んでいくと上市が近づいてきました。

夏場は川でバーベキューをする人が多いですが
まだ梅雨が明けていないので静かな河原でした。

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上市の旧道には立派な家が残ります。

次は最大難所の高見山の区間です。
1泊2日の行程で歩いていきます。


 
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2016年03月10日

【街道シンポジウム】 二見道・夫婦岩→宇治山田

街道シンポジウムの一環で歩いてきました。

伊勢参宮街道の追分から勢田川沿いに河崎町を経て
夫婦岩の二見興玉神社へと続く道です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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今回は逆方向の夫婦岩からスタートしました。

二見浦は伊勢神宮を参る前に参拝することで
身を清められるというのが江戸時代の通説でした。

陸路だけでなく海路もあったので
ルート自体は複数存在していて複雑なのですが
今回歩いた道筋が最もポピュラーなルートのように思います。

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かつての鳥居前には旅籠街が広がっていました。

今も多くの旅館が立ち並んでいるわけですが
その中にある豪華な賓日館は明治20年に建てられたもの。
賓客の休憩・宿泊施設として利用されていました。

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館内にあった古地図の展示を見ていると
二見にロープウエイがあったみたいですね。

麓の駅跡は旅館が建てられて跡がないのですが
背後の山頂にはいくつか遺構が残ってるようです。
戦前のわずか10年のみ存在でした。

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御福餅本店。
この手前に赤福もあるのですが二見といえば御福餅です。

お盆の上に2個の餅とお茶が手頃な値段で売っていて
昔の歩き旅と同じような感覚で一服できました。

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二見への鉄道は現在はJR参宮線しかないですが
かつては神都電車(のちの三重交通)が走っていました。

山田駅(現伊勢市駅)から二見、内宮を結ぶもので
線路跡は二見道とほぼ平行していました。

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この広い空間は二見駅の跡。
境界の表示に三重交通というのはあったのですが
それ以外の痕跡はほとんど残っていないようです。

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参宮線の二見浦駅に続く街道。
鉄道開通前の地図を見ると駅100m手前で折れています。
ちょうど上の写真のあたりで駅方向に鳥居が見えます。

なぜ折れているかは不明ですが
少なくとも駅は元々あった街道と接続する形で
駅から街道までの100mが新たに整備されたことがわかります。

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明治の地図 (提供・国土地理院)

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また駅周辺の道筋は現在と微妙に違っています。
たとえば鉄道開通前は駅構内を横切っていました。

この道筋は今も痕跡として残っていて
ルート変更後は畑のあぜ道として使っていたようです。

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三津の集落。

舟で二見浦に行く人の港があった集落で
船着き場の道と交差する場所に高札場がありました。

振り返ると安土城が見えました。
日光江戸村のようなテーマパークです。

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五十鈴川を渡ります。
広々とした川筋は実は約500年前の地震の機に出来たもので
元々の本流は二見浦のほうに流れる川筋だったようです。

汐合橋は昭和11年のもの。
元は国道だったので古くても立派なものです。
この橋が架かるまであったのが明治時代の木橋です。

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当時の絵葉書 (提供・土木学会附属土木図書館)

木橋の隣には神都電車が走っていて
しっかりした橋台が今も残っています。

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反対側から

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対岸には道標が立っていますが
おそらく立ち位置は昔のままなのでしょう。

すぐ 二見道
すぐ 宮川道

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通町交差点を過ぎて、
大きな小学校の横を進みます。

ここは神都電車の学校前駅の跡。
広くなっているのは駅の敷地だった所以で
当時のものと思われる枕木が積まれてました。

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旧道に入って二軒茶屋へ。

ここは三河などからの舟の港。
2軒の茶屋があって賑わっていたといいます。

名物は二軒茶屋餅。
なんと天正年間の創業です。
戦国時代ですよ、戦国時代。

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その餅を先ほどの御福餅と同様に
店内で手軽に美味しく頂くことができました。

ただ、昔は黒砂糖が使われていたそうで
厳密にいうと少し風味が違っているようです。
昔の味を味わいたい方は25日に行ってみてください。
「くろあん二軒茶屋餅」として限定販売されています。

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河崎町に入ってきました。

先ほどの二軒茶屋港は人用の港でしたが
河崎町は荷物用の港として賑わっていました。

河崎の港と山田(外宮の門前町)までは
道幅の広い道筋が整備されていたので
分間延絵図では貨物道のほうが太く描かれ、
どっちが二見道の本道かわかりにくくなっています。

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伊勢路分間延絵図より (提供・東京国立博物館)

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河崎町は古い家が多く残っています。

宇治山田市中心部は空襲にあったので
古い家並みはほとんどないのが寂しいところですが
戦災を免れた河崎町は昔の伊勢を知る上で実に貴重です。

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河崎町を勢田川沿いに進んでいきます。

三重県のマップではずっと川沿いルートなのですが
古地図では途中から川から離れて進んでいます。

どちらも江戸道で間違いはなさそうですが
川筋は元々湿地だった影響で道に適していなかったので
江戸中期までは地盤の良いところを迂回する形で進んでいたようです。

川沿いの道はそれから後の話で江戸後期になってから。
治水技術が発達したことが大いに関係があるようです。

この件については以下の考察をしています。

・江戸中期の地図(1772)線が細いが途中まで川沿いを進む部分あり。
・伊勢路見取絵図(1806)線が細いが途中まで川沿いを進む部分あり。
・江戸後期の地図 太くはないが川沿いの道があり。
・三重県の街道マップ 川沿いの道があり。
・河崎にある川沿いの道標(1853)#北すぐ外宮山田内宮
・簀子橋(伊勢街道との追分手前)の道標(1847)二見道


上記の資料で1847年ごろに川沿いの道が整備された可能性。

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1853年の道標

また以下の資料の中ほどの地図に宇治道の記述があります。
http://park19.wakwak.com/~wadakouko/isefunae.pdf
宇治は内宮のことなので街道名は当資料を作った人が命名したにしても
神宮関係の道筋だからということで命名されたものと思います。

伊勢参宮街道との追分の小田橋付近ですが
伊勢路分間延絵図では道筋はわかりづらいものの、
1662年の山田惣絵図には追分がしっかり描かれているので
江戸初期においても何かしらの道が存在していたようです。
http://blog.goo.ne.jp/odanohashi/e/744c03c19565ec14fc9861a43df13b6a

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この草道が旧道の痕跡

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二見街道入口交差点、簀子橋を経て
小田橋で伊勢参宮街道と合流してゴールとなります。

ここには古い道標が立っています。
元々は簀子橋にあったもので立派なものです。
すぐ二見の文字が見えます。

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二見道の感想としましては
道中には昔ながらの茶屋が2ヵ所あったり、
鉄道の遺構や古い町並みがあったりと短いながらも
中身がかなり充実している街道だなと思いました。

こういう道は歩いていて本当に楽しいので、
街道初心者の方に是非ともお勧めしたい道です。

当日の様子(twetterのまとめ)
http://togetter.com/li/946822




  
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