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名手宿の本陣前。
緩やかな坂道が町中にあって
なんとも言えない風情が漂っています。

このような昔ながらの光景が残っているのは
伊勢南街道(大和街道)の紀ノ川沿いの特長です。
国道(新道)が比較的早い時期に作られた影響から
旧街道は良い意味で取り残された感じになっています。

すっきりしない天気。
結局最後まで雨は降られませんでしたが
なんとも梅雨らしい道中でした。

西笠田駅付近。
ここで父鬼街道(大阪南部から和歌山方面ルート)と合流します。
元々の追分はJRの跨線橋付近らしいのですが
川によって分断されてしまっています。


迂回した先にあった旧道がこちら。
路盤がしっかり残っていていい感じです。

ふと平行している紀ノ川の流れを見てみると
山が迫ってる関係で川幅が狭くなってきています。
平地部分が少なくなり、
地盤が安定している高台を進んでいきます。

果樹園が広がる光景。
梅や桃の農家が多く和歌山らしい景色です。
笠田の集落へと入っていきます。
読み方は「かせだ」。


ここでは父鬼街道(大阪南部から高野山方面ルート)が合流します。
町中で見かける「丁」の町名表記。
笠田も和歌山市街地と同じように「丁」表記になっています。



大きな大木は笠田のシンボル的存在。
十五社の楠は近畿一の大木といわれていて
幹周りは驚くことに13.5mもあります。



上の分岐点は大いに悩みました。
今回の行程では「歴史の道調査報告書」を参考にしてるのですが
現地の案内標識(歴史街道)では右をさしていています。
「歴史の道調査報告書」によれば
ここは高野の辻とあって追分になってるのですが
先に続いてる道筋を見てると歴史街道の「右」が正解な気がします。

こういう悩む場所は両方歩くわけですが
その最中、痛い目にあってしまいました。
いつものように手を前後に振って歩いていると
サボテンが左の手の指に勢いよく激突。
長くトゲが食い込んでしまい大変でした。
民家の軒先に植わっていたものだったのですが
人が通る場所にこういうのを置いておくのは考えものです。


妙寺付近。
江戸時代からの七郷井と呼ばれる用水路沿いに進みます。
この付近の特長としては水路の上に家が立っていることで
建築基準法が厳しくなった今は珍しい存在です。



この辺りの紀ノ川の流れ。
先ほどより少し広くなってきました。
この辺りの家並みも実に良かったです。


こういうガイドブックに載ってない場所を
発見したときの嬉しさは街道歩きの醍醐味です。

立派な道標には
左は伊勢、右は高野山ですよ的なことが書かれています。


高野口(名倉)の集落。
高野口は明治の半ばに現JR和歌山線が開通するわけですが
現南海高野線が開通までは大変な賑わいがありました。
高野山への表玄関としての役割があって
駅前には木造三階建ての大きな宿が残っていたり、
道筋には立派な家があって往時をしのぶことができます。

このババタレ坂は駅に向かって荷物を運ぶ際に
牛や馬がよく糞を垂れたことからつけられています。


古くからあった廃寺の跡を過ぎて
一里塚の跡を過ぎると橋本市街地です。
橋本宿は大阪からの高野街道との接点だったので
ここまであった宿場とは規模が違います。




高野街道の追分に立つ道標。
交通の要衝だっただけに立派なものです。
現在の橋本も交通の要衝であることは変わりなく、
南海電車が大阪への足として走っています。


かつては紀州御殿もあったそうです。
旧街道沿いは昔ながらの家並みが広がっています。
次回は奈良県へと入っていきます。