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広い構内をもつ大石バス停(フェンスの部分)
元々は松阪とを結ぶ鉄道の駅でした。
鉄道は勾配を避けるために
川沿いを大回りするルートを通っているのですが
街道は鳥羽見峠を通る道筋になっています。


乞食坂。
なだらかな勾配が続きます。
この先の分岐点は左が正解と思われます。


大半の資料では右と書いてるのが多いのですが
明治初期の地図を見ると実は存在しない道なのです。
どっちが正しいのか。
資料を作った人も考えてのものと思うのですが
道がない以上は信憑性にかけちゃいますね。



さて、柿野神社から重複していた伊勢本街道とは
鳥羽見峠を前にして左右に分かれます。
地蔵型の道標には
右、山田六里、左、松坂三里。
あと12kmほどの道のりです。

鳥羽見峠への道筋は一部消滅しているようで
本来の峠入口は藪で酷い有り様でした。

結局は迂回路を使うことになったのですが
こちらは遊歩道として整備され歩きやすい道でした。


左手に北谷池が見えます。
別名で鳥羽見池。
1883年に出来た人工の池で
灌漑目的で作られたようです。


峠の手前から旧道が復活。
立派な切通しがある雰囲気ある峠道です。
鳥羽見峠には広場があって
祠(とりまめさん)がありました。


真冬とは思えないのどかな光景。
今年の正月は実に穏やかな気候でした。
獣除けの扉を開いて七曲りに入ります。


七曲りは山裾の道で
名前の通りウネウネとした道筋です。

この先に瀬戸峠があるのですが
峠と峠に挟まれた谷間という風情があります。


瀬戸峠。
車を通すために随分と改良されています。
この先は阪内川に沿って進みます。


紀州の文字がある大きな道標。

左、紀州道、右、まつ坂。
ここは多気道との分岐点になります。
こんな三重の山の中に紀州の文字なんて
今の時代では不思議な感覚になるものですが
江戸時代の当地は紀州藩だったわけで
当たり前の感覚だったのではと思います。


歩いているとほんと暖かい。
左右に特長ある小山が続いています。
脇谷城や大河内城など北畠氏の城です。
特に大河内城は織田信長と50日戦ったことで有名で
養子(信雄)を貰うことで和睦になっています。

左 大師道。
丹生大師と呼ばれる神宮寺への道筋です。
この右側にも小さな道標がありました。
大河内神社を過ぎると
阪内川の川幅は随分と広くなってきます。



松阪の市街地に入ったあたりの旧道は
蒲生氏が敷設した雷光型街路の名残があります。
村中安全、永代常夜灯、五穀成就。


旧近鉄伊勢線の新松阪駅跡を過ぎて
熊野道との追分を過ぎるとゴールも間近。
右、わかやま道 左、さんぐう道。
立派な道標に迎えられてのゴールです。
ここで伊勢参宮街道と合流します。


伊勢南街道としては田丸への支線が残っていますが
踏破しての全体的な感想をいくつか。
まず資料が少ない。
伊勢へ続く街道の中ではトップクラスの少なさです。
先人の記録に何度となく助けられました。
2つに交通の便が悪い。
高見山付近は過疎地帯なので
バスが平日のみの運行だったりします。
よって宿泊の旅になるので宿の確保が大変だったこと。
この2点が主だった大変さでしたが
逆に廃道になってる場所は意外と少なく
全体的に予想していた以上に歩きやすくて驚きました。
また昔の風情が多く残っているのも特長的でした。
中央構造線沿いを歩くというダイナミックさもあるので
街道的に面白い部類に入るのではと思います。