ダイナミックな景色を楽しめる区間です。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

早朝の高田城下。
雁木造りが特長的な町並みですが
新しい建物にも伝統が引き継がれています。
前回は駅付近で終了としましたが
高田の中心部といえばまだ先になります。


ここは「お馬だしの札の辻」
今は手前に大きな道が出来たので
ひっそりとした交差点になってしまっているのですが
街道と街道が交わり高田城大手門の道が通ることから
高田で一番人通りが多い賑わった場所でした。


中心部から離れるにつれ
昔ながらの雁木造りの家々が再び現れてきます。

この「時の鐘」はかつて札の辻にあったもの。
時刻を知らせるため2時間おきに鳴らされていたので
いわば高田の”音”の象徴だったといえます。


この川は高田の町づくりで重要なもので
橋の手前が町人町、向こう側を武家町と分けられてました。

城下の端に枡形が残る
北国街道は桜で有名な高田城をかすめる形で進みます。
このことは他の城下でもあることなんですが
防衛のため出来るだけ城から街道を遠ざけています。
道はいろんな人が歩いてるので危険というわけです。
この先にある枡形も防衛のためのもの。

城下の各出口には番所が設けられていましたが
南の出口に当たる場所が伊勢町口番所でした。
ここでようやく高田城下を出ます。

真新しい上越妙高駅が見えました。
新旧の大動脈の競演です。
遠方には妙高山や大毛無山など、
大きな山々が広がってきました。



一本道が続きますが
雪国らしい変化が出てきました。
この背の高い消火栓は豪雪地域ならではのもの。
家の建て方も2階が入口になってるものが増えてきました。



新井宿。
本陣は東本願寺新井別院でした。
宿場内は北国街道の標識がいっぱい。
町全体で街道を盛り上げてくれています。



宿場の中心部にある市神社では
かつて市が月に6回ほどあったといいます。


この飯山道の道標は明治のもの。
飯田経由ということは今の北陸新幹線のルートにあたります。


名水がある賀茂神社を過ぎると
いよいよ勾配が始まります。
その手始めといってよいのが小出雲坂。
ここは越後平野見納めの坂とも呼ばれていて
この先の区間では平野を殆ど見渡すことが出来ません。



峠には茶屋の跡があったり
馬頭観音を含め石仏がいくつも並び良い風情です。
付近の地域の地名は板橋新田。
この先には新田と付く地名が多くなっていきます。

江戸時代から新田開発が活発に行われていて
それまでは水不足で稲作にあまり適してなかったようです。
開発の折には用水路の整備も一緒に行われています。

藤沢の一里塚


二本木駅。ここは坂本新田と呼ばれる地域です。
駅は珍しいスイッチバック式になっています。
この先に二本木宿があるのですが駅から結構離れています。
宿場のすぐ横に線路があるにも関わらず坂本新田に設けられたのは
勾配がキツすぎたなどいろんな制約があったのかもしれません。



二本木宿に入ってすぐに
明治天皇の小休止跡が残っています。
ここが本陣と思いきや先にある安楽寺がそうでした。



滑り台のような立派な屋根です。
豪雪地帯ならではの形ですね。
宿泊施設は寺の向かって右側にあったのですが
現在は取り壊されてしまっています。
また寺の裏は相当な崖になっているので
防衛上の意味でも最適だったといわれています。



二本木宿の目と鼻の先にあるのが松崎宿。
この2つの宿場は日によって
宿場機能を分担する合宿となっていました。


ダラダラと続く坂は夏場と相まって
じりじりと体力を奪っていきます。
峠ならピークを過ぎると下りでホッとできるのですが
今回の行程ではピークはまだまだ先なので
ずっと苦行が続きます。
標高が高くなって
紫陽花がお盆を過ぎても綺麗に咲いてました。



北沢の一里塚

関山宿。
雪捨て用の池がいくつもあります。

よく見るとそれぞれに特長があり
年代物なので観察してみると面白いです。


関山宿は関山神社の門前町(鳥居前町)として発展しています。
神社にある仏足石は日本で二番目に古いといわれています。


関山宿を出ると坂口新田。
ここには庄屋の屋敷が残っていました。



この辺りになると地形がダイナミックになっていきます。
これは妙高山の火山活動によって出来たもので
田切地形とも呼ばれています。
川が流れる場所は地形が抉られ深い谷になってるので
街道はいくつか谷を越えていかねばなりません。


その一つが妙高大橋付近。
江戸時代の旧道は消滅してしまっていますが
Ω状に一気に下って登るという道筋だったようです。
妙高大橋の横で新道を作っている影響で
江戸時代以降に出来た旧道は通行止めになっています。

妙高大橋からの眺め。実にダイナミックですね。
下を見るとかなり怖いものでした。
二俣の集落の先では再び谷を越えるのですが
こちらには江戸時代の旧道が残っています。



入口には二俣古道入口と案内されています。
この看板は出口にも設置されているので
一見整備されていて楽に通れると思いがちですが
騙されてはいけません結構大変なものでした。



少し前までは橋があったのでしょうか?
沢を越えての道筋は藪道にもなっていました。
続いての田切宿では
巨大なハニワレが出迎えてくれました。


田切宿の先にも谷があるのですが
こちらは旧道が消滅してしまっています。


かつては小田切坂という難所がありました。
難所には石仏が旅人を見守るように置かれてることが多いですが
旧道が消滅したことで元々あった場所から集められ移設されていました。

谷に流れる川は白田切川。
よく見ると白濁しています。
上流の温泉成分が流れでています。


ここまで来ると妙高高原駅はすぐ。
最後に急坂の毛祝坂を抜けてゴールとしました。