2016年08月24日

北国街道その15・高田城下→妙高高原

ダラダラと続く上り坂。
ダイナミックな景色を楽しめる区間です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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早朝の高田城下。

雁木造りが特長的な町並みですが
新しい建物にも伝統が引き継がれています。

前回は駅付近で終了としましたが
高田の中心部といえばまだ先になります。

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ここは「お馬だしの札の辻」

今は手前に大きな道が出来たので
ひっそりとした交差点になってしまっているのですが
街道と街道が交わり高田城大手門の道が通ることから
高田で一番人通りが多い賑わった場所でした。

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中心部から離れるにつれ
昔ながらの雁木造りの家々が再び現れてきます。

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この「時の鐘」はかつて札の辻にあったもの。
時刻を知らせるため2時間おきに鳴らされていたので
いわば高田の”音”の象徴だったといえます。

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この川は高田の町づくりで重要なもので
橋の手前が町人町、向こう側を武家町と分けられてました。

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城下の端に枡形が残る

北国街道は桜で有名な高田城をかすめる形で進みます。

このことは他の城下でもあることなんですが
防衛のため出来るだけ城から街道を遠ざけています。
道はいろんな人が歩いてるので危険というわけです。

この先にある枡形も防衛のためのもの。

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城下の各出口には番所が設けられていましたが
南の出口に当たる場所が伊勢町口番所でした。

ここでようやく高田城下を出ます。

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真新しい上越妙高駅が見えました。
新旧の大動脈の競演です。

遠方には妙高山や大毛無山など、
大きな山々が広がってきました。

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一本道が続きますが
雪国らしい変化が出てきました。

この背の高い消火栓は豪雪地域ならではのもの。
家の建て方も2階が入口になってるものが増えてきました。

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新井宿。
本陣は東本願寺新井別院でした。

宿場内は北国街道の標識がいっぱい。
町全体で街道を盛り上げてくれています。

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宿場の中心部にある市神社では
かつて市が月に6回ほどあったといいます。

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この飯山道の道標は明治のもの。
飯田経由ということは今の北陸新幹線のルートにあたります。

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名水がある賀茂神社を過ぎると
いよいよ勾配が始まります。

その手始めといってよいのが小出雲坂。

ここは越後平野見納めの坂とも呼ばれていて
この先の区間では平野を殆ど見渡すことが出来ません。

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峠には茶屋の跡があったり
馬頭観音を含め石仏がいくつも並び良い風情です。

付近の地域の地名は板橋新田。
この先には新田と付く地名が多くなっていきます。

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江戸時代から新田開発が活発に行われていて
それまでは水不足で稲作にあまり適してなかったようです。
開発の折には用水路の整備も一緒に行われています。

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藤沢の一里塚

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二本木駅。ここは坂本新田と呼ばれる地域です。
駅は珍しいスイッチバック式になっています。

この先に二本木宿があるのですが駅から結構離れています。
宿場のすぐ横に線路があるにも関わらず坂本新田に設けられたのは
勾配がキツすぎたなどいろんな制約があったのかもしれません。

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二本木宿に入ってすぐに
明治天皇の小休止跡が残っています。
ここが本陣と思いきや先にある安楽寺がそうでした。

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滑り台のような立派な屋根です。
豪雪地帯ならではの形ですね。

宿泊施設は寺の向かって右側にあったのですが
現在は取り壊されてしまっています。

また寺の裏は相当な崖になっているので
防衛上の意味でも最適だったといわれています。

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二本木宿の目と鼻の先にあるのが松崎宿。

この2つの宿場は日によって
宿場機能を分担する合宿となっていました。

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ダラダラと続く坂は夏場と相まって
じりじりと体力を奪っていきます。

峠ならピークを過ぎると下りでホッとできるのですが
今回の行程ではピークはまだまだ先なので
ずっと苦行が続きます。

標高が高くなって
紫陽花がお盆を過ぎても綺麗に咲いてました。

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北沢の一里塚

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関山宿。
雪捨て用の池がいくつもあります。

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よく見るとそれぞれに特長があり
年代物なので観察してみると面白いです。

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関山宿は関山神社の門前町(鳥居前町)として発展しています。
神社にある仏足石は日本で二番目に古いといわれています。

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関山宿を出ると坂口新田。
ここには庄屋の屋敷が残っていました。

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この辺りになると地形がダイナミックになっていきます。
これは妙高山の火山活動によって出来たもので
田切地形とも呼ばれています。

川が流れる場所は地形が抉られ深い谷になってるので
街道はいくつか谷を越えていかねばなりません。

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その一つが妙高大橋付近。

江戸時代の旧道は消滅してしまっていますが
Ω状に一気に下って登るという道筋だったようです。

妙高大橋の横で新道を作っている影響で
江戸時代以降に出来た旧道は通行止めになっています。

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妙高大橋からの眺め。実にダイナミックですね。
下を見るとかなり怖いものでした。

二俣の集落の先では再び谷を越えるのですが
こちらには江戸時代の旧道が残っています。

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入口には二俣古道入口と案内されています。

この看板は出口にも設置されているので
一見整備されていて楽に通れると思いがちですが
騙されてはいけません結構大変なものでした。

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少し前までは橋があったのでしょうか?
沢を越えての道筋は藪道にもなっていました。

続いての田切宿では
巨大なハニワレが出迎えてくれました。

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田切宿の先にも谷があるのですが
こちらは旧道が消滅してしまっています。

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かつては小田切坂という難所がありました。
難所には石仏が旅人を見守るように置かれてることが多いですが
旧道が消滅したことで元々あった場所から集められ移設されていました。

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谷に流れる川は白田切川。

よく見ると白濁しています。
上流の温泉成分が流れでています。

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ここまで来ると妙高高原駅はすぐ。
最後に急坂の毛祝坂を抜けてゴールとしました。



  
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2016年08月09日

北国街道その14・能生宿→高田城下

海沿いの区間が続きます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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能生宿の朝。

朝日に照らされた家々は美しいもので
早起きしてよかったと思うひとときです。

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宿場の端には白山神社がまつられています。

北陸地方は白山や立山といった山岳信仰が盛んですが
行く先々で関係するものを見かけることができます。
この立派な本殿は室町時代のものでした。

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弁天島から能生宿を一望。

島の周りに見られる岩礁の地形は
100万年前の海底火山活動で生まれたもので
能生の独特な景観になっています。

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能生漁港はカニ漁で有名です。

全国的な知名度はさほどないように思うのですが
県内では安い!ということで知名度がことのほか高く
スキーの時に通った際は多くの人出で賑わっていました。

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夏は海水浴のシーズン。

しばらく街道は海沿いを進んでいきます。
綺麗な砂浜では泳いでる人をあちこちで見ることができました。

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その途中にある藤崎は比較的大きな集落で
明治天皇も小休止されています。

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藤崎集落の次は筒石集落になるわけですが
かつて国鉄の駅は集落と集落の間に設置されました。

なぜに何もないところに作ったのか。

集落毎に駅を作ってしまうと駅間が短くなりすぎて
北陸本線の速達性が損ってしまうからということで
喧嘩にならないよう真ん中に設置したのが真相のようです。

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現在の筒石駅はトンネル駅で有名ですが、
SL時代の筒石駅は元々土砂崩れがあった場所に作られたことから
大雨の際に路盤が流れるなど何度か災害に見舞われています。

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こちらが筒石の集落。
三階建ての独特な建物がひしめいています。

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他に筒石は「船小屋」があるのが特長的です。
いわば船のガレージみたいなものですが
兵庫県の伊根にも似た雰囲気があります。

それにしても海が綺麗ですね。

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旧北陸本線と平行する区間が延々と続きますが
遺構を眺めてると単調な歩きも楽しいものでした。

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これはレンガ造りの橋脚の土台です。
造りに重厚さを感じれていいですよね。
この上をSLが走っていたと思うと胸熱です。

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名立宿。
本陣は名立寺というお寺でした。

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現在の名立は道の駅もあって賑わっていますが
江戸時代は高田地震の影響で壊滅的被害を受けています。

いわゆる名立崩れというもので
裏山が山体崩壊して村を全部飲み込まれてしまっています。

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上の写真の鐘は地震から行方不明だったものですが
海から鐘の音が毎日のように聞こえたことから
探したところ奇跡的に見つかったという話があります。

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名立宿からは山へと進路を変えていきます。
勾配を登っていくうち名立宿の全景が見えてきました。

崩壊したのは左手に見える山で
ごっそりえぐられているのが確認できます。

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草道へと入っていきます。
農地改良によって一部消滅した形ですが
入り口は大したことがないように見えても
奥に入っていくにつれ藪が酷くなっていきます。

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夏なので激藪な場所もあったのですが
路盤はしっかりしていたのでなんとか行けたものの
GPSを頼りに歩かないと迷いそうでした。

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お堂の右奥が藪の出口

藪の出口で大きなお堂が見えたとき
ホッとしたのが正直な気持ちです。

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次の集落までは街道らしい光景が続きます。

抜け道で使う車はない上に人も来ないような場所で
特に乳母嶽神社や明治天皇小休止跡あたりは
時間が止まってるかのような空間でした。

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人家が見えるようになってからは
元々は直登だった道を改良した箇所が増えていきます。

これは車が通りやすいようにヘアピンにしたもので
勾配が緩くなった代わりに少し大回りになっています。

直登していたと思われる場所をよーく見てみると
かつての道の痕跡を確認することができました。

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明治天皇小休止跡

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この九十九おりになってる道筋なんて
昔ながらといった感じですよね。

峠付近ではお地蔵さんがまつられていました。

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有間川宿。
静かな漁村といった光景です。

この宿場の前後区間は迂回路を使ったのですが
元々の旧道は探せば残っているらしいですが
相当な藪を覚悟したほうがいいかもしれません。
(道筋は昭和40年代の空中写真でなんとなくわかります)

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昔は橋の先の森の中を進んでいたと思われます

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迂回には旧北陸本線の線路跡を一部使いました。

長浜宿は駅名でいうところの谷浜駅にあたるのですが
宿の名前が滋賀の長浜宿と一緒になってるので
ちょっとややこしいですよね。

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地名に浜と付くほどなので浜自体は相当に広いもので
古くから製塩業が盛んだったということです。

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次はいよいよ直江津の町。

長浜宿までの旧北陸本線の線路跡はというと
元々あった街道の横に通した場所が多くて
国道は旧街道部分を拡幅していっています。

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対してこの先の区間は現国道が線路跡の上を通していることから
元々の街道の道筋はそのまま残っているのは有り難いところで
この狭い道が北国街道というわけです。

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左下の広くなっている場所が郷津駅の跡。
トンネルが開通した際のルート変更で閉鎖になった駅です。

一般的には代替駅が別の場所に設置されるものですが
代替は設置されず付近には民家が全くないので
信号場的な役割が主目的だったのかもしれませんね。

ただ、海水浴場が近いので
夏は賑わっていたものと想像が膨らみます。

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その海水浴場の脇を横目に見て進んでいくと
木浦集落から親鸞聖人が舟で上陸した場所に辿りつきます。

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ここでようやく海と分かれて内陸部へ。
政庁だった五智国分寺に立つ三重塔は立派なものでした。

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名残の松。
この付近では北国街道の名称は
加賀街道と呼ぶのが一般的なようです。

この先の道筋ですが
奥州(新潟)方面へは川を渡っていけば近いのですが
策略で高田城下経由するように大きく迂回させられています。

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これはわざわざ城下を経由させることによって
高田城下の発展を期待したというのが大きな理由です。

旅人にとってはいい迷惑な話ですが
高田城下が出来るまでは川には渡しがあって
迂回などせず奥州方面へ行けたのだそうです。

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道標にある「今町」とは
現在の直江津(駅付近)のこと。

高田城下が近くなってきました。
雁木造りの特長ある家々が増えてきます。

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家々の軒先には風鈴が飾ってあって
なんともいえない良い風情があります。

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新潟方面への北国(奥州)街道はここが追分。

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「かがみち、おうしゅうみち。」

なかなか立派なものです。
道標はは近くの神社に移設されていました。

次は妙高高原へと歩みを進めていきます。

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2016年08月01日

北国街道その13・市振宿→能生宿

いよいよ難所の親不知を越えていきます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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雨がパラつく市振宿。

ひっそりとした雰囲気ですが
かつては国境の町でした。

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中ほどにある関所の跡には
大きな木と広大な敷地に面影が残ります。

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”海道の松”
かなりの大きさでひときわ目立つ存在です。

江戸時代は海道の松から先は
海岸の砂浜へ降りて波打ち際を進んでいました。

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現在の海岸沿いはこんな感じ。

この付近は比較的砂浜が残ってる感じですが
浸食によって一部通行不能になってしまっています。

ちなみに40年ほど前までは歩いていけたそうです。

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そういうことで国道で迂回して進みました。

が!迂回といえども国道には大型車が多く、
しかも、歩道がないので恐る恐る進むほかありません。
おまけに薄暗い洞門になってるので怖さも倍増です。

これでも歩いた日がお盆だったので
大型車の交通量が少な目なのかもしれませんが
どちらにしても2度と歩きたくない区間です。

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このように親不知は昔も今の時代も
北国街道随一の難所といった感じなのですが
う回路として「上路」といわれる山側への道が存在していました。

境宿より川沿いを上っていって青海宿の手前で合流する道ですが
距離は長いし山は険しいわで相当大変な区間だったようです。
明治天皇の1度目の北陸行幸では安全を考え上路を経由されています。

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親不知の中でも最も険しい場所は「天険」です。

現在の国道ルートは明治時代に出来たものですが
近年の道路改良でトンネルやショートカットが増えて、
以前に比べると随分と通りやすくなってきています。

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如砥如矢(とのごとく、やのごとし)と刻まれているのは
砥石のように滑らかに矢のように速く通れるという意味で
完成したときの喜びが伝わってくるかのようです。

工事は相当大変だったようですが
明治天皇の2回目の北陸行幸に間に合いました。

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休憩所にあった親不知のジオラマを見てみましょう。

江戸時代は砂浜の上を進んでいて
荒波は所々に見える岩の隙間に入って回避していました。

まさに命がけだったことがわかります。

参勤交代では波除け人足(500〜700人規模)を雇って
波打ち際に立たせて比較的安全を保ったようですが
加賀の殿様とて命がけには変わりはなかったそうです。

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天険からの展望。
よくもまあこういう場所を街道を通したものだと感心します。
ここは北アルプス飛騨山脈の北側の出口。凄い地形です。

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ちなみに旧北陸本線のルートは
国道と海の間をへばりつく形で通っていました。
嵐の時の乗客はどんな気持ちで乗っていたのでしょうか。

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いくつもの洞門を抜けると外波宿が見えてきました。
親不知はここを境にして子不知になります。

外波宿の近くに歌宿がありますが、
2つで1つの宿場機能を持つ合宿になっていて、
決まった日にちごとに分担していました。

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ここに来て晴れてきたので
洞門の隙間から綺麗な海が見えてきました。

次の宿場は青海宿。

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ここまで旧道が殆ど残っていなかったのですが
この先しばらくは旧道をのんびり進みます。

アップダウンがあったり
名残の松があったりと良い風情です。

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次の糸魚川宿の手前には姫川があります。

翡翠(ひすい)が取れることで有名で
この日も採取してる人を見かけました。

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姫川橋は中ほどでトラスとコンクリ橋と造りが違っています。
おそらく増水によって橋が流された影響なのでしょう。

やがて姫川港を過ぎると糸魚川宿に入ります。

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ここが有名な千国街道(塩の道)との分岐点。
姫川沿いに松本へと伸びている街道です。

道路元標が角に設置されていました。

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雪国に多い雁木造りの家々。
いわゆる雪国アーケードですが
特に新潟県内で多く見かけることができます。

このアーケードは雪を防ぐだけの意味意外にも
風や雨、日差しまでも防ぐことができる代物。
雪国の知恵はオールマイティですね。

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糸魚川宿の本陣跡は酒屋さんです(試飲Ok)。
店先には参勤交代資料の展示もありました。

本陣の先には枡形が残り
右手には北陸新幹線の駅があります。
それにしても立派な駅になったものです。

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旧道が続きます。
梶屋敷宿の横を流れる早川は
芭蕉が着物を濡らしたという話があります。

当時は川を歩いて渡っていたので
足を滑らせてしまったみたいです。

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相変わらず交通量が多い中の国道歩き。
浦本駅を過ぎた辺りから自転車道が平行します。
これは旧北陸本線を整備したものです。

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一見すると旧道のように見えるので
街道か非常に紛らわしいのですが直江津手前まで続きます。

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鬼伏や鬼舞といった変わった地名を過ぎると能生宿。

能生というとテレマークスキーの聖地でもある
シャルマン火打スキー場があリ度々通っていたんですが
歩いて能生までこれたとは実に感慨深いところです。


  
posted by にゃおすけ at 15:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 北国街道(北陸道) | 更新情報をチェックする