2016年09月30日

北国街道その16・妙高高原→善光寺

春先の妙高高原はまだまだ冬。
街道歩きで初めてスノーシューを使用しました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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前回は夏場に歩いたのですが
同じ場所でも季節が変わると違うものです。
一変してモノクロームの世界に支配されていました。

ただ、1週間あたり前から暖かい日が続いていたので
これでも雪はそれほどでもないとのこと。

雪の中を延々と歩くことを思えばラッキーでした。

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道端には除雪によって出来た大きな雪山。
スキー神社の境内はまるでゲレンデのようです。

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妙高高原の宿場というと上原宿と関川宿です。
距離が近いので2つで1つの役割がある合宿でした。

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関川の関所。
全国の数ある関所の中でも重要な一つです。

ここは越後、信濃の国境にあたります。

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旧道には雪がたんまりと残っていたので
ここでスノーシューを装着。

装着はやや面倒なものの(慣れ次第?)
雪が締まっていたので楽に歩けはしたのですが
一晩で何十センチも積もるような場所だけに
新雪直後だったらと思うとゾッとしますね。

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スノーシューは街道歩きの新たな一面を見出せるものですが
問題は積雪のある場所とない場所での脱着の手間と重量増。
ただでさえ長距離の街道歩きなので大変なものです。

仮に普段は4キロ55分のペースで歩いていたとすると
スノーシューでの行軍は積雪路で4キロ1時間10分でしょうか。
あと脱着で3分はいるので余裕ある行程を組んだほうが良さそうです。

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野尻坂峠。
妙高山や黒姫山がよく見えてきました。

目を下にやると池尻川が流れていて低湿地帯になっています。
街道はそれを避けるように小高いところを通っていきます。

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野尻宿。
かつては約70軒の家々が連なる宿場でしたが
大部分の町並みが嘉永の大火で失われています。

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かつての宿場は今やリゾート地。
旅籠ではなくペンションが立ち並んでいます。
野尻湖というとナウマンゾウで有名ですね。

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標高700mにある柏原宿。
この先にある古間宿と合宿でした。

かの俳人小林一茶が晩年過ごした地でもあって
町の至るところに句碑が建てられています。

今も住んでられた旧宅が残ります。

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宿場の中心を国道が貫いていますが
季節的なものもあってか交通量は少ない様子。
比較的静かな雰囲気が残っていました。

坂を一気に下っていくと古間宿です。

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古間宿は信州鎌の製造が盛んで
全国第2位の生産を誇っていたそうです。
また商人達がよく利用して商売が盛んでした。

宿場のメインストリートの中を
鉄道が斜めに堂々と横切ってるのは珍しいですね。

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古間の名前は付近一帯が湿地(沼)多いことからですが
新田開発のおかげで昔の面影は少ないようです。

勾配を上っていくと草道に出ました。
歩きたくなる道500選にも選ばれている「小玉坂」です。

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雪解けの影響でドロドロ道でしたが
なんとも風情のある道が続いています。

小玉一里塚跡では眺望が開けるのですが
昔は次の四ツ谷一里塚が見えたというから驚きです。

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一里塚から先は江戸道と明治道とに分かれいて
江戸道はちょっとした藪がある草道になっています。

観音平という広くなった場所には石仏が集められていました。

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再び明治道と合流すると急坂です。
一気に下るので見晴らし良好!

きっとこの眺めが500選に選ばれた所以なのでしょう。

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中間地点を示す碑

牟礼宿。

ちょうど加賀と江戸の中間地点。
加賀藩参勤交代の際ここに到着すると
早飛脚を立てて本国に無事を知らせたといいます。

他にも佐渡の金を江戸に運ぶ中継地点でもあったので
「金附場跡」が残っていたりと重要な宿場でした。

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坂のある宿場はいいですね。
十王坂の枝垂れ桜はかなりのもんでした。

宿場を過ぎて坂を上っていくと四ツ谷一里塚跡。
先ほどの小玉一里塚から見えたと言われる塚ですが
現在は塚の上に目印になるものがないので見つけるには厳しそうです。

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りんご畑が増えてきました。
平出追分で北国脇往還松代道と分けます。

松代道は戦国時代の一時期は北国街道の本道として扱われたり、
それ以後も舟渡が川止めになった場合は迂回路で使われたりと
北国街道と切っても切れない関係の深い道です。

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追分にあった道標は近くの民家に保存されています。
「左、ながぬまみち、右、善光寺みち」

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この先はだらだらとした一本道が続きます。
長野市に入って善光寺平が見えてきました。

正面に見える山は志賀高原あたりでしょうか。
手前には小布施、須坂の町並みが見えます。

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田子池。
東山道の駅があった場所ともいわれています。

近くの神社から湧き出る水があるのですが
わざわざ街道まで引っ張ってくるほど美味しくて
茶屋と造り酒屋が並んでいたそうです。

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新町宿。善光寺を控えた宿場町です。
稲積、徳間、東条の三村が集まって成立しています。

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この辺りになるともう市街地。
車の交通量もかなりのもんです。

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北国街道と書かれた街灯がいい感じですね。

善光寺に向かって緩い上り坂が続きます。
道路元標がある場所が今回のゴール。

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左が長野駅方向。右が善光寺。
善光寺宿の本陣は左手すぐのところにありました。

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やはり歩いての参拝は格別です。


  
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2016年09月15日

【街道シンポジウム】 岩村城への岩村街道・大井宿→岩村城下

街道シンポジウムの一環で歩いてきました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

岩村街道は中山道の大井宿から岩村城下を結んでいます。

生活物資や生産された米や織物などを各地へ運ばれ、
遠くは浜松にも接続していることから多くの商人も利用していました。

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懐かしい大井宿。

恵那駅と本陣の間には川が流れているのですが
宿場の中心部はというと本陣寄りの高台になった辺りになります。
むろん川の氾濫から避けるためのものでした。

「ひし屋」資料館の横が岩村街道のスタート地点にあたります。

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たんたんと町中を進んでいきますが
道筋は川から離れた一段高い場所に敷かれています。

武並神社本殿は室町時代のもので国の重要文化財。
この付近を境にして大井宿側は尾張藩で
岩村側は岩村藩の領地になっていました。

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今回は歴史の道調査報告書(以下、教科書)を参考に
明治時代の地図を用いて歩いています。

基本的には教科書どおりに歩いていけばいいのですが
現地で探索していると教科書に載ってないことも発見できます。

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たとえば東野集落の入り口付近(真ん中の三角あたり)

明治の地図では幾重もの道が記されています。
教科書では直進という指示になっているのですが
右に曲がると古い常夜灯があるので疑問に思いました。

また角には小さな池があるのですが
昔は今よりも大きかった可能性があり(推測の域ですが)
池を巻くように進んでいたのではと思うところです。

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その古い常夜灯は秋葉さんのもの。
集落の出入り口に設けられていることが多いですが
火災から守る意味合いがあります。

そういうことからここが集落の入り口と考えられます。
常夜灯の位置が変わってなければ信憑性は高そうです。

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少し進んでまたもや疑問が残る分岐点。

教科書では車道を直進することになっているのですが
完全に役場や学校などをスルーしちゃってるんですよね。

昔は基本的に集落の中心を道が通すことが多いので
直進は後年にバイパスとして整備されたものではと思います。

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教科書推定のルート

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シンポジウムでのルート

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右に曲がってみると、ほらこの通り。
良い旧道風情が残っていました。

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秋を感じるコスモス。

中山道にも近い場所であることから
どことなく似ている景色があって懐かしい気分です。

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スタンフォード大が旧版地図を公開しているので
車道脇の旧道も発見がしやすくなりました。

この小川を渡る場所は現在は真っすぐですが
昔は山側に巻いてから川を渡っていたようです。
藪をかき分けていくと見事な橋台が残っていました。

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岩村街道は明知鉄道(旧明知線)とほぼ平行しています。

旧明知線は昭和に入ってからの路線で比較的新しいもので
当然のことながら明治の地図には何も載っていません。

飯沼駅付近にある難所の「外戸尻坂」は
線路敷設の際にぶった切られてしまっているので
入口を見つけるのに四苦八苦しました。

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外戸尻坂は草道になっています。

石積みや石仏も残っているので雰囲気が良く
時おり地元の人が通るのか草の背丈は短い感じでした。

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鉄道でぶった切られ際に外部からシャットアウトできたお陰で
昔そのままの風情が残っていてくれているかのようです。

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飯沼神明神社の横を進みます。
立派な杉の幹周はなんと670cm!

国道沿いを進んで橋場集落へと入ります。

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国道脇に残る旧道の痕跡

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橋場は名前のとおり阿木川に架かる橋がある集落で
江戸時代においても土橋なり木橋が架かっていたそうです。

現在の橋は昭和13年のものなのですが
真ん中で無くなっているように見えます。

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これは昭和36年の豪雨で対岸がごっそり削られた影響で
削られた部分には人道橋が継ぎ足されています。

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親柱が真ん中にあるのはレアですよね。

別角度から見ると少しおっかない感じです。

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羽根坂を登って打杭峠に入ります。

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途中から山道になっていきますが
路盤はしっかりしているので歩きやすいものです。

所々で雨水でえぐられたような跡がありました。

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峠には経塚がありますが
残念ながら見晴らしはよくありません。

峠の向こう側は教科書では廃道の記述があったので
内心ドキドキしていたのですが意外にも道が残っていて
機嫌よく降りることができました。

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でも別資料では本当は少し手前を左に折れて
国道横の阿弥陀堂あたりに出てくるのだそうです。

周りを見渡しても痕跡が残っていないように見えたので
もしかすると教科書はこのことを言っているのかもしれません。

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小松屋の坂という坂を登ると城下はすぐ。

坂を登り切った場所が広くなっていたので
ここに城下入り口の木戸があったのではと思います。

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古い家々が立ち並んできました。

城下は川を境に侍町、町人町と分かれています。
ほどなく進んで大名街道と合流地点が岩村街道のゴールです。

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町並みは重伝建なだけに雰囲気あるもので
翌日は岩村城に登城しましたが見事な石垣でした。


  
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2016年09月08日

父鬼街道・鳳→七越峠→西笠田

大阪の鳳から和歌山の笠田を結ぶ道です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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早朝の鳳商店街。
町はまだ寝静まってるかのような光景です。

父鬼街道という名前自体は比較的新しいもので
明治36年「大阪府誌第四編道路」でルート指定されています。

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直進して熊野街道と分かれます。

道中では槇尾山の道標を多く見かけます。
西国三十三カ所四番札所でもある有名な寺なので
数多くの巡礼の人も通っていたのではと思います。

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桜が綺麗な道中。
アップダウンが始まりました。
あちこちには溜め池の光景が広がります。

和泉地方は大きな河川が少なく水が不足気味だったので
古くから灌漑対策の溜め池が作られています。

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”ちちよに街道”のお店。
この読み方はカワイイですね。
父鬼街道の父鬼は”ちちおに”と読みます。

父鬼は峠を前にした木材集積地で賑わっていました。
地名の由来は地域を治めていた父鬼氏から。
なんとも怖そうな名前ですよね。

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信太山の碑。
この付近は信太山と呼ばれる地帯。
右手には自衛隊基地があります。

桜も綺麗ですが菜の花も咲き誇っていて
まさに春真っ盛りといった感じです。

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旧道風情あふれる伏屋集落を過ぎると
泉北ニュータウンが現れてきます。

立派な高層マンションが立ち並ぶ町ですが
遺跡が多く残る地域で意外と古い歴史があります。

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ニュータウンに残る草道。

大阪のニュータウンの先輩に千里ニュータウンがありますが、
千里は旧村や水田を殆どなくして開発を進めたことでの弊害があった経験から
泉北では旧村や水田は出来るだけそのままにして計画されています。

マンション群から少し離れただけで草道が残る光景は
泉北ニュータウンの特長の一つなのかもしれませんね。

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槇尾川。

ここからは川に沿った道筋になっていて
河岸段丘上を進む形で高度をさらにあげていきます。

納花集落を過ぎると最初の難所である国分峠です。

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国分峠はその名のとおり、
和泉国の国分寺が近くにあります。

峠に向かっての急坂はかなりのもので
振り返っての眺望はなかなかのものでした。

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峠にあった嘉永年間の道標。
右、まきのを。左、大みね山と書いてあります。

峠を下った先にある横山集落は
立派な蔵のある旧道風景が広がっていました。

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ふと、左下に流れる槇尾川に目を向けると
かなりの峡谷具合になってきています。

そして水の流れもまた綺麗。

この先で街道は槇尾山への道筋と分かれ、
父鬼、七越峠方面へと向かっていきます。

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一般的に父鬼街道というと鍋谷峠を通るルートですが
江戸時代の鍋谷峠はというとただの山道だったようで、
数々の古地図や絵図を調べても記載がありません。

さらに鍋谷峠の区間の国道には
明治以前の道標を見かけることがないので
鍋谷峠は明治時代に切り開かれた道なのではと思います。

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「五畿内志」によると

「七越峠紀州伊都郡界曲路七盤方ニ山頂ニ達ス」
「父鬼納花ナドヲ経テ」

古い文献でもこの通り。
七越峠とあり鍋谷峠とは書かれていません。

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父鬼に辿り着きました。
比較的大きな集落です。

横を流れる槇尾川には”乳滝”があります。
古くは父滝と呼ばれていた時期もあったそうです。

いつの頃からか乳がよく出るよう女性が祈願して
鯉を滝の淵へと放すという風習が流行ってからは
”乳”滝と呼ばれるようになったのだとか。

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父鬼を過ぎると鍋谷峠方面の国道と分かれます。
国道と分かれた少し先には古い道標がありました。

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「左 かうや ほりこし」

高野山と七越峠の先にある堀越観音のことでしょう。

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立派な石積みと九十九折の坂道が続きます。
道幅は比較的広く、掘割状になってるのが特長です。

こういう特長はただの登山道でないことを示していて
かつて多くの人が通った街道だったことがわかります。

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古い丁石。

七越峠を経由して槇尾山へのものでしょうか。
先ほどの道標の類もそうですが普通の登山道にはないものです。

登山道のような道を登っていくと七越峠。
ここには昭和のはじめまで茶屋があったそうです。

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峠にあるお地蔵さんは道標になっています。
左、さいこくみち。右、まきおさん。

ここから先は粉河寺と槇尾山を結ぶ
西国巡礼道の道筋に沿って下っていきます。

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少し下った先にあった道標には
鍋谷峠方面の表示に”やまみち”とありました。

これは鍋谷峠の道を指しているのか
尾根沿いを進む道を指しているのかはわかりませんが
少なくとも現地の人しか使わないルートだったと思われます。

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巡礼道らしく丁石が点在しています。
やがて視界が広がってきました。

定福寺では新しいトイレの設置工事の真っ最中でした。
久しぶりに見る建物だったのでなんだかホッとしました。

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下り坂は急な箇所がありますが
登山道のような感じではなく歩きやすい道です。

所々で崩落したことがあったのでしょう。
復旧工事が行われた箇所がありました。

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福徳寺付近からは眼下に鍋谷峠からの国道が見えています。
かつては寺から一気に国道に下りる形だったようですが
現在は斜面の工事などで通行困難になってしまっています。

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国道と合流するとなだらかな道になってきました。

桃の花があちこちに。
あとはゴールまで一本道です。

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古い道標には”かうや”の文字を見てとれます。
ここが高野山方面への分岐点だったのでしょう。

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もう1つの道標は珍しく”手”が彫られたタイプ。
このタイプは明治後期から大正に多く見かけるのですが
江戸期のものだとするとレアな部類です。

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橋の名前に残る「さいこくばし」
西国巡礼道である証拠ですね。

和歌山県側のこの地域は紀ノ川の水流から高台になるので
立派な用水が明治期に引かれています。

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「小田井用水」

川を跨ぐ立派な水路橋。
明治のものなので造りに見応えがあります。

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やがて大和街道(伊勢南街道)との追分でゴール。
最寄りの西笠田駅は徒歩5分のところにありました。


   
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