戦国時代は本道として扱われていた時期もあって
海津城や長沼城などを通る戦略の要でした。

民家の左から入っていく
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
北国街道の平出追分から分岐します。
ここから再び北国街道と合流する矢代宿までに
渡しが松代道は1か所、北国街道が2か所あるのですが、
松代道の渡しは雨が降っても止まることは少なく安定していたので
北国街道のバイパスとして使われることがありました。
別名「雨降り街道」と言われる所以です。



まずは白坂峠に上ります。
白坂峠の一里塚は片側のみ塚が残っています。
歩いた時期は3月でしたが積雪が多い年は
まだまだ残雪が多い時期かもしれませんね。


難所の神代坂。
一気に500m標高を下っていきます。
所々で消滅している箇所がありますが
全般的に旧道がよく残ってるほうだと思います。
ただ、藪が結構酷い場所があったので
時期によっては厳しそうです。



善光寺平の眺め。
小布施、須坂方向の町が見えます。

大石の上におられる馬頭観音さま。
とにかく勾配がキツイ神代坂の往来は
馬も人も大変だったことでしょう。

松代道の難所といえる難所はここまで。
あとはのんびりと歩いていきます。


神代宿は宿場に指定されたのが遅かったので
本陣は同じ集落内を古くから通る飯山道沿いにあります。


本陣の跡

「是ハ善光寺ミち」
追分に善光寺への道標が立っています。

神代宿は駅でいうと豊野が最寄駅になります。
ちょうど踏切のあたりに「流死人菩提碑」が立っています。
寛保年間の大水害においては千曲川の水が
この踏切の辺りまで迫ったというから相当なものです。
水位としては北陸新幹線の高架下に立っている
千曲川洪水水位標を見ると一目瞭然です。



信州りんご発祥の地。
明治29年の大洪水で桑が壊滅的な被害を受けたので
養蚕に代わってリンゴ栽培をする農家が増えたとのこと。
松代道はこの先も千曲川と平行して進んでいきますが、
水害の歴史と切っても切れないものがあります。


長沼城下に入ります。
城があった北側は武士の住む城下町として発展して
南側は宿場町として発展してきました。
その影響で街道の道筋は枡形として10か所も折れ曲がり、
城下町には立派な長屋門が今も残っています。



長沼宿のメインストリート。
奥には秋葉さんが祀られています。
北長野の宿場町でよく見かける光景です。
ここから先は千曲川の右岸を進みます。


村山神社、名主小坂家のあたりが渡し場跡。
「布野の渡し」です。


村山橋で迂回しますが結構な距離があります。
それだけ千曲川が大河であるということでしょう。


千曲川の堤防の内側では桃の栽培が盛んです。
今は辺り一面が桃の木ですが昔は菜種栽培が盛んで
菜の花畑によって黄金島と呼ばれていたそうです。

対岸の渡し場跡がこの付近。
川に削られてしまって昔の面影がありません。


右に千曲川を見ながら旧堤防上を歩いていきます。
所々で藪ってるところがありました。
次の宿場は福島宿。
渡し場からは少し離れた場所に位置しています。


宿場の入り口にあった観音道標。
台座に「左、北国街道布野船渡善光寺道」「右、中野小布施道」
角を曲がると立派な本陣が建っていました。


さすがは蔵の街の「須坂」だけあって
福島宿も大きな蔵が立ち並んでいます。
本陣は宿場の中心部にもう一か所あって
こちらもなかなか立派なものです。


福島宿は江戸への近道の大笹街道の起点でもあり、
さらに江戸後期には千曲川通船が許可されて
交通の要衝として栄えています。

信州の山々を眺めながら進みます。
「右ハ、松代」「左ハ、保科道」
ここは保科道との分岐点。


保科へと抜ける川からの景色を眺めると
春間近な感じで心地よいものでした。



川田宿の手前にある信濃川田駅跡には
長電2000系が留め置かれていました。
元特急車ですが線路が外され寂しいものです。
この先の松代道は旧屋代線沿いに進みます。

川田宿のメインストリート。
かつては中央に用水があったので道幅が広くなっています。
この立派な整った町並みは元からあるものではなく
千曲川の度重なる水害によって移設されてきたもので
以前の場所(古宿)は国道と川の中間あたりにありました。


本陣前には旅籠が3軒並んでいたそうです。
そして、宿場の前後には立派な秋葉さんの祠。
石柱に突き刺す形でバランス良く立っています。


宿場の外れには関崎の渡し跡。
松代藩直轄の舟渡しになっていて
夜はこちら側に舟を止めておく決まりがあったそうです。
立派な常夜灯にスロープ状の草道が残ります。


この渡し跡付近の街道は
関崎峠という山の中腹の道筋になっていて
千曲川の水害を防ぐように進んでいたのですが
道路拡幅や鉄道建設で昔の峠道は面影がないようです。


ただ、痕跡が全くないわけではなくて
上を見ると碑があったり路盤が見え隠れしています。
鉄道のトンネル側から探索してみましたが
藪が酷く碑の場所でさえも行くことができませんでした。



松代の境にある鳥打峠が見えてきました。
真田城下が近いこともあって寺の屋根に六文銭が飾られています。

鳥打峠ですが未舗装の緩い上り坂の道筋で
平日はダンプも通るのでしょうか。結構良い道でした。



鳥打峠。
峠からの眺めは善光寺平を一望。
長野市街が見えました。
松代側の峠道の道筋には諸説あるのですが
その考察はヤマレコ記録にまとめていますので
そちらを参照していただければと思います。


「右川田駅、中柴弥陀道、左善光寺道」
裏には山本勘助など墓の場所が書いてある珍しいものです。
松代城下町に入ってきました。
大河ドラマの影響で真新しい六文銭が町中に溢れています。




松代城下中町。
古い家を見かけますが明治時代に2度大火があったので
街道筋には江戸時代の建物は残っていないようです。
松代は真田氏の史跡の他にも、
佐久間象山や大本営など見どころが豊富です。
時間に余裕があれば松代で区切るのもいいかもしれませんね。


電線が地中化されてるって気持ちがいいものです。
町の印象が随分と違ってみえます。
松代の郊外は長芋の産地。
ショベルを使っての収穫の真っ最中でした。


この付近の江戸後期以前の道は
旧河川の堤防を利用しての道筋だったのですが
区画整理によって痕跡は残っていないようです。
この地で長芋の栽培が盛んになったのは
千曲川の水害のたびに肥沃な土壌がもたらされたのが一番の理由で
松代藩真田十万石の時代より自家用栽培の形跡があります。
今では全国シェアがナンバーワンになのだそうです。


妻女山を横目に見て旧道を進みます。
千曲川もだいぶ上流になって穏やかな流れです。
上流方向に歩いてるということは
ここまで緩い勾配を上ってきているわけですが
それを気づかせないほど歩きやすい道のりが続いています。



一里塚跡。
この付近は千曲川の洪水に備えて
石垣の上に建てた蔵(土口の水屋)が特長的です。


間の宿である雨宮宿を過ぎると
ほどなくしてゴールの矢代宿追分に到着します。
