2016年11月17日

北国街道を完歩しての感想とか

北国街道をようやく踏破できました。

北陸というと日本海側の雪深い土地柄なので
東海道とは違った風情を楽しむことができました。

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まず、北国街道という名前ですが
資料や地域によって呼び方が様々なので
どの名前で統一して歩いていこうか悩みました。

現在、北国街道として一番脚光をあびているのは
中山道追分から長野市を経て新潟県高田までの区間でしょう。
海野宿、上田、善光寺、妙高高原と見どころが豊富ですし
道中にはあちこちで北国街道の表記を見かけます。

一方、富山県、石川県、福井県に関しては
北陸街道という呼び方が多かったように思います。
滋賀県では再び北国街道の表記を多く見かけました。

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ルートについても全体的に複雑でした。
黒部川付近や松代では別ルートが存在したり、
滋賀県では琵琶湖の東西にルートがあったりと、
どこを通ると一般的な使われた道筋なのか悩みました。

結局そういう場所は別ルートも歩くことにしたのですが
想定以上の時間がかかってしまったのは誤算でした。

北国街道のルートの定義は難しいですが
加賀藩の参勤交代で使われたルートを基本にしつつ
一般的に認識されている滋賀県の鳥居本宿から
長野県の追分宿まで歩くことにしました。

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次に計画上で大変だったことは気候です。

北陸地方は11月に入ると春まで曇りがちな気候が続きます。
また冬は雪が多いので長距離を歩くには厳しくなります。
これをいかに避けて計画するかがポイントでした。

それでも3月下旬に妙高高原付近を通過した折は
豪雪地帯ということで残雪がまだまだ残っていて
スノーシューを持参して歩かざるえませんでした。

スノーシューは軽くて動きやすいと言われてますが、
街道歩きでは国道など雪のない場所が結構あることから
その都度の脱着はなかなか面倒なものでした。

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それに加えて雪道においての移動時間の増加(平地の1.5倍)。
さらに軽いはずのスノーシューを背負うとき場合は
長距離を歩けば歩くほどズシリと重くのしかかってきます。

豪雪地帯は雪の時期こそ良いものが見れることがありますが
ことのほか街道歩きに関しては相当体力が必要だと感じました。

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北国街道の随一の難所といえば親不知が有名です。

江戸時代は波打ち際を歩いていたわけですが
現代は大型車が頻繁に通る国道8号線を歩かねばなりません。

車で何度か通過したことがあったので
道の状況から相当苦労するなと考えていたことから
大型車が少ない連休の合間を第一条件として
気候が安定する夏場で計画を立てています。

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ところが当日の天候は大雨。

朝が早かったので交通量は少なかったものの
傘を差して歩くものなら車と接触しそうなほど勢い。
車としてもまさか人が歩いてるとは思わない場所なので
結局は合羽を着て親不知を乗り切りました。

ラッキーだったのは洞門内を歩くことが多かったので
それほど雨にはかかることがなかったという点。
風があれば別ですが車の恐怖を除くと快適なものでした。

とはいえ、北国街道随一の難所といわれるだけあって
現代でも難所であることを思い知らされました。

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次に印象的だった場所をいくつか。

以下に箇条書きで書いていますが
それぞれの詳細は当ブログの該当区間の記事で
詳しく書いてありますので参照していただければと思います。

木ノ本宿→今庄宿での峠越え.jpg

・木ノ本宿→今庄宿での峠越え

約40キロ以上の行程で峠があることから
どのように計画していくかで悩んだ区間でした。
板取宿と今庄宿の雪対策された古い家々は感動しました。

越前藩の加賀藩対策の気合いの入れよう。.jpg

・越前藩の加賀藩対策の気合いの入れよう。

外様の加賀藩と譜代の越前藩。
有事の際の福井城北方における堅い守りはかなりのもので
今では想像できない重要な拠点だったことに驚かされました。

野々市宿付近の町並みと金沢.jpg

・野々市宿付近の町並みと金沢

古い家々が残る宿場町風情がある野々市。
一方で城下町で強固な町づくりがされた金沢。
ほんの隣町なのに対照的な町作りに面白さがありました。

富山市内の神通川の付け替えと立山連峰.jpg

・富山市内の神通川の付け替えと立山連峰。

3000m級の山々を間近に見ながら歩く幸せ。
川とともに歩んだ城下町の繁栄の光景を楽しめました。
この区間においては天候が良くてほんと良かったです。

黒部川の季節によってのルート変更.jpg

・黒部川の季節によってのルート変更。

富山平野には幾重もの川が流れますが
特に黒部川は氾濫が多くて別ルートが存在したりと
当時の人々の苦労がわかる区間でした。

筒石、名立付近の旧道の藪漕ぎ.jpg

・筒石、名立付近の旧道の藪漕ぎ。

山体崩落によって道筋が変わった場所では
災害から再び蘇った集落がありました。
筒石の独特な町並みにも感激。

高田から妙高高原に続くだらだらした坂道.jpg

・高田から妙高高原に続くだらだら続く坂道。

ダイナミックな田切地形と妙高山の眺めは良いものの
城下町から延々と続く上り坂には相当疲れました。

善光寺寺内町.jpg

・善光寺寺内町。

寺の多い長野市内。歴史の深い町。
善光寺はこれまで何度か来ているのですが
歩いて到達できたことに喜びを感じました。

上田と千曲川の流れ。そして最大の難所.jpg

・上田と千曲川の流れ。そして最大の難所と海野宿。

千曲川の河岸段丘上を通る街道。
田切地形のダイナミックさに感動したのですが
そういう地形からくる絶壁の難所が存在していました。

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海野宿の町並みは重伝建に指定されています。
江戸時代の古き良き風情がありました。
こういう場所は夕方の人が少ない時間がいいですね。

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さいごに。

北国街道歩きの良いところは
太平洋側にない良さがあるという点でしょう。
全体的に良い意味での田舎なのでゆったり歩くことができました。

北国街道を踏破するには長い期間がかかったわけですが
ルートの調べ方は前半と後半では力の入れようが違ってきてました。

当初は参考書オンリーで計画を立てていたのが
次第に古地図や航空写真も織り交ぜていっています。
これは北国街道は資料となる本や歩いてる人が少ないことから
自分自身で調べていく必要があったということに他なりません。
おかげで旧道の調べ方のスキルアップも楽むことができました。

次は関連する街道である新潟方面を歩いてみたいところです。

以上。enjoy!北国街道!

 
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2016年11月10日

北国街道その19・田中宿→追分宿

長かった北国街道歩きは今回がラスト。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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田中宿は千曲川氾濫や大火などを乗り越えてきたのですが
昔の面影は近年の道路改修によって少なくなっています。

この本陣の門は唯一と言ってもいい遺構です。

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電線が地中化されているのはいいですね。
上の写真の行灯も風情があっていいものです。

一見は普通の町並みなので
こういう宿場だったよ!的なものがないと
宿場だった過去を知らない人も多いのではと思います。

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石造仁王像。

地元出身の力士「雷電」の母親が薬師堂に奉納したもので
当初は左のみ設置して右は大関に出世した後に作られています。

この先の街道沿いには雷電の碑があるのですが
削って持ち帰ると強くなるという変わった迷信があったので
削りに削られ元の文字がわからなくなっている始末です。

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中山道でよく見かけた出桁造の家。
この辺りから所々で見かけることができました。

だらだらした上り坂とアップダウンある道も
どこか木曽路を思い起こさせるものがありました。

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長野県といえば双体道祖神。
関西にもありますが大きさが全然違います。

この先の道中では何本もの川を横切っていきます。
浅間山に近づくにつれ川の浸食が激しくなっているのが特長的で
谷を避けるために山側に迂回しているケースが多くなっていきます。

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迂回する分は距離が長くなるのですが
上り下りの辛さと危険さを考えると大したことはありません。

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この大石沢川を渡る場所も迂回していたわけですが
明治期に谷は石積みで嵩上げされ一直線の道で解消されています。

写真は元々の旧道からの眺めですが
なんとも立派な石積みとトンネルですよね。

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芝生田集落。
火の見櫓はこの先でも集落ごとに見かけることができまし。

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こういう北国街道の案内看板はうれしいですね。
次なる川も浸食が激しい深沢川です。

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V字の谷になっていて水量はわずかでした。
橋を渡って左手に旧道を確認することができます。

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かつて多くの人が歩いていたであろう緩やかな坂。
下った先の川のほとりには古い石仏がありました。
旧道であった証ですね。

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浅間山が見えてきました。
ここまで上りだった道筋は小諸宿に向かって下っていきます。

花川の桜並木は7分咲きで見頃はまだまだ。
満開だった上田と違って標高の違いを感じます。

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布引観音道標。

布引観音は行基創建という天台宗布引山釈尊寺で
「牛にひかれて善光寺」の舞台となった寺です。

追分には栃木川の橋が架かりますが
ここも浸食が激しいので上流に少し迂回していたようです。

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小諸宿の入り口は青木諏訪神社付近。
ここには桝形がありました。

中沢川の河岸段丘上へと進んでいくわけですが
1742年に中沢川の土石流(戌の満水)で大きな被害を受けています。

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上の写真は現在の中沢川の様子ですが
かなりの浸食具合で右手にある小諸城は天然の要害であることがわかります。
水害までは斜めに柳町へと抜ける道筋になっていたのですが
崩壊してしまったので現在のルートに付け替えた経緯があります。

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小諸宿本陣。かなり立派な建物です。
駅近くには本陣主屋が保存されています。

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小諸宿は小諸城を中心とする城下町で
宿場の機能が加わってからは商業も目覚ましく発展していきます。
東信濃随一の経済圏の中心地で特に醸造業は最先端なものでした。

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小諸城跡にある懐古園を見学。
桜の名所になっています。

桜越しに見る浅間山はなかなかいいものです。

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小諸宿本陣を過ぎると桝形のような道筋に入りますが
これは鍋蓋曲輪があった影響です。

宿場のメインストリートには古い建物が並び
小諸の見どころは懐古園だけでないことを思い知らされます。

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往時の産業の名残り。
これは鏝絵(こてえ)のようなものですね。
光岳寺の山門は元は小諸城の足柄門だったそうです。

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ここは城下への出入り口になっていた場所で木戸がありました。
足元は現在は暗渠になってますが蛇堀川が流れています。

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蛇堀川は浅間山から流れているものですが
1108年8月30日にあった火砕流においては
川を下って小諸市加増まで達したといいます。

現在の国道18号まであと100メートルの地点です。

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唐松一里塚。

一般的に街道は塚と塚の真ん中を進むわけですが
この一里塚もパッと見はそのように見えます。

ところが、旧道はこの塚の横をかすめる形で進んでいます。
一方、塚と塚の間を通る道はというと新道にあたるのです。

新道といっても江戸時代の道にはなるのですが
道を通す為に元々あった1つの塚を2つに分割したので
今に見るような形態になったという話です。

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乙女坂を過ぎると佐久甲州道との追分です。
右に進むと甲州街道の韮崎宿へと向います。

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乙女という変わった地名の由来ですが
場所が高台なので遠くまで見える「大遠見」からという説や
泉を見つけた「乙女」という少女がいたからという説、
ここが小諸藩の「御留め場」であったからという説があります。

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浅間山が大きく見えるようになってきました。
勾配をぐんぐん上っていきます。

十石坂には旧道が残っています。
周囲は綿矢川の田切地形になっていて
なかなかダイナミックなものがあります。

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対岸の山壁には穴がいくつも見えますが
古墳ではなくて戦時中に作られた軍事用貯蔵庫なのだそうです。

田中宿をスタートして標高を400mもあげてきました。
ここは850mで最終的には1000m近くまで上っていきますが
この辺りになると桜はまだまだ。肌寒い気温でした。

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馬瀬口の明治天皇小休止聖跡。

馬瀬口とは柵口とも呼んで読み方は「ませぐち」。
放牧場の馬の柵のことで古くから馬の飼育で発展してきました。

鉄分の酸化で常に濁っている濁川を過ぎると
小諸藩と幕領の境目になります。

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この境目付近は追分原といわれいる場所で
浅間山の火山噴出物が厚く堆積しています。
いわゆる火砕流の跡です。

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やがて分去れ(中山道との追分)が見えてきました。
立派な常夜灯に石仏に。素晴らしい追分風情です。

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追分宿入り口にあった「つがるや」の鏝絵は
「〼形」の文字が刻まれています。

これは建物の前にあった桝形からきているもので
一般的な桝形とは違って四角に囲った珍しい道筋でした。

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追分宿本陣前。
これにて北国街道完歩としました。

まとめはおいおい書いていこうと思います。


  
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2016年11月04日

北国街道その18・矢代宿→田中宿

春うららな道中。
難所が2つもある大変な区間です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

放射冷却で極寒だった屋代駅前。
大阪からの夜行バスで長野入りしました。

ちょうど桜が満開でした。

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元禄年間に作られた寂蒔(じゃくまく)の土手。
千曲川の水害から守るためのものです。

しばらく千曲川と平行していきますが
このような水害対策を随所で見かけることができます。

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戸倉宿は下戸倉宿と上戸倉宿と分かれていて
2つで1つの役割を持っていた合宿でした。

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下戸倉宿の「下の酒屋」

今や戸倉といえば温泉で有名ですが、
歴史は意外と浅くて明治になってからのもの。
温泉が出来たことによって駅の誘致に成功しています。

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本陣である「上の酒屋」は碑のみが残ります。

戸倉宿は加賀藩の参勤交代では使用されず
一般の庶民や武士の利用が多かったといいます。

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少し離れた場所にあるのが上戸倉宿。

下戸倉宿が国道沿いにあるのに対して
1つ中に入っているので静かな雰囲気です。
月のうち22日から末日の間が宿場業務に当たっていました。

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国道18号だけあって交通量は多めです。
おかげでコンビニが点々とあって助かりました。

遠くには次なる難所の横吹八丁が見えてきました。

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特長的な岩井堂山を千曲川越しに眺める場所に
有名な笄(こうがい)の渡しがありました。

村上義清公の居城の葛尾城が陥落した際に
奥方が逃げ延びる話から名づけられたものです。

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横吹八丁とは次の坂木宿の手前にある難所です。

千曲川が真横に迫る場所で逆側には大きな崖。
これを避けるために山の中腹を迂回していく道筋でした。
ちなみに現在の国道の場所は江戸時代は川の中になります。

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江戸時代の横吹八丁は廃道になっている

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明治になって技術が発達したおかげで
崖沿いに国道を通すことが可能になったわけですが
通す際の条件として旧来の道も残すというのがありました。

ところが長い年月が経った現在は崩落が多くて
一部を除いて残念ながら消滅してしまったのですが
最近になって復活の動きがあるみたいです。

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上の写真は旧道の痕跡の一部で「つるし仏」付近。
元々あった仏様は近くの寺に移設されています。

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坂木宿に入ります。
西の桝形には大きな善光寺常夜灯が立っていました。

広々とした道幅は中央に水路があった名残です。

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越屋根の家々が立ち並ぶメインストリート。

坂木は元々は葛尾城の城下町で
城主だった村上氏の史跡が数多く残ります。

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本陣跡に建つふるさと歴史館には宿場の展示があります。
古写真がいっぱいあって新旧の対比が楽しめました。

入り口にある本陣門は土蔵風の作りで一風変わっています。
元々は陣屋にあったものを移設してきたものだそうです。

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坂城駅には169系電車が保存されていました

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坂木宿はまだまだ続きます。

当初の宿場の範囲は横町と立町だけだったのですが
参勤交代などで通行が多くなっていくと
新たに新町と大門町が追加されていきます。

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中之条集落から振り返っての眺め。
横吹八丁がよく見えています。

中之条は陣屋があった場所で
元々坂木宿にあったものが大火で移ってきています。

この周辺の江戸時代の特産品というと「玄古たばこ」
”たばこ”と大きく書かれた碑がありました。

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青空に桜が映えます。

続いては間の宿である「鼠宿」
この変わった名前の説は幾つかあるのですが
一番有力なのは関所のような場所であったことから
寝ずに番をする(寝不見)からきてるみたいです。

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明治天皇小休止跡。

鼠宿は松代藩が設けた間の宿で
本陣や旅籠などは作られず茶屋があった程度でしたが
この先にある難所「六寸街道の切通し」が控えてることもあって
泊まる人が多くて坂木宿から苦情が絶えなかったそうです。

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左の窪みが切通し

さて、「六寸街道の切通し」です。
先ほどの横吹八丁よりは道筋がよく残ってます。

険しい崖になっていて国道から上を見上げると
切通しの部分を確認することができます。

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現在の国道は明治に作られた道です。
その横には遊歩道は街道っぽく整備されてますが
騙されてはいけません。元は旧信越本線の線路跡です。

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切通しへ行くには斜めに上っていく小道を利用します。

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殿様も籠から降りて歩いたというのも納得できるほど
道幅が狭く崖になってるところがあって大変危険です。

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こちらが切通し=江戸時代の道筋

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しかしながら切通しからの眺めは大変素晴らしいもので
天候が良ければ寄ってみる価値はあります。

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再び地平に下りて崖沿いにそった旧道を進むと
良質な水で有名な塩尻地区へと入ります。

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塩尻の名前は高田塩と倉賀野塩の終着地だったことから。
狭い旧道沿いに風情溢れる町並みが広がっています。

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右、北国街道。左、さくば道。

さくば(柵場)道とは農道の意味だそうで
佐久のことかと思ったのですがどうも違うようです。

大河ドラマで賑わう上田城下に入ります。

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城下の道筋は他の街道と同じく、
本丸を避けるように周辺を囲む形で進んでいます。

外堀の役目もあった川には立派な石積みがありました。

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柳町。

古い家が残る良い通りです。
夜には行灯でのライトアップがありました。

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観光客向けの施設があるので人通りが多く
馬篭宿のような賑わいを感じました。

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原町を過ぎ本陣のあった海野町へ。

海野町は真田昌幸が自身が海野氏の後継者である事を示すため
海野宿一帯の住民や寺院を上田城下に招いて住まわせています。
元々の海野の村は今は本海野と呼ばれています。

上田城は桜の時期は昼も夜も大賑わいです。
いわゆる千本桜というもので夜はライトアップがされていました。

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信濃国総社と推定されている科野大宮社過ぎると
上田城下と別れ千曲川の河岸段丘上を進んでいきます。

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神川。第一次上田合戦(神川合戦)の地。
左側に真田軍、右側に徳川軍が対峙していました。

橋を渡った先にあった旧道は見事な草道が残ります。

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岩下は明治天皇が小休止された場所で
元々は間の宿のような役割があったものと思われます。

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ここにあった大きな岩が太鼓岩。
増水時には水が当たると太鼓のように音がなるみたいです。
岩へは伊勢湾台風まで吊り橋で渡ることが出来たのですが
台風の直前になって撤去されて塔だけが残ります。

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大屋駅を過ぎると今回のクライマックス海野宿です。
宿場のだいぶ手前から道路が広くなって水路が流れて
なかなかの雰囲気があります。

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海野宿。

雰囲気抜群ですね。
それほど観光地化されていないせいか
素晴らしい割には人出が少なくゆっくりできました。

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江戸時代は花見というと梅です。
立ち木も柳が多かったので相当昔を意識しています。

やっぱ江戸時代の町並みはこうでなくっちゃ。
これがソメイヨシノだったりすると少しガッカリします。

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うだつの立派な家々。
隣接する田中宿が寛保2年の大洪水の被害があってからは
本陣が移ってきて大変な賑わいがありました。

明治に入って宿場機能が失われてからは
養蚕を営むようになってきています。

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今回のゴールの田中宿。
なかなか盛りだくさんな道中でした。



 
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