和歌山県からは主に平安時代の道筋を辿っていきます。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

大阪府との境で紀州街道と分かれます。
曲がり角の墓地の中にあった道標は
すっかり墓と同化してしまってました。
左 和歌山 及 紀三井寺
右 加太淡島神社

大阪府内では熊野街道と案内されていた道筋ですが
和歌山県内では熊野古道と熊野街道と名称が分かれています。
この名称の違いは一般的には意識する必要はないのですが
「古道」は平安時代によく利用されていた道筋であって
「街道」は江戸期以降に整備された道筋と理解するとわかりやすいと思います。
双方とも重複してる場所は多くなっています。
イメージ的に「古道」は山越えをする最短距離を進むルート、
「街道」は海沿いの今の国道42号に沿った平坦な場所を選ぶルート。
海沿いの道が出来たのは後年の護岸整備技術の賜物なのでしょう。


道に埋め込まれた熊野古道の案内石。
迷いやすい曲がり角でも安心して進めます。
今回のルートは和歌山県のマップを参考にしています。
http://www.wakayama-kanko.or.jp/walk/
熊野古道歩きの楽しみの一つは王子めぐり。
いわゆる遥拝場や休憩所にあたるものなのですが
本宮大社までの紀伊路と中辺路で80近くもあったといいます。


この川辺王子跡もその一つ。
ただし推定の場所です。
熊野詣は平安時代に人気があったのですが
その後は時代とともに衰退して熊野詣の人気が落ちていって
各地にあった王子の一部は消滅していってしまいます。
時代が流れて再び復活した王子もあるのですが
元々あった場所の特定は難しい場合が多くて
推定地となっていることが多いようです。


ルートに関しても同じことが言えます。
紀ノ川周辺では河岸段丘上を進んでいきますが
平安時代は治水がそれほど発達していなかったのか
一直線に進んでいる江戸時代の紀州街道に対して
川を大きく迂回する道筋になっています。
この元々の道筋については
参考書などでは推定ルートと紹介される場所もあって
江戸時代に出来た東海道や中山道などと比べると
時代が古いので謎が多いのは仕方ないところです。


紀ノ川を渡りましょう。川辺の渡しです。
江戸時代においても重要な渡し場で
紀州街道の別ルートとしても利用されていました。
(参勤交代は少し下流側にあった田井ノ瀬の渡しを利用)
対岸の布施屋の集落は
ここでもまた大きく迂回した道筋になっています。
想像するに時代によっての渡し場所の変化や、
紀ノ川の流れの変化が関係していたと思われます。

布施屋では一部区間で伊勢南街道(大和街道)上を進みます。
街道が周囲より一段高い場所にあるのは旧堤防だった証拠です。

川端王子跡

吐前王子、川端王子を過ぎると田園風景が広がります。
難所の矢田峠の手前には大庄屋の屋敷跡があります。


旧中筋家住宅。入館料は100円。
江戸時代の建築を今に伝えています。
熊野古道に関する展示は皆無でしたが
大きな庭が二つもあって大庄屋らしい家でした。



矢田峠。
立派な切通しが残っていました。
峠の前後では若干歩きづらい場所があったのですが
大部分が歩きやすいように整備されていて、
階段になってる場所さえありました。
ただ、経年によって劣化してきているようで
おそらく世界遺産登録で賑わっていた時に作られたものでしょう。
(注・紀伊路は世界遺産でない場所があります)


峠の先では右に進みましょう。
街道マップでは左と案内があるのですが
右ルートには役行者祠や古い道標がありますし、
左は見た感じ農道としか思えません。


里に出ると和歌山電鉄の踏切を渡ります。
ここで少し寄り道。
紀伊国一之宮の伊太祁曽神社。

読み方は「いだきそ」
和歌山電鉄の駅(車庫)があるので
鉄道ファンには馴染みのある場所です。


奈久智王子跡を過ぎて四ツ石地蔵。
祠の四隅に廃寺の礎石が置かれています。
石はかなりの大きさがありました。
当時としても一大モニュメントだったらしく
古い絵図にもしっかり描かれています。


こういう案内板は嬉しいですね。
松坂王子を過ぎると再び上り坂に入ります。


立派な石畳の場所があって驚いたのですが
元々は平行する車道にあったものが
道路改良によって5mずらしたとありました。

汐見峠。
かつてここから海が見えました。
峠を下った先にある地蔵の祠には
津波のことが書かれています。


大昔のことは忘れがちになりますが
津波がここまできたという証拠は大事ですね。


熊野一の鳥居跡でゴールとしました。