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熊野古道の歴史は古いことから
時代によってルート変更はよくあることで
本宮大社近くの赤木越えもその一つになります。
大阪から始発電車に乗って
紀伊田辺でバスに乗り換えたのですが

ここは外国か!というぐらいの外国人の集団。
さすがは世界遺産というだけはありますね。
赤木越えは中辺路の三越峠が本来の起点になるわけですが
現在は一部区間で崩れてしまって廃道になっているので
発心門王子付近の船玉神社からアクセスすることになります。

こちらが船玉神社。
山の中の何もないところにひょっこり現れます。
赤木越え道は尾根道になっているので
アクセス道を使って一気に登って取りつきます。


こういう瞬間があるからたまらないですね。
ここで赤木越え道と合流します。
左がこれから向かう湯の峰温泉方面。
右からの道は本来の起点である三越峠につながっています。


ちなみに少し右へ歩いてみると
「熊野古道ではありません」標識がありました。

一般利用者が迷わないように立てたものと思うのですが
本来の熊野古道にも関わらず違う旨の表記は少々疑問ですね。
ここは素直に通行止めと表記されるべきでしょう。

戻って湯の峰温泉方面に進むと快調路が続きます。
アップダウンがほとんどない良い道です。
江戸時代以降は赤木越えがメジャーな道筋だったといいますが
なんとなく理由がわかるような気がします。



鍋割地蔵。
なかなかユーモラスなお顔をされています。
鍋割峠は一遍上人の弟子が昼飯を炊いていたところ
鍋の水がなくなって鍋が割れたという話が残っています。

快調!快調!
やがて分岐点に差し掛かりました。
弘法大師像が入った古い祠があります。
その先には古民家が一軒。


ここは柿原茶屋といって名所図会にも描かれていた場所。
建物は江戸時代のものではない廃屋ですが
広々とした敷地を見てると昔の賑わいを想像させられます。
廃屋の中には五右衛門風呂や昔の道具が置いてありました。
ネットにあった3年前の写真ではドアは密閉されていたようですが
誰かがこじ開けてしまったのか中が丸見えになってしまっています。
こうなると建物の風化は早いでしょうね。


雲が取れて良い眺めです。

湯の峰温泉への下りが始まりました。
何人もの人が歩いているからなのでしょう。
足がかかる部分では石が大きく窪んでいます。


湯の峰温泉。
街道歩きの途中では温泉に入ることは滅多にないのですが
今回は行程的に余裕があったので一服しました。
250円で入れる気持ち良さ。
関西には珍しい硫黄臭たっぷりのお湯です。
秘湯っぽい雰囲気に心がやすらぎます。

熊野御幸の時代(平安期)においても
湯の峰温泉は湯治場として利用はあったのですが
熊野詣との関連で湯垢離(ゆごり)による潔斎の場として人気になるのは
盛期を過ぎた14世紀頃からであると考えられているようです。
それ以降は西国三十三か所詣での人々往来が盛んになって
旅の疲れを癒す意味から本宮大社の参拝前に入浴したといいます。

さて、赤木越えは湯の峰温泉を境に大日越えになります。
世界遺産にもなっている「つぼ湯」横が入り口です。
階段を上っていくと湯の峰王子があります。


中世熊野詣の盛期と違う時期での設置のものなので
儀礼の定着に伴って後年に設けられたものなのでしょう。
急坂を登っていきますが
先ほどと同じくこちらにも石が足形に窪んでありました。



登り切ってしまうと再び快走路が始まります。



年を重ねた杉の木はいいものです。
月見ヶ丘神社を過ぎると大斎原が見えてきました。

大斎原は本宮大社の旧社地にあたります。
かつては社殿がずらーっとつらなっていました。
しかし、場所的に川の中州だったことから
洪水で悩まされていて壊滅的な被害が多かったといいます。
現在の場所には明治の大水害を機に移ることになります。



中心部には祠が2つ。
ここが各地から続いている熊野古道の起点であり終点になります。
周囲を囲む石積みは川の流れと直角に造られていて
洪水を避けることをを意識した造りになっているのが特長的です。


古絵図に昔の様子が載っていました。
中州の中にあった様子がよくわかりますね。
大斎原の後は大きな鳥居をくぐって現在の熊野本宮大社を参拝して
今晩の宿である小雲取越えの入口付近まで歩きました。

翌日は小雲取、大雲取り越えで那智大社に向かったのですが
平安時代は本宮大社を参った後は船で速玉大社まで下ってから那智大社でした。
現在は水量の関係で船便はなく再現出来ないのは残念なところです。
ちなみに船が出ていた場所というのが
大日越えの出口付近でガソリンスタンド裏あたりでした。
下の写真のように大きな河原になっています。
