2017年06月28日

奥州街道十次その1・宇都宮宿→氏家宿

長い長い奥州街道のはじまりです。
まずは宇都宮宿から氏家宿まで歩きました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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日光街道との追分。
左が日光。まっすぐが奥州街道です。

本陣を含めた宿場の中心部はこの先にあるのですが
日光街道はその手前で分かれてしまいます。

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これは宇都宮宿が出来た経緯が関係しているようです。
元々は二荒山神社の門前町で中心に街道が通っていたのですが
宇都宮城が築城されると城下町としても発展していきます。

その後に江戸時代になると日光街道が整備されます。
宿場域は時代を追うごとに西へと広がっていったようです。

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宇都宮の繁華街の一つオリオン通りの中を進みます。
この出口付近の左手にあるのが二荒山神社。

高台にある下野の国の一之宮です。

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日野町は近江の日野と関係があります。
他にも鉄炮町など城下町によくある地名が続きます。

先ほどから屈曲している道筋が続いてますが
これも城下町であるがゆえのものでしょう。

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田川を渡ります。宇都宮駅のすぐ近くです。
この付近には寺が多く寺町になっています。

江戸初期までは市で賑わう場所だったのですが
通行量が多くなってからは年一回に制限されてしまいます。
これが「初市」で橋に1月に行われている様子が描かれています。

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明治28年に建立された見世蔵。
時間帯によっては見学することができます。

ここからはしばらく一本道。
郊外へ郊外へと進んでいきます。

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大谷石が張り付いている珍しい長屋門。
おそらく後年に取り付けられたものなのでしょう。

大谷石は加工技術が簡単なことから
コンクリートが普及するまで多く利用されていました。
特に宇都宮周辺は産地でもあったのであちこちで見かけます。

左手に高原山と日光連山が見えてきました。

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稚児坂で宝木台地を上ります。

かつては坂の途中に茶屋があったのですが
牛房(ごぼう)汁が年中問わずの名物だったそうです。

台地を下った先が白沢宿です。

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入口には立派な地蔵堂が立ち、
その先には江戸時代の公衆便所跡があります。

公衆便所の遺構って珍しいですよね。

もよおした時は道の脇でしていた時代ですから、
糞尿を肥料として再利用するために設置したものと思います。

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建物自体は古いものですが
鉄板のようなもので補強されているので
昭和に入っても何かしらで使われていたのでしょう。

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かつての屋号がかかげられている家々。
宿場の中心部には水車のある光景が広がります。

ここは鬼怒川の渡しを前にした宿場町ということで
本陣、脇本陣各一軒備えた中規模の宿場町でした。

ちなみに名物は鬼怒川の鮎でした。
先ほどの牛坊汁とともに有名だったようです。

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宿場を出ると鬼怒川を渡りますが
土地区画整理や川の流れの影響などで
かつての道筋が消滅している箇所があります。

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この一里塚の碑ですが
ここは本来あった場所ではありません。

元の場所は現在の河原の中にあったそうですが
幾度も流され推定地さえわからなくなってしまっています。

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鬼怒川の下流を見ると筑波山。

上流側は日光連山に高原山。
それにしても良い眺めです。

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街道は阿久津河岸へと進みます。

阿久津は宿場ではないですが大きな港町で、
江戸からの鬼怒川舟運の終点に位置しています。

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集落内は古い道が入り組んでいます。
船玉神社付近は河岸の跡で細長い村だったようです。

奥州から来た荷物の一大集積地だったことから
道には荷物と人と溢れかえることが多かったようですが
後に小荷物を運ぶ道と大荷物を運ぶ道は分けたりして
集落内での混雑緩和に努めていたそうです。

このあたりの説明はさくら市ミュージアムで
ジオラマ付きで詳しく見学することができます。

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そうめん地蔵を過ぎると街道は少し消滅します。
付近には戦国時代まで栄えた勝山城の史跡があります。

立派な土塁が残り見ごたえ抜群です。
鬼怒川が天然の堀になって強固な城だったので
一度も落とされたことがなかったそうです。

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ここからの展望はいいですね。
高原山が気持ち良いぐらい見えます。

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氏家宿の入口には
道標やお地蔵さまがおられます。

「右江戸道、左水戸 かさま 下だて 下づま」

氏家は街道が交差する交通の要衝でした。

氏家宿の旅籠は大変な活況があったそうです。
これは阿久津河岸が近くにあったことも関係しています。

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ここの名物は水戸が近いことから海の生魚でした。

この先の奥州街道は山の中を進んでいくので
しばらく食べれなくなる貴重な代物だったようです。


  
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2017年06月16日

『街道プレゼン』熊野古道と街道マップのこと。

今回は先日の街道シンポジウムで発表しました
熊野古道と街道マップについてをテーマに話していきます。

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熊野古道は平安時代がピークの信仰の道です。

その後は時代とともに衰退していくわけですが
世界遺産登録を機に再び脚光を浴びています。


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和歌山県の街道概要(わかやま観光情報のページより)


いわゆる「熊野古道」と名前が付いてる道筋は
出発地点や目的の違いから幾重ものルートがあります。

江戸や伊勢神宮方面からの「伊勢路」
高野山方面からの「小辺路」
京や大坂からの「紀伊路」「中辺路」「大辺路」


どのルートも熊野本宮大社へと続いている点が
大きな特長といえるものです。

ただ、大まかな道筋はわかっていたとしても
どこを経由していたか等の細かい部分は推定が多くて
江戸時代の五街道は絵図が残ってるのとは対称的に
平安時代の街道資料はほぼ皆無といえます。

数少ない平安時代の資料があったとしても
日記の一文に〇月×日に△△に寄った的なものが多いので
道筋の特定の判断材料となると弱いところです。
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熊野古道は信仰の道だったことから
都市と都市を結ぶだけの街道とは少し役割が違うところで
ルート周辺にある寺社に寄り道する人が多かったものと思います。

こういう点からも熊野古道のルートは
推定が多くなってる上に複雑なのは仕方ないところで
これを理解して歩くことは他の街道歩きと違う点といえます。

昔の道を忠実に歩きたいウォーカーにとっては
やや消化不良なところがあるかもしれません。


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わかりやすいウォーキングマップ(わかやま観光情報のページより)


熊野古道を案内するマップとしては
わかやま観光情報が良いものを作成されています。

街道マップ|高野巡り・熊野古道
https://www.wakayama-kanko.or.jp/walk/

名所や所要時間などもしっかり書かれていて
熊野古道をとりあえず歩いてみたい層にとっては
これほど役に立つものはないでしょう。

ただ、ルート自体は間違っている部分が多く、
トンネルなど明らかに違う場所が指定されてたりします。

例えば上のマップの濃い茶色の線に注目です。

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地図の左端「朝日楼」と書かれている付近

一見すると国道の脇にある旧道に見えますが
元を正せばJRの旧線だったりします。

こういう旧線跡を遊歩道などに転用してる例は多いですが
当然のことながらここは熊野古道ではありません。

ここをあえてルート指定になっているということは
大人の事情が絡んでいるものと思われます。

この点で和歌山県観光連盟にお聞きしました。
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・歩いていただく方の安全性を考慮したルート
・地元の関係者の意見を聞いてのもの


これはよくあることなので納得です。
熊野古道のメインの時代は平安時代で資料が少ないので
あらゆる方面からの意見を募っての決定は重要なことです。

また別のメールでは

・街道マップは和歌山県の古道を多くの人に触れてもらうのが目的
・調査や研究に基づいてのルートではない


街道マップを制作した趣旨はこの2点だったそうです。
これはこれでアリだと思います。

ただ、重大な問題点が一つ。
それは間違ったルートが既成事実化してしまうこと。

熊野古道には長い歴史があるので
ルート変更での消失は多かったものと思います。
またルートは推定箇所が多いのは前述のとおりです。

しかし、明らかに違う場所を指定してしまうと
20年後、50年後という長いスパンで考えてみれば
そこが本来の道と疑う人は少なくなってしまいます。

結果、指定されなかった本来の道は
歴史の中に埋もれてしまうことになりかねません。
自治体のサイトは個人と違って発信力があるので
間違ってる道でも正しくなることがあるのは怖いところです。

もし、街道マップのわかりやすい場所に

「自治体推奨のルートだよ!」
「本来の道でない所もあるよ!」


というようなことが書かれていたなら
こういう問題はおきないのではと思います。

閑話休題。

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熊野古道は実際歩いてみると
雰囲気は良く他の街道にない良さがいっぱいあります。

上の写真は小辺路にあった茶屋の跡です。
石積みなどの大部分は江戸時代のものですが
山の中だけあって時間が止まってる感覚がします。

このような場所には案内看板があることが多いですが
案内看板を見て往時の様子に思いをはせることができます。

しかしながら全部の見どころに案内看板があるとは限りません。
こういった場合は図書館などで調べる方法があるのですが
もっと簡単な良い方法といえば「古老」のお話です。

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昔話を聞くことは意外な発見があったりするもので
地元の人の話は調査の上で有意義になることが多いです。

古老というと老人をイメージしますが
若者や子供だって十分に古老である資格があります。
よそ者より長くそこに住んでるというのが重要です。

今の時代は下手に話しかけると怪しまれることがありますが
まあ、その辺りは臨機応変にいきましょう。

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隠れている古道を探し出す方法としては
地理院地図や旧版地図を用いた調べ方があります。

道となる場所は太い線や点線で描かれてるのですが
山間部での点線は大抵は登山道である場合が多いです。
その中でも明らかに山頂方向に向かっていないとか
車道に平行してる点線などは旧道である可能性が高いでしょう。

ただ、気を付けないといけないのは
測量ミスと思われる点が多いことです。

下の地図では実際に歩いた道(緑色)と点線では違いますね。
特に山の中の道筋はこういうことがザラだったりするので
100%信用して計画を立てていると痛い目にあいます。

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最近ではデジタル資料をネットで公開が増えてきて
旧版地図も簡単に見れるようになってきました。

スタンフォード大学の旧版地図
http://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41

このサイトでは日本各地の旧版地図が公開されてますが
旧版地図の中でも比較的新しい時代のものです。

江戸時代の道を知ろうとすると
出来る限り江戸時代に近い年代の地図が欲しいところですが
これはなかなかネットでは出回ってくれてません。
地理院で取り寄せという形が一般的でしょう。

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最後に熊野古道小辺路の知られざる旧道のご案内。
上の地図の急斜面には点線が描かれているのがわかります。
場所は十津川村。有名な果無集落の手前です。

後にこの点線の道は廃道になってしまうのですが
現地で確認すると意外と痕跡が残っていました。

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こういう平場の場所が道だったんですよね。

今にも消えてしまいそうな痕跡だったので
20年後、50年後はどうなってるかわかりません。

街道マップから外されてしまった道筋の末路。
ここも歴史に埋もれてしまうのでしょうか。

以上です。



posted by にゃおすけ at 10:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

【街道シンポジウム】 信楽道・信楽→水口宿

街道シンポジウムの一環で歩いてきました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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信楽というとタヌキの焼き物で有名ですよね。
駅では巨大な信楽焼が愛嬌を振りまいていました。

タヌキの置物ばかりのイメージが強いですが、
実は信楽焼全体の一割ぐらいなんだそうです。

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信楽の場所は奈良や東海地方との交通路上にあって、
紫香楽宮が設置されたほどの歴史的な場所で
このような場所を通る信楽道は人と物流の重要な道筋でした。

信楽道は信楽地方を拠点に方々へと延びていますが
今回は信楽から東海道の水口に向けて歩いてみました。

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信楽には集落がいくつかありますが
中心部というと「長野」と言われる場所で
新宮神社の裏手には旧役場が置かれていました。

新宮神社にある狛犬は信楽焼です。
道中では至るところで焼き物が置かれています。
山手には工房から出す煙が立ち上がっていたり、
登り窯の姿も見ることができます。

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長野付近の江戸道は狭い路地を縫うような道筋です。

ルートの選定には歴史資料のほか旧版地図も用いています。
ただ、明治初期のものと後期の地図では随分と様子が違います。
同じ明治時代でも30年ぐらいの差になってしまうので
江戸道をあぶり出すには初期のものが有効です。

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「右 弘法大師」と刻まれた天明元年 (1781) の道標。

勅旨付近に真言宗玉桂寺があるのですが
同寺は「勅旨の弘法さん」として信仰を集めていました。

この道標は街道を行く人々の便宜を図ったもので
少し先の場所にも同じような「左 弘法大師」道標が残っています。

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勅旨付近では大戸川沿いと山沿いのルートとで悩むところですが

・築堤技術が発達した江戸期においては堤防上を歩いていた記述。
・天保、元禄年間の絵図では川沿いが描かれている。
・玉桂寺への道標が川沿いの道から分岐するよう置かれている。

この3点から川沿いが江戸期の一般的なルートだったと考えられます。

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近江國図(元禄年間)

大戸川は暴れ川だったこともあり
氾濫時は山沿いのルートに迂回していたこともあったようです。
また、古道であった旨の歴史街道の案内看板もあることから
江戸期以前はメインだった可能性も否定できません。

今回は堤防上の江戸道を歩きましたが
山沿いのルートも気になりますね。

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堤防上の道を進んで行くにつれ
山が次第に両側から迫ってきました。

川に水が多く見えるのは小さなダムがある影響ですが
色が茶褐色なのは信楽の粘土質の土の影響があるのだそうです。

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近世の信楽焼搬出ルートとしては
木津川舟運の利用がよく知られていますが
これは和束を通る道筋なので逆方向の街道になります。

この旺盛を極めた舟運も明治23年に草津線が開通すると
メインの輸送ルートは鉄道輸送へとシフトしていきます。
今回の街道では江戸道以外にも明治道が多く残っていますが
草津線貴生川駅まで大量の陶器を運ぶことが出来るように
輸送ルートの変化に対応すべく整備されたものなのでしょう。

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近江國図(天保年間)

大戸川を渡ります。
絵図でもここで渡河していたことが描かれています。

大きな立派な橋は昭和30年のもの。
それ以前の橋は昭和28年の水害で流されてしまっています。

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雲井駅を過ぎて信楽インター付近へ。
ちょうど街道に平行する形で左にあるのが紫香楽宮跡です。

当初はこの付近が宮跡と思われていたのですが
後の発掘で甲賀寺であることがわかっています。
(宮跡は北約1kmに位置する宮町遺跡)
甲賀寺は大仏を建立する予定があったほどの寺ですが
後に中止になって奈良の東大寺で建立されています。

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それにしても涼しい道中です。
信楽は関西でも最も寒い町の一つで
真冬の天気予報ではよく信楽の名前が出てきます。

この日も6月にも関わらず22℃前後の気温で快適でした。

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小野谷の国道沿いを進み旧道へと分岐します。
この道は天台宗広徳寺への道筋にもなっているので
途中までは時おり車も通っています。

広徳寺(山上庚申)は最澄が開基した古寺ですが
文禄二年に地元の藤左衛門という男が参籠した折に
真鍮の製法を感得して巨万の富を得たと伝えられています。
このことで金物屋からの信仰を集めることになるのですが
広徳寺への立派な道標類は金物屋の寄進が多いみたいです。

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この道標もその一つですね。

信楽道は小野峠に向けて上っていきます。
途中からは車の乗り入れが禁止となっているので
道の状態はアスファルトながらも悪くなっていきます。

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小野峠付近は明治になって大きく改良を受けています。

元々の道は沢沿いを進む道筋(赤線)だったものを
勾配を緩和すべく迂回した道筋になりました。

この明治道(国道の旧道)は車が通らなくなってからは
崩落個所が部分的に見られるほど荒廃が進んでいます。
もともと地盤的に脆いところがあったのだと思いますが
江戸時代の道筋も一部を除いて消滅してしまっています。

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こういう発見は嬉しいですね。

小野峠から先の貴生川への下り道ですが
江戸時代は牛飼集落へ抜けていたのに対して、
明治時代は山上集落へと変更になっています。

これについては
山上集落への道は江戸時代にもあったと思いますが
あくまでサブ的なルートと考えるのが妥当でしょう。

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牛飼集落への道は一部消滅している場所がありますが
なんとか辿ることが可能です。

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途中には大きな切通しや茶屋の跡などがあったり、
自然石の古い道標まで残っています。

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「しがらき、飯道山」と微かに読むことが出来ます。

飯道山(飯道寺)は湖南の代表的霊山のひとつで
奈良時代にはすでに「飯道神」の記述がある古寺です。
また当山派修験道の中でも枢要の地位を占めていたようで
周辺に山伏が多かったのはその影響だったそうです。

ただ、これだけのお寺も明治維新になると
飯道神社と広大な坊跡を遺して廃寺となってしまいます。

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牛飼の集落が見えてきました。
名前がなんとも昔風で良いですね。

滋賀県の街道の特長のひとつに
旧家の屋根に「水」と書かれたものを見かけますが
これは火事を防ぐおまじないのようなものです。

あと、飛び出し坊やも滋賀の名物ですね。

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杣街道との合流点である三本柳の手前には
江戸期のものとしては最も高い道標が残っています。

「山上庚申道」「日本/真鍮/祖神」「是ヨリ 三十丁」

ざっと5mはあるような大きさですが
すぐ横には小さな道標も置かれています。

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これら2つは元々の場所から移設されてきたものですが
大きな道標は大正8年、昭和58年と移設を繰り返しています。

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三本柳の集落。
かつては宿場でもあり賑わっていたようです。

また中心部に飯道寺と山上庚申と書いた道標があるように
双方の寺へ向かう人々の恰好の休憩場でもあったみたいです。

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杣川を渡ると近江富士が見えてきました。

途中、近江鉄道の線路を行ったり来たりして
今度は瀬田川を渡って水口集落へと入っていきます。

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水口神社付近からは立派な黒松並木が続きます。

神社の前には常夜灯型の道標。

「志加らき道、左 八幡道、右 日野 八日市道」

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ここで二股になっていますが
左へ行くと水口城内へと続いていました。

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やがて東海道との合流点である水口宿。
その手前に自然石の道標が残っていました。

「右 志からき五り道、左 い加上の七り」

ようするに信楽まで5里ですよ、
伊賀上野まで7里ですよという意味になります。

以上で信楽道を終わります。

→当日の模様はコチラ

第13回 街道歩講 信楽シンポジウム
https://togetter.com/li/1117070


posted by にゃおすけ at 09:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする