2017年07月27日

奥州街道十次その3・大田原宿→芦野宿

五街道踏破まであと一歩。

ここで改めて五街道のことを書いてみますと
江戸幕府道中奉行の直轄下の特に重要な道筋のことで
東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道。
これら5つの街道を総称して呼ばれています。

奥州街道については白河から先は別管轄になるので
五街道としては白河で一区切りするのが一般的です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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大田原宿を出ると長閑な道筋が続きます。
那須らしい高原の風情です。

東山道表記の案内看板もありました。

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この一里塚は移設されたもの。

建物の移設はよくある事例ですが
塚の移設というのはあまり記憶がありません。

単に再び土を盛ったということなら
移設というより復元になると思うのですが
どちらにしてもこういうモニュメントは嬉しいですね。

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樹齢400年の高野槙。
奥州道中三槙の一つなのだそうです。

旧街道らしく石仏をあちこちで見かけます。

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朝靄の中に浮かぶ麦畑が美しいですね。
雪をかぶった山は那須岳(那須連山)でしょうか。

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練貫交差点。

当初の計画では前日はここで終了して泊るはずだったのですが
宿まで距離が4kmあることから大田原までに変更した経緯があります。
さすがに往復だと8キロ。2時間の寄り道はつらいものです。

民宿はネットの宿泊サイトで探しても見つからないことが多いのですが
Googleマップなどで地道に探してみると思わぬ発見があります。

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鍋掛十文字手前にあった一里塚は道路左の斜面上にありますが
道路を拡張する際に移設されたのだそうです。

東北や北海道でよく見かける地名「十文字」
意味は単なる交差点ということになるのですが
こういう地名を見かけると遠くに来たものだと思います。

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鍋掛宿は本陣1、脇本陣1、旅籠23の規模で
那珂川の手前だったので増水時は川留めで賑わったそうです。

名前の由来も川留めからで町中に旅人が溢れかえった折に
住民総出で鍋を使って炊き出しをしたからといいます。

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絵図に見ると川の手前で大きく湾曲した坂を下って
対岸に渡っていた様子が描かれています。

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今もその痕跡がくっきりと残っているのは面白いもので
若干藪っているものの往時の雰囲気を味わえました。

江戸初期は徒歩渡り、後期は舟橋か土橋だったそうです。

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那珂川を渡っての対岸は堀越宿です。
鮎の漁獲高日本一らしく橋には鮎のモニュメントがありました。

堀越宿は先ほどの鍋掛宿と合わせて2宿で1宿の合宿だったのですが
領地はそれぞれ違っていて鍋掛宿は幕領で堀越宿は黒羽藩の領地。
合宿で同じ領地でない事例は珍しいかもしれませんね。

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那珂川は難所というだけあって
東北の外様大名の侵攻から守るという役割もあったので
いわば天然の防波堤的なものだったと想像できます。

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枡形の跡。
道路がショートカットして作られています。

この場所の横にある寺に境界石が保存されていました。

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丘陵地帯を進んでいくと富士見峠へ。
かつては名前の通り富士山が見えていたことでしょう。

ここの峠は改良の手が入っていて
本来の峠は車道の左側に隠れています。

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藪っていますが地盤はしっかりしていて
峠と思われる場所は広い場所になっていました。

資料によると茶屋が何軒かあったそうです。

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峠の先にある集落は寺子で間の宿でした。
その入口には一里塚が移設復元されています。
他に富士見峠にあった馬頭観音も保存されていました。

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寺子集落の出口では余笹川を渡るのですが
そのたもとに大きなお地蔵様がおられました。
この周辺でよく見かけたタイプ石仏です。

余笹川は暴れ川で橋を架けてはすぐに流されるので
基本は徒歩渡りで川越え人足が常駐していたといいます。

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近年の災害においても橋が流されています。
その災害の様子が上の写真です。
結構なものですよね。

家々にはここまで水が来たという記しが付いていました。

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橋を渡って石田坂を上って豊岡集落へ。
実にのどかな道中。ここではGWの混雑は無縁です。

先ほどの余笹川と似たような感じの黒川を渡ります。

川の手前まで伸びている旧道ですが
川を渡った先も旧道の延長線上に道が延びていました。

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その旧道の痕跡がこちら。
残念ながら全部を辿ることは難しそうです。

少し進むと夫婦石一里塚がありますが
保存状態は大変良いものでした。

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西坂を下ると芦野宿です。
坂の名前は宿場の西側の坂という単純な意味なのでしょうか。

宿場の入口と出口には大きなお地蔵様がおられます。

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各家の前にはかつての屋号が書かれていたりと
宿場内にある那須町歴史探訪館には街道資料もあったりと
宿場の積極的な保存活動をあちこちで垣間見れました。

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芦野宿は本陣1、脇本陣1、旅籠40と国境を前にした大きなもので
旗本だった芦野氏の陣屋町でもありました。

宿場の中央にはウナギで有名な丁子屋がありますが
混雑する時期は前もっての予約が必要なのだそうです。

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道標と道路元標。道標は明治期のものです。

「奥州街道 鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル 白坂ヲ経テ白河ニ至ル」

芦野宿出口にあったお地蔵様。
こちらは野ざらしで置かれていますが
入口にあったお地蔵様も昔はこのような感じだったそうです。

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芦野宿を出ると奈良川に沿って北上していきます。

この日は白河宿まで歩きましたが
長くなるのでここで一旦区切ることとします。


  
posted by にゃおすけ at 14:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 奥州道中十次 | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

奥州街道十次その2・氏家宿→大田原宿

ひさびさの関東での街道歩き。
今回の遠征で五街道踏破となりました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

氏家宿は江戸時代は鬼怒川の水運で発展した宿場でした。
特産物の集積地だったので旅籠も大変な活況だったのですが
現在の中心部は交通体系の変化でひっそりしてます。

これはこれで昭和の雰囲気があって良いですね。

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この立派な門は江戸時代の絵図にも描かれているものです。
氏家周辺は水害が多く常に悩まされていたようですが
酷いときは門の半分まで浸かったといいます。

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瀧澤家住宅。

土蔵の上に塔を配した建築様式は
氏家の人気スタイルでしたが今はこの一軒のみに。

明治天皇行幸時では小休所として利用されていました。

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二十三夜塔に麦畑に大谷石を使った建物。
この3点は北関東の街道歩きでの定番の眺めでしょうか。

関西では見かけない光景なので新鮮ですね。

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民家の庭の中に残る一里塚。

一里塚がある街道は幹線であることが多いので
明治以降は払下げや道路拡張で崩されることがよくありました。
ここは庭に取り込んでくれていたおかげで現存してくれていて
これも一種の払下げですがありがたいことです。

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やがて関東平野の終わりである早乙女坂に入ります。
江戸時代からは弥五郎坂という名前でも呼ばれています。

さすがは平野の終わりなだけあって段丘になっていて
戦国時代は戦場になっていたといいますが
段丘からの眺めは非常に良いものです。

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途中から土道に入りますが
道路脇は崩れることが多かったということで
明治の早い段階で迂回ルートが開削されています。

道の横の盛り土を見ていると
崩れている箇所が何か所も確認できました。

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橋を渡って喜連川宿へ。

江戸時代にも橋が架かっていたのですが
洪水でも流されない特殊構造だったといいます。

道標には「右 江戸道、左 下妻道」の文字。

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喜連川宿は城下町でもありました。
脇道には風情ある路地が残っています。

本陣跡にはお洒落な建物が建っています。
パッと見は新しく見えますが実は大正時代のもの。

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宿場の出口は鉤状の大きな枡形。
北の備えは万全といったところでしょう。

アップダウンした道を進んでいくと
今回の区間のクライマックスともいえる旧道が現れます。

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養豚場が広がる丘陵地帯。
地図にある旧道に見える道筋は明治に作られたもので
江戸時代の道は右横に平行して残っています。

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若干荒れていますが見事な痕跡です。
ゴミが放棄されていますが普通に歩けます。

掘割状の道筋は500mほど残っています。
ここも早い段階で道路の付け替えが行われた関係で
今も昔のままの姿を見ることができるのでしょう。

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高原山が遠くに見えてきました。
1.5車線な感じの道がのんびりと続きます。

やがて佐久山宿。

城下町でもある宿場町で
那須氏発祥の地でもあります。

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入口付近の家には立派な看板が掲げられていました。

江戸時代の看板のスタイルはというと、
歩く人から見やすい位置にあるのが一般的ですね。
よく時代劇で見るような店の正面上にドーンと掲げるタイプは
どちらかというと少数派だったみたいです。

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美しいせせらぎ。
イトヨが生息しているほど水が澄んでいます。

近くにあった「蒲盧碑(ほろひ)」は文化9年のもの。
那須野に一隊の兵士が行進する蜃気楼が現れことが記されています。

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なんだか少しオカルトの香りが漂っていますが
この手の伝承というのは日本各地によくあるものです。
ただ碑にしてまで残すというのはレアかもしれませんね。

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蒲盧碑の近くには「町初碑(まちはじめひ)」もありました。

「此町初 寛永四ひのへ卯年」と書かれていて
町の起源を明らかにしていた碑は大変珍しいもので
書物で残すのが大半なだけに歴史的価値がありますね。

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水田と高原山と。イイ感じですね。

佐久山宿から大田原宿までの道筋には
松並木があったのですが戦時中に伐採されています。

この辺りの奥州街道は佐久山街道とも呼ばれています。

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大田原宿(城下)に入ります。

入口には珍しい洋風の愛宕神社がありました。

宿場の出入り口に火災防止のために
火の神様を置くことが多いですが大田原もそのようです。

神社の横には薬師堂もありましたが
まるで日光のような立派な彫刻で立派でした。

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城下町らしく屈曲のある道筋が続きます。

大田原と言えば那須与一。大田原城。
他の見どころとしては金灯篭でしょうか。

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文政2年に防火や町内安全や旅人の夜道の無事を祈願したもので
初代は戦争の時に供出、2代目は他の地区からの借りもの。
今のは三代目で昭和54年に初代に似せて作られています。

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大田原城城内

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大田原城を横に見て蛇尾川の橋のたもとへ。

普段は川の水量は少ないのですが
大雨になると砂利の上を一気に流れる暴れ川になるそうです。
そのため江戸時代は橋は無く徒歩渡りになっていました。

写真の渡り風景は明治のものなのでしょう。

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宿は橋から徒歩5分のところにある民宿を取りました。
今どき3500円での素泊まりは嬉しいですね。

次は白河宿まで約40キロの行程になります。



  
  
posted by にゃおすけ at 14:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 奥州道中十次 | 更新情報をチェックする