2017年08月18日

五街道を踏破しての雑感など

ついに五街道を踏破しました!

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五街道とは・・・
東海道 、中山道 、甲州道中、日光道中、奥州道中(一部)は、
幕府の道中奉行が管理し良く整備されていた道のこと。

街道名を見るとそうそうたる名前が並んでいますが
五街道踏破は街道ウォーカーの中には目標や夢とする人がいます。

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最初の街道歩きは2009年の東海道でした。
かれこれ8年近くも前の話です。

当時の意気込みを振り返ると
誰かに触発されてというものではありませんでした。
政府の施策で高速道路1000円乗り放題というのがあったので
車での旅は混むから疲れる!からやめとこという単純な理由でした。

街道歩きは連休でも混雑はほぼ無縁!
開放的な空間にみるみるハマっていきました。

でも、8年ともなると結構な長期間です。
中にはモチベーションを保てない人も出てくるでしょう。

★もともと歴史が好きで地理も好きだった
★交通分野に明るい知識があった。(道、バス、鉄道など)
★冬のスキーためのオフトレ


私の場合はこの3点が根本的な部分にあったので無問題でした。
その上でTwitterなどで街道の仲間が出来て情報交換をするなど
コミュニュティが広がっていったことが大きかったです。

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せっかく街道を歩くんだからということで
当初はマイルールを決めていました。

★道中の名所や資料館は出来るだけ寄ってみる
★各宿場町の本陣は必ずチェックする
★広重の浮世絵と現地を見比べてみる
★現地の名物料理、お菓子に舌鼓み
★写真を撮ることから暗闇の歩きは避ける
★出来るだけ昔のルートで歩く


歩いてみてわかったのですが
時間の関係で泣く泣くスルーすることがあったのと
本陣などは気づかずに通り過ぎてしまうことも多々ありました。

時間がないというのは途中で道を間違えて右往左往したり
体力不足から予定の歩行時間をオーバーしていたからですが
これらは後々にiPhoneなどを使った歩く資料のIT化によって
随分とスムーズに歩けるようになっていきます。

今でもこれらのマイルールは生きています。
中には資料がほとんど出回っていない街道もありますが
こういう街道は自ら調べ上げるという楽しみが出来ました。

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街道を歩くにつれ街道の知識が深まっていきます。
当初は東海道と中山道だけで終了!と考えていたものが
次第に近場の街道や脇街道にも興味を持っていくようになりました。
これが後に五街道踏破につながるわけです。

五街道踏破だけを目標とするだけならば
ものの3年もあれば十分達成できるものですが
一気に行けなかった理由は交通費と休日の兼ね合いでした。

遠方の街道となると毎週のように歩くわけにはいきません。
かといって、1か月も空くと体がなまってしまう。
そこで近場の街道は何かないかと探すようになりました。

五街道踏破までの期間は長くなってしまいましたが
他の街道を歩くことで街道ごとの違う点などを知ることにより
多面的な視野で考えることが出来るようになりました。

こういうことを繰り返して街道スキルを上げていったわけですが
体力面でも当初は10kmでも疲れたーってなっていたものが
30kmでやっと疲れたなと思えるようになってきたように
歩行力もヒシヒシと力がついていきました。

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五街道踏破への順番は以下の感じでした。

1・東海道(江戸→三条大橋)
2・中山道(三条大橋→江戸)
3・甲州街道(下諏訪→江戸)
4・日光街道(江戸→日光)
5・奥州街道(宇都宮→白河)


どこが一番印象的だったかと聞かれることがありますが
どの街道もそれぞれ特長的なので即答は難しいところです。
東海道は昔に住んでいた静岡の町を通ることもあって
懐かしい気持ちで歩いていました。

トータルで考えるとするならば中山道はポイント高いです。
山間部が多いことで都市部が少ないという点(関東平野を除く)、
昔の風情が他の街道と比べて圧倒的に残ってるというのが理由です。

初めて街道歩きをする人にも是非オススメしたいのですが
中山道は東海道と比べると山間部が多いので若干敷居が高いのが難点です。
まずは東海道で鍛えて中山道を歩いたほうが楽しめるのではと思います。

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今回、五街道踏破を奥州街道の女石追分で終えました。

感動という点では正直なところ少ないものでした。
これは女石追分にはモニュメント類が一切ないという点や、
奥州街道自体はまだ先へ続いているという点もあります。

五街道を踏破したといっても一区切りにすぎません。
街道歩き人生はまだまだ途中だということです。

今後の目標としては以下の通りです。

・熊野古道を一通り制覇
・北国街道出雲崎ルート
・成田街道
・長崎街道
・東海道復路


この中の東海道の復路ですが
往路はガイドブックだけを頼りに歩いたものだったので
残念ながらイマイチ記憶に残っていない部分がありました。
ある程度は自分で調べて歩かないとというのが反省点で
いずれ復路を歩いてみたいと思っています。

街道バンザイ!

  

  
posted by にゃおすけ at 11:21 | Comment(0) | 街道歩きテクニック | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

奥州街道十次その4・芦野宿→女石追分→根田宿

奥州街道の五街道区間ラストの行程です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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芦野宿を出ると目の前に立派な木が現れます。

「遊行柳」

西行法師が休んだといわれ
松尾芭蕉も唱を詠んだという有名な場所です。

『田一枚植て立ち去る柳かな』

柳というと近代の日本ではお化けが出るイメージがありますが
昔は風流なイメージがあったそうです。

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ここからは緩やかな勾配が県境まで続いていきます。
国道沿いを進んでいくので車の交通量も増えてきます。

このような場所では早い時期に道路改良することが多いですが
そのお陰で今でも取り残された旧道を何か所も見かけます。

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立派な松が残る峯岸集落。

ここには「べこ石」という大きな平らな石があるのですが
孝行の大切さと善行の勧め堕胎の戒めと生命の尊重等が書かれた
後世へのメッセージが3500文字で書かれてあります。

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このような碑は少し先にも「諭農の碑」があります。

こちらは農民へのメッセージが彫られています。
虫の駆除法、飢饉対策、飢えた人の救護など。嘉永年間のものです。

これらを読んでいくと当時の価値観や、対処法など
現在と違ったものが見えてくるので大変面白いものです。

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板屋一里塚。

明治になって大きく掘り下げられていますが
崖上に2つともしっかりと残っていました。

山桜がまだまだ咲き誇る風景。
東北はまだまだ春ですね。

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両側から山が迫ってくると県境が近くなっていきます。
まばゆい水田の上には鯉のぼりが泳いでいました。

高瀬集落付近には
手つかずの奥州街道という看板がありました。
ものの10mほどですが痕跡があるのは嬉しいものです。

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この周辺は山沿いに進んでいたと思われるのですが
中には旧道が家の敷地に取り込まれている場所があったりして、
全ての痕跡を網羅するには難しいものがあります。

このように地元の人が看板で知らせてくれるというものは
歴史に埋もれつつあった道筋が解明できるので有り難いものです。

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間の宿・寄居。
入口には古い常夜灯が立っています。

寄居は下野の国の最後となることから
茶屋などがあって賑わっていたそうです。

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泉田の一里塚。

移設保存されたような感じにも見えるのですが
説明版には特に触れられてはいません。

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明神の地蔵様。
大きくて立派なものです。

国境が見えてきました。
境の明神は下野側は玉津島神社。
陸奥側は住吉神社と並んでいます。

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玉津島神社

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住吉神社

玉津島神社は火事で焼けてしまって再建のものですが
住吉神社のほうはは昔のまま残っています。

立派な灯篭に書かれてある名前を見ると
東北の藩主などそうそうたる面々です。

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境界石があります。
ここには茶屋もありました。

有名な白河の関は別の街道筋にあたります。

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陸奥の国(福島県)に入りました。
下野側と違い陸奥側は街道の大部分が国道に吸収されています。

やがて白坂宿。
五街道整備前の白河−芦野の距離が長すぎたことから
伊達政宗が作った宿場町と言われています。

地元の古老によると将来的に宿場として活性化の試みがあるらしく
各家々の軒先に屋号を掲げるなど検討中とのことです。

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枡形の痕跡

入口と出口に枡形の痕跡が残ります。

この辺りから増えてくるのは戊辰戦争の史跡で
写真の左手にある石碑も前哨戦で亡くなった大垣藩士のものでした。

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那須連山を一望。

戊辰戦争の激戦地であった稲荷山の手前で右に折れます。

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江戸時代以前はそのまま直進で市街地に入っていたのですが
白河城の防御を固めるため迂回する道筋に改良されています。

昔の絵図を見てもこのとおり。

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白河宿。
かつては賑わった宿場町ですが
交通体系の変化で市内にも関わらずひっそりとしています。

白河は城下町でもあったので屈曲した道筋が続きます。

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この辺りが白河宿の中心部「本町」。
本陣1、脇本陣2、旅籠35ありました。

街道は城を半周するように進んで阿武隈川を渡ります。

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復元のものですが
「左 せんだい あいづ で八 ゑちご」、
「右 日光 江戸 左 たなくら い八き 水戸」と刻まれています。

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江戸時代は徒歩渡りだったという阿武隈川。

阿武隈川の手前には大きな木戸がありました。
ここから先が白河郊外ということになります。

目の前に見えてきた山を抜けると女石追分です。

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追分の手前の山はかなり掘り下げられています。
かつては右側にある階段を上った場所が
当時のレベルで旧道だったと思われます。

階段の上には石仏群がひっそりと置かれています。

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ここが女石追分です。

昔の絵図には道標が描かれていますが今は何もありません。
奥州街道は右へ。直進は会津へ。

この場所で道路管轄が変わります。
道中奉行管轄はここまで。五街道はここで終わりです。

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奥州街道としてはまだまだ続きます。
追分から2kmほど進んだところの根田宿で街道を離脱しました。

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五街道踏破の感想はまた別の機会で書くとしまして、
街道歩きの後はせっかく遠くまで来たので城めぐりをしています。

地震の被害が今だ生々しい白河小峰城。

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そして、二本松に移動して二本松城。
安達太良山がよく見えて気持ちの良いものでした。

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posted by にゃおすけ at 14:37 | Comment(0) | 奥州道中十次 | 更新情報をチェックする