街道シンポジウムの一環で歩いてきました。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
北陸地方の白山信仰は盛んです。
そのうち加賀国からのルートが鶴来道になります。
金沢城下の片町付近の北国街道から分岐します。
通称「男川」の犀川大橋の西詰がスタート地点です。
この立派な橋は大正13年製。
当時は関東大震災の影響で鋼材の入手が難しく
一部英国産も利用して作られています。

江戸時代は長さ40間の木橋だったものを
大正8年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられたのですが
わずか5年弱で水害で流され現在の橋になったというわけです。

蛤坂を上って寺町台地に入っていきます。
対岸の町並みは坂の町金沢らしい風景のひとつ。
坂の名前の由来としては享保年間に大火があった折、
その後に道を作ったので「焼けて口を開く」という意味から。
享保年間以前の旧道は妙慶寺坂と呼ばれていました。


ひときわ目立つ料亭。
地上三階地下一階の木造建築物は立派ですね。
戦前と思われるコンクリート建築もちらほら残っています。


八坂神社前にあった赤い石は石川県名産の戸室石。
加工が容易である反面、脆い石で非常に高価なものです。
藩政時代は家の前に敷かれてるだけで家の格がわかったといいます。
無論、前田家に関連する施設は多用されています。

金沢は京都を模した町づくりをしてる面が多く
八坂神社のように京都にある寺社の名前をあちこちで見かけます。
また「ひがし茶屋街」に対して「にし茶屋街」というような
対をなしているのも特長の一つといえるでしょう。


寺が多い中を進みます。寺町です。
金沢城から見て西側に築かれたのは福井の松平対策。
ここまで多いのは防御の意味からですが
中でも妙立寺は出城の役目もあったので凄いカラクリです。
通称・忍者寺と言われるだけあって一見の価値があります。

寺町を進んでいくと大きな枡形があります。
これは火除け地の役割を持っていました。
密集した木造建築は大火になると一気にやられるので
大きな空間を作ることで飛び火を防いだといいます。

金沢は空襲がなかったおかげで今も古い家が多く残っています。
こういう京都を意識したベンガラで塗られた家は金沢らしいですね。
やがて住宅地へと入っていきます。


この元禄期の道標は大乗寺方面への分岐点のものですが
道標としてはかなり古い部類なのでレアものです。
山側環状(バイパス)に入って広い道を進みつつ
左手に高尾城跡が見えてくると再び旧道に入ります。


額谷町の集落に残る道路元標。
こういうものがある場所は周辺の中心地だった証です。
額東神社の金沢寄りには大正期まで茶屋があったといいます。


旧道には道路の膨らみ(旧道の痕跡)が数多く残っています。
四十万と書いて「しじま」
金沢の難読地名の一つです。


この付近からは若干勾配がきつくなる場所がありますが
手取川の扇状地の東端を歩く形なので基本的には緩やかです。


やがて鶴来市街地へと入っていきます。
鶴来は中世の金劇宮 寺家、在家が発展した門前集落で
剱の地名は金剱宮がいわれとなっています。
町の名前はこれまで三度変わっていて読み方は一緒ですが
大火があるたびに「鶴来」→「剱」→「鶴来」と改称されています。

鶴来は金沢城下の道の他にも
小松方向からの道との合流点でもありますし
立地的にも休憩にちょうど良い場所だったと思われます。
本町交差点には道路元標が残っていました。


菊姫などの有名な酒蔵。
本町交差点を過ぎると一気に古い家が目立ってきます。
昔の中心地としてはこの辺りだったのでしょう。

この手前には大きな枡形があるのですが
教科書(歴史の道調査報告書)では別ルートを示していました。

上の図では緑ルートが教科書のルートになるのですが
昭和40年代の航空写真では道が何も存在しないんですよね。


さて、鶴来の町を過ぎると
山と山が次第に狭くなり手取川沿いを進みます。
途中に煉瓦作りの取水口があったのですが
あまりの流れの豪快さにしばし眺めてしまいました。


北陸鉄道の廃駅。加賀一の宮駅跡を過ぎると
ゴールの白山ひめ神社はすぐ。
参拝して終了としました。
白山へは禅定道として続いていきます。
→白山禅定道(石川県ホームページより)
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/publish/sizen/documents/sizen21.pdf
posted by にゃおすけ at 14:47
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