2017年10月31日

熊野古道小辺路その3・三浦口→十津川温泉

静かな五百瀬集落から出発です。
宿から見える景色は秘境そのものでした。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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腰抜田。

「腰抜けた」のいわれの場所です。
北朝方から逃れた皇族が荘司に行く手を遮られたところ、
通過を認める代わりに錦旗を置いていくことになりました。

後に、家来がそのことを知って怒り
荘司の家来を水田に投げ飛ばしたところ腰を抜かしたので
そこにあった水田を腰抜田と呼ぶようになったそうです。

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山桜が美しい。
小さな吊り橋を渡ると急坂が始まります。

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急坂が始まっても序盤は人が住んでいるので
山道とはいえ広々とした中を進んでいきます。

この大きな家は廃屋でしょう。
十津川の昔ながらの建て方をしています。

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吉村家防風林。
胴まわり4〜8メートルにもなる大杉です。

熊野古道沿いは植林での若い木々が大半なわけですが
この防風林は樹齢が500年もあって存在感が圧倒的です。

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吉村家は旅籠の役割をしていたので
付近には広大な屋敷跡が広がっていました。

その一方で、あちこちで災害の爪痕を見かけます。
ここはまだ良い方で峠近くになるにつれ酷くなっていきます。

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三十丁の水。
湧き水なのでとても澄んで綺麗です。

近くには道標と丁石が置かれていました。

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視界の眼下には五百瀬の集落が広がります。

峠手前にあった崩落現場。
この状況はマズイ感じですよね。
しかも現在進行形的のように見えました。

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ここまで崩落が激しいと復旧は困難を極めるようで
峠手前では別ルートにて復旧されていました。

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このような大規模な崩落ですが
雨の多い紀伊山地では昔からあったことと思います。

しかしながら、
植林した木々が成長すると伐採することが多い現在は、
昔と比べると崩落が多くなっているのではと思います。

古道周辺は史跡保存の意味での伐採禁止とか、
そういう対策はないのでしょうか?

やがて三浦峠。

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手前の三浦口側の視界は良好でしたが十津川温泉側は不良でした。
トイレ、東屋もあって休憩には良さそうです。

下ります。
十津川温泉側にも崩落個所がありますが
それほど大きなものはなく安心して歩くことが出来ました。

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古矢倉跡。

旅籠兼茶屋が昭和初期まで営業していたのですが、
大坂の陣の折には旅人を殺しては金を盗んで
参戦したという話が残っています。

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出店跡。

この付近には尾根沿いに立派な石積みが残っています。
十津川村今西地区の人が出張で茶店を開いていて明治に廃業。

先ほどの古矢倉跡の廃業時期を見ても
この辺りは昭和初期までは往来は結構あったようです。
山奥で険しいがゆえに道路整備が遅れたこともあって
近年まで地域の生活路としての役割が大きかったということでしょう。

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尾根道からの対向の山に今西集落が見えました。

この辺りでは複雑に脇道が入り組んでいるのですが
どれがどれか熊野古道かを特定するかは悩むところで
時代によってのルート変化が多かったことと思います。

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この看板にはルート違いの指摘が書いていました。
落書きはダメですが書いた人の気持ちはわかります。

熊野古道を歩いていると、
「熊野古道ではありません」の看板を見かけることがありますが
残念なことにそこが本来の熊野古道である場所を何か所も見ています。
崩落などでの誤侵入防止の為に立てたものと思いますが
嘘の情報はちょっといただけないですね。

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矢倉観音堂。

宿で握ってもらったおむすびで昼食を取りました。
中央に観音様。他に2体(享保十年)(文化十年)。

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古い民家を見て国道と合流します。

ここから川沿いに十津川温泉へと進んでいくわけですが
古道は単純に国道沿いのルートだったわけではありません。
特に崖になってる場所では山へと迂回していました。

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そういう場所のほとんどは廃道になっています。
いずれ復活する可能性がありますがそれはまだ先のことでしょう。

串崎付近ではダイナミックな光景が広がっていました。

大きく蛇行していた川の流れを山をぶち抜いて一直線にしたもので
元々の水路は水が流れない代わりに土砂捨て場になっています。

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ゴール手前の旧道区間。
昴の里付近にあるトンネルの上に旧道が残ります。
この切通しは明治に開削されたものと思いますが
それ以前は少し登ってグルッと迂回していたと思われます。

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小辺路方面へはこの付近から川に下りていました。

その下り道には石積みが所々に残っていましたが
旧道の痕跡を確認できたのは上部のみで
下部は崩落か何かで消滅していました。

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十津川温泉でゆっくり浸かってから
15:40の最終バスで帰路につきました。

普段は車でよく通る道なのですが
バスから眺める景色はやっぱり違いますね。


  
posted by にゃおすけ at 14:46 | Comment(0) | 熊野・紀州への街道 | 更新情報をチェックする

2017年10月20日

熊野古道小辺路その2・野迫川村→三浦集落

近畿の屋根といわれる場所を進みます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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高野山駅からは急行バスで出発点へ。
このバスは1日に2本のみで予約制になっています。

本来は4/1に歩く計画を立てていたのですが
寒波の影響で雪が積もり運行できないということで
前日に運休の旨の連絡をしてきてくれました。

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今回の区間は雪が深く積もるほどの標高の高い場所です。

一番の難所は先にある伯母子峠。標高約1200m。
全般的に山岳地帯の中で交通が不便なところなので
宿の確保など綿密な歩き計画が必要な区間といえます。

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林道を進んでいきます。

かつての古道は林道建設の際に大部分が破壊されています。
街道風情は味気ないですが尾根道なので展望は良いものです。

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世界遺産登録部分がある小辺路において
破壊は登録になった今では信じられないことではありますが
そんな中でも林道脇には痕跡が残っていたりするもので
痕跡を見つける楽しみは街道歩きの醍醐味の一つです。

たとえばこういう場所。

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林道は開削して通りやすくなってるのですが
昔は左の坂道を登っていたものと思います。

このような旧道を見つける方法としては
地理院地図を参考にするのが手っ取り早くて
Googleマップとは違い古い道も点線で描かれていたりします。

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旧道の入口には道標地蔵がおられました。

「右くまの道 左さいごく道」

さいごく道とは西国三十三か所の紀三井寺(2番札所)へのもので
江戸から来て熊野詣でを終えた人は一生に一度の旅なことでもあるので
せっかくならと高野山経由で紀三井寺へとめぐった人もいたことでしょう。

古道は時代によってルート変更はつきものですが
この場所に関していえば道標地蔵さん手前の道が正しいようです。
その横にある道(一般的に案内がある道)は古い雰囲気はあるものの
林業用の道をつなげたバイパスなのかなと思いました。

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一見すると一段下の道が本道に見えるが・・・

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本道は若干荒れているが先で合流している

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大股集落が見えてきました。
九十九折の坂で一気に下っていきます。

大股は秘境といえるべき場所で
川は綺麗で心がやすらぐ雰囲気があります。

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ここは昔も今も宿屋が集まっていました。
難所を控えてのちょうど良い場所だったのでしょう。

いよいよ急登がはじまります。

しばらく味のある集落内を進んでいくのですが
地理院地図の点線とは別の場所に道があるんですよね。
かと言って、点線の場所は道の痕跡すらない状態。

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小辺路ではこういうズレた場所が非常に多く確認できます。
なぜズレているのかは単なる測量ミスも考えれるのですが
雨の災害が多い土地なので地形の変化がよくあるということなのでしょうか。

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桧峠、伯母子峠へと続きます。
中でも辛いのは桧峠までの区間です。

萱小屋跡には丸太ベンチがあったので昼飯にしました。

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桧峠近くからは残雪をたびたび見かけました。

昔の旅はというと収穫期を終えた直後から始めるのは一般的で
江戸を達した旅人が小辺路を通るのは厳冬期になるので
相当大変な道のりだったことが想像できます。

こういう利用時期だったことから
中辺路などと比べると通行量が少ないのは仕方ないところですね。

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桧峠〜伯母子峠にかけては
意外となだらかな道で気持ちよく歩けました。

護摩山、伯母子岳への分岐地点には
道標が置かれていました。

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小辺路は参詣道という顔を持つ一方、
どちらかというと地域の足である面が強かったといいます。
その点は中辺路や大辺路と大きく違うところで、
地域集落へ下る分岐をあちこちで見かけることができます。

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伯母子峠には山小屋、トイレがあります。

道標には真っすぐいけば十津川ですよ。的なことが書かれています。
大正年間のものです。

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峠から本日の宿である三浦口へと下っていきます。

大股側は伯母子岳へのアクセスで利用する人も多いのですが
こちら側は歩く人が少ないようで落ち葉が堆積している所があったり
道幅が細く所々で崩落箇所があってスリルがあります。

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仮復旧的な感じに見える大規模崩落場所。
厳冬期は凍結していたらと思うとおっかないですね。

やがて上西家跡。
旅籠の役割もあったので広々とした場所にあります。
広大な畑のジャガイモや南瓜は北海道のよりも旨かったそうです。

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上西家跡から先は明治道と古道とに分かれます。

古道といっても近年発見されて再整備を受けたもので、
平行してあった明治道が出来てからは荒廃が進んでいたそうです。
一方の明治道は古道が整備されたことでお役御免に。

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この区間の古道ですが
さすがに不明な場所が多かったようで
急坂があったりと疑問に思う場所が多数あります。

水ヶ元茶屋跡。
ここには弘法の封じ水があっていろいろな効能あったそうです。
また怖い話では目が大きく光る異様な山姥も住んでいたといいます。

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崩落場所。掘り下げて復旧しています。
ここの下部を通っていた明治道の様子も気になりますね。

少し進むと石畳が残っていました。

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右さいごくみち、左くまの道。
古老の話によると元々あった場所から移設されたもののようです。

小辺路は世界遺産に登録になった場所があることで
本来のルートじゃない場所でも一度申請してしまったルートは
なかなかいじれないという話を聞いたことがあります。

昔のルートを知るには古老、資料を調べるのが一番ですね。

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明治道との合流点。道標は明治道の方向に”かうや”の文字。明治期に移設?

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明治道と合流して三田谷橋を渡ります。
トンネルをくぐって三浦口手前の五百瀬集落にある民宿に泊まりました。

宿の人が小辺路に詳しいということでいろんな情報を聞けました。
先ほどのトンネルの場所の旧道は三田谷橋付近から山道に入って
トンネル横に出ていたものを通学で使っていたのだそうです。
やはり古老のお話は大事ですね。

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posted by にゃおすけ at 09:42 | Comment(0) | 熊野・紀州への街道 | 更新情報をチェックする