宿から見える景色は秘境そのものでした。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

腰抜田。
「腰抜けた」のいわれの場所です。
北朝方から逃れた皇族が荘司に行く手を遮られたところ、
通過を認める代わりに錦旗を置いていくことになりました。
後に、家来がそのことを知って怒り
荘司の家来を水田に投げ飛ばしたところ腰を抜かしたので
そこにあった水田を腰抜田と呼ぶようになったそうです。


山桜が美しい。
小さな吊り橋を渡ると急坂が始まります。


急坂が始まっても序盤は人が住んでいるので
山道とはいえ広々とした中を進んでいきます。
この大きな家は廃屋でしょう。
十津川の昔ながらの建て方をしています。



吉村家防風林。
胴まわり4〜8メートルにもなる大杉です。
熊野古道沿いは植林での若い木々が大半なわけですが
この防風林は樹齢が500年もあって存在感が圧倒的です。

吉村家は旅籠の役割をしていたので
付近には広大な屋敷跡が広がっていました。
その一方で、あちこちで災害の爪痕を見かけます。
ここはまだ良い方で峠近くになるにつれ酷くなっていきます。



三十丁の水。
湧き水なのでとても澄んで綺麗です。
近くには道標と丁石が置かれていました。


視界の眼下には五百瀬の集落が広がります。
峠手前にあった崩落現場。
この状況はマズイ感じですよね。
しかも現在進行形的のように見えました。


ここまで崩落が激しいと復旧は困難を極めるようで
峠手前では別ルートにて復旧されていました。


このような大規模な崩落ですが
雨の多い紀伊山地では昔からあったことと思います。
しかしながら、
植林した木々が成長すると伐採することが多い現在は、
昔と比べると崩落が多くなっているのではと思います。
古道周辺は史跡保存の意味での伐採禁止とか、
そういう対策はないのでしょうか?
やがて三浦峠。


手前の三浦口側の視界は良好でしたが十津川温泉側は不良でした。
トイレ、東屋もあって休憩には良さそうです。
下ります。
十津川温泉側にも崩落個所がありますが
それほど大きなものはなく安心して歩くことが出来ました。



古矢倉跡。
旅籠兼茶屋が昭和初期まで営業していたのですが、
大坂の陣の折には旅人を殺しては金を盗んで
参戦したという話が残っています。


出店跡。
この付近には尾根沿いに立派な石積みが残っています。
十津川村今西地区の人が出張で茶店を開いていて明治に廃業。
先ほどの古矢倉跡の廃業時期を見ても
この辺りは昭和初期までは往来は結構あったようです。
山奥で険しいがゆえに道路整備が遅れたこともあって
近年まで地域の生活路としての役割が大きかったということでしょう。

尾根道からの対向の山に今西集落が見えました。
この辺りでは複雑に脇道が入り組んでいるのですが
どれがどれか熊野古道かを特定するかは悩むところで
時代によってのルート変化が多かったことと思います。


この看板にはルート違いの指摘が書いていました。
落書きはダメですが書いた人の気持ちはわかります。
熊野古道を歩いていると、
「熊野古道ではありません」の看板を見かけることがありますが
残念なことにそこが本来の熊野古道である場所を何か所も見ています。
崩落などでの誤侵入防止の為に立てたものと思いますが
嘘の情報はちょっといただけないですね。

矢倉観音堂。
宿で握ってもらったおむすびで昼食を取りました。
中央に観音様。他に2体(享保十年)(文化十年)。


古い民家を見て国道と合流します。
ここから川沿いに十津川温泉へと進んでいくわけですが
古道は単純に国道沿いのルートだったわけではありません。
特に崖になってる場所では山へと迂回していました。



そういう場所のほとんどは廃道になっています。
いずれ復活する可能性がありますがそれはまだ先のことでしょう。
串崎付近ではダイナミックな光景が広がっていました。
大きく蛇行していた川の流れを山をぶち抜いて一直線にしたもので
元々の水路は水が流れない代わりに土砂捨て場になっています。



ゴール手前の旧道区間。
昴の里付近にあるトンネルの上に旧道が残ります。
この切通しは明治に開削されたものと思いますが
それ以前は少し登ってグルッと迂回していたと思われます。

小辺路方面へはこの付近から川に下りていました。
その下り道には石積みが所々に残っていましたが
旧道の痕跡を確認できたのは上部のみで
下部は崩落か何かで消滅していました。

十津川温泉でゆっくり浸かってから
15:40の最終バスで帰路につきました。
普段は車でよく通る道なのですが
バスから眺める景色はやっぱり違いますね。