2017年11月20日

街道という単語の関東と関西の認識の違いとか

街道という単語。
みなさんは何を想像しますか?

関西人だとほぼ全員が古い道とイメージするでしょう。
例えば、東海道や中山道のような道ですね。

でもこれが関東人だと必ずしもイコールではないようです。
その一つの理由は町中に溢れている道路標識。
例えば、ラジオの交通情報を聞いていると
関東だと時おり街道名を耳にすることがあります。

青梅街道や甲州街道、成田街道、中山道など、
関東では今も愛称として街道が生活の中に生きています。

tiba.JPG
現代の地図でも街道名が描かれている(今昔マップより)

一方、関西は古くからの街道がいくつもありますが
道路標識に〇〇街道と書かれたものは滅多に見かけません。
旧〇〇街道と書かれた看板なら脇道で見かけるという程度です。
最古の国道と知られる竹ノ内街道こそ認知度は高いですが
これも街道名ではなく国道名で呼ぶのが一般的です。

このように関西での各街道の名前は死語に近いので
関西では街道イコール古い道ということなのでしょう。

そもそも、なぜ関東では今も街道の名前が根付いているのか。
一つの答えは東京オリンピックです。

内外からの飛躍的な観光客の増加に対応して
交通の利便性向上で新たな名称を考えたというものでした。
一応、大正九年の告知で道の名前は付いてはいたのですが
一般的ではなく実質的に愛称がない状態が続いていました。

東京府告示第百六十二號
http://japan.road.jp/Law2/T9_TokyoK162.htm

kawasaki.JPG
有名な街道なら表記があった(今昔マップより)

下の東京都のリンクを見ると
明治通りや青山通りなどの名前が見えますね。
青梅街道など〇〇街道と付いた名前もあります。

通称道路名設定事業の経緯及び概要について
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000006200.pdf

もっとも江戸時代においての道の名前は
東海道のような幹線たる重要な道以外は無いに等しく、
「目的地方向へ進む道」として認識されていました。

成田道を例にあげると江戸では「成田道」ですが
成田では「江戸道」と呼ばれていました。
同じ道でも場所によって呼び方が違っていたわけです。

また、〇〇街道という呼び方は当時は稀で、
「街道」が用いられるのは一般的に明治からになります。

このことから現在の道路標識にある街道名の多くは
昔の道と多少の関連性はあるものの元々の名前ではなく
単なる愛称と考えたほうが良いのでしょう。

IMG_9542.JPG
関東では街道表記の標識を多く見かける

一方、関西はというと
大阪では明治5年の法令で名称が決められます。

大阪府 申三〇九號
http://japan.road.jp/Law2/M9_Osaka309.htm

ここでは〇〇街道と名づけられています
府道〇〇線というような感じではありません。

昭和20年代の地図を見てみると
紀州街道や奈良街道など表示があるのですが
昭和40年代になると消えてなくなっています。

nara.JPG
大阪でも昔は街道表記が多かった(今昔マップより)

大阪市内に関しては下のリンクによると
「道路名称を一般の市民の方に親しまれ、なじみやすいものとするため、
昭和45年と58年にあわせて33路線の幹線道路に愛称をつけました。」

大阪市の道路の現況
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372123.html

昭和45年というと大阪万博ですね!
東京と同じ理由で愛称が付けられたのがわかります。
ただ大阪は東京と違って〇〇街道の愛称はありません。
市内は〇〇筋や〇〇通り、郊外は国道や府道表記になっていきます。
これこそが街道の単語の認識の違いの理由といえるでしょう。

近年は街道歩きがひそかなブームですが
関西では多くの人が旧道歩きと認識するものでも
関東だと”甲州街道歩き?あー、国道20号を歩くのね!”
このように単なる街歩きをイメージする人が多いかもしれません。

これは別に間違った認識ということではなくて
その土地での街道に対する認識の違いだと思います。
関東においても旧街道沿いに住んでいる人や、
歴史が好きな人なら旧道歩きとピンとくるはずです。

以上、思ったことをづらつらと書いてみましたが
今回の話題の発端は関東の街道ウォーカーとの会話からでした。
所違えば当たり前のように思っていた認識が違うのは面白いものです。

「街道」という名前は「海道」と呼ばれることもあります。
例えば、普段何気なく使ってる東海道は「海道」表記ですね。
この表記に関して面白い文章があったのでリンクして終わりとします。

海道・街道と交通路の名称
http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_04_01.pdf


  
posted by にゃおすけ at 13:37 | Comment(2) | いろいろ考察 | 更新情報をチェックする

2017年11月15日

長距離の街道歩き計画の立て方〜長崎街道〜

長崎街道は門司付近から長崎に至る道で
距離にして約250km。昔は6〜7日要していました。

今回はいつもと趣向が違います。
これから歩く道の計画がテーマです。


1日目の大里宿→黒ア宿の行程(予定)

★まずやること。街道全体の大まかなイメージ作り。

長崎街道はどういった街道なのか。
Webを使ってサラッと調べてみます。

もちろん本を使っても構いませんが
1つの本だけでは著者の調べたルートのみになってしまい、
それが本当に正しいのか正しくないのかわかりません。
これはWebで調べる際も同じことが言えます。
要は複数の資料をもって調べることが肝心なのです。

Webはその点本当に手軽です。
街道の距離を見て自分ならどれぐらいで歩けるのか
起点はどこなのか、交通が不便なところはないか。
最初にこれぐらいはチェックしておけば良いでしょう。

★起点までのアクセスを考える。

起点をどうするか。
街道によっては複数の場所が存在している場合があります。
長崎街道も小倉の常盤橋か門司付近の大里宿とで分かれています。

諸説があるのでどちらが正しいか悩むところですが
大里宿からのスタートならば途中で常盤橋を通ることになるので
どうせなら大里宿からスタートにしておくのが賢明です。

長崎街道をWebで調べる際は以下の2つのサイトが特にオススメです。

長崎街道・お寺めぐりの友
https://hakataboy.com/avenue/NagasakiGaidou/m.html

道しるべ-自然歩道を行く
http://mitishirube.moe-nifty.com/nobuta_9999/nagasakikaidousoumatome.html

どちらもルートマップが公開されていて詳しい説明があります。
所々でルートが異なっている箇所がありますがこの時点ではスルーです。

起点へのアクセスをどうするかが
長距離の街道歩き計画をする上で最初のキーポイントです。
大阪からだと新幹線で行けば9時スタートの計画が出来上がります。

★1日目はどこまで歩く計画をするか。

起点のスタート時間を設定できたところで
次はどこまで歩くのかを考えます。

oruk氏のルートラボ
https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=494e95790ac6c82b6dbb83a7c817a4e8

上記のページは実際に歩かれた方のルートになっています。
地図の下部に高低差がありますがこれを利用して
拠点と拠点の距離を大まかに調べていきます。
(この時点ではルートの精密さは考慮にいれません)

歩ける距離は人それぞれですが
宿の場所や交通事情などを考慮に入れて
2つ3つ終了地点の候補を考えておくと良いかと思います。

★1日目と2日目、3日目の兼ね合いを考慮する。

今回は大里宿から黒ア宿までを1日目としてみました。
距離は23キロほどで9時に出発だと17時には十分終われます。
頑張れば次の宿場の木屋瀬宿まで行けなくもないですが
秋冬に歩くことも考えて暗くなることを想定しています。

もしこれが5月の夏至のころだと19時までは明るいですし
まだまだ歩ける余力があるならば勿体ない行程です。

ここで重要なのが2日目、3日目との兼ね合いです。

長距離歩きの計画をする際は
1回の行程を2泊3日で考えることが多いのですが
3日目の離脱をどこにするか考える必要があります。


2日目の黒ア宿→飯塚宿の行程(予定)

2日目は上記のマップのようにしました。
距離にして32km。黒アに宿を取れば朝早くから行動が可能です。

3日目は下記のマップのようにしました。
距離は35km。飯塚に宿を取って朝早く行動しても終了は17時前後。
時間の算出は大まかに1km20分程度で計算しています。

帰りの新幹線を考えるとキツキツの行程なので
離脱は原田宿手前の西鉄筑紫駅でも出来るようにしています。

もし、1日目に黒ア宿終了でなく次の木屋瀬宿まで歩いていたとしたら
2日目は桂川あたりで終了できるのでグーンと行程が楽になります。

これが『1日目と2日目、3日目の兼ね合い』という意味です。
宿、交通、季節、自分の体力と相談しながら行程を考えていきます。


3日目の飯塚宿→原田宿の行程(予定)

★4日目以降の行程はどうするの?

一気に歩く人は別として
一旦家に帰って別の日に続きを歩く人の場合は
1回目が終わってから次の行程を考えるのがベストに思います。

1回目を問題なくこなせた場合はいいのですが
列車の遅れや何かのアクシデントがあった場合は
再度行程を組みなおすという手間が出てきてします。

また、2回目はいつ歩くかというのも問題ですね。
次に歩く時期が大体決まっていたらいいのですが
先述したように季節によって歩ける時間帯が違ってくるので
場合によっては行程の大幅変更も考えないといけません。

このような手間があるので次がよっぽど山奥でない限りは
帰ってから計画を立てるようにしています。

★ここに来てようやくルート精査の開始!

1回目はどこまで歩きたいかが決まったら
ルートの精査をした上で自分が歩くルートマップを作成します。

地理院地図
http://maps.gsi.go.jp/#5/35.362222/138.731389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

ルートマップ作成は上記の地理院地図が便利です。
まずは何も考えずに先人のルートをそのままマッピングします。
(oruk氏のルート)

マッピングしたら他の人のルートと比べ相違点がないか確認修正。

不自然な場所や疑問が残る場所は空中写真や古絵図、伊能図などで確認修正。
(今回は直方の城下町、飯塚宿、小倉城下が有用でした)

書物で確認修正。
(歴史の道調査報告書やネット上にある文書など)

ルート確定。

所要予定時間の確定。

★歩きやすくするための作業。

このままでは歩く時にデータが見づらい状態なので
ウォーキングアプリなどに転送しておくと良いでしょう。

地理院地図で作ったデータはKMLファイルとして書き出せ、
これをルートラボに入れると高低差もわかるマップが出来ます。

ルートラボ
https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/

あと、大事なのはピン立てです。
各地の見どころをスマホ上に印を付けておくと
実際に歩く際に見落としを減らすことができます。
これはこれで手間がかかる作業になってしまいますが
手間をかけた分、歩く際の充実感は半端ないでしょう。

一連の流れは以前の記事で詳しく説明しています。

『街道歩きのススメ』 最新版ルート作成術。
http://borabora.seesaa.net/article/417391202.html

★当日を迎えるのみ!

歩き旅となると天気が心配ですが
週間天気予報で晴れとなっていたとしても
当日は雨ってことが結構あったりするものなので
現地の天気予報は2日前よりチェック入れるようにして
週間天気予報は基本的に見ないようにしています。
そのほうが要らぬ心配をせずにすみますし。

準備も前日だとドタバタしてしまうこと多いので
2日前あたりからすることが多いですね。
服装も天気予報を参考に決めちゃいます。

以上、駆け足で書いてきましたが
長崎街道歩きは随分と先の話になりますが
来年の10月には行きたいところです!
3〜4回に分けて楽しんできます。

enjoy!長崎街道!


  
posted by にゃおすけ at 08:33 | Comment(4) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする

2017年11月08日

『Ingress』歴史から見るMD東大阪

今回も「MD東大阪」に関する話題。

ミッションデーと呼ばれるイベントは
各地の見どころをめぐる町歩き的なものですが
MD東大阪は他と比べると広域に散らばっていたと思います。

なぜ広域に散らばってしまっていたのか
歴史を調べていくと面白いものが見えてきます。



まず、東大阪の旧国名である『河内』という地名。
名は体を表すというコトワザがありますが

”河と河とにはさまれた河の内の土地=河内”

東大阪の歴史の一番のキーポイントは河なのです。

ミッションの中で旧大和川の説明が多かったと思います。
現在の大和川は堺市を通って大阪湾に流れるルートですが
江戸時代中期までは東大阪地域を流れていました。

旧大和川は厳密には「玉櫛川、長瀬川」と呼ばれていて
これらは付替え後も用水路の役割で縮小して残るのですが
元々の川幅だった場所は新田として生まれ変わっていきます。

sinnden.jpg
旧河川の跡がクッキリと残る。地理院地図より。

具体的な場所は吉田、花園、小阪、永和、長瀬付近。
あと鴻池もそうですね。駅名にも鴻池新田で残っています。

もちろん旧大和川付け替え前も集落はあったのですが
幾度も水害に悩まされて住むには大変な場所でした。

現在もこれらの土地には
水害に関連したお地蔵様や神社を見かけますし
川沿いには堤防の痕跡を目にすることができます。

新しいビットマップ イメージ.jpg
明治時代のラグビー場周辺。今昔マップより。

変わって2つ目のキーポイントは街道です。

山沿いには京都と高野山を結ぶ『東高野街道』
東西方向に大阪と奈良を最短距離で結ぶ『暗越奈良街道』


これら2つの街道は全国的にも有名で
江戸時代においてイメージ的に高速道路のようなものです。
PAやSA的なものは街道では「宿場」「立場」にあたります。

現在の町に当てはめてみると、
布施(深江)、菱江(若江岩田北部)、松原(東花園北部)、瓢箪山。
これらの町は街道を行き交う人で発展していきました。

地名を見ると”江”や”原”と付いてます。
古代は「河内湖、河内湾」という広大な沼地があったのですが
ようするに大昔の東大阪の大部分は水の中でした。

それが長い年月をかけて旧大和川の堆積物で埋まっていきます。

『暗越奈良街道』はそういう中を突っ切って作られます。
旧大和川付替え前は渡し舟を何度も乗換する必要があったそうです。
こういう場所には必然と「宿場」「立場」が発生していきます。
そして名物お菓子や名所なども出来ていくわけです。

暗越奈良街道は暗峠ばかりクローズアップされてますが
こういった旧宿場、旧立場を巡るのも面白くてオススメです。

R0011010.jpg
暗峠へ続く街道風情

対して、瓢箪山は少し事情が違います。

こちらは山沿いの『東高野街道』に位置しています。
そもそも、なぜ山沿いを進む必要があったのでしょうか。

それは先ほども言った「河内湖、河内湾」が関係しています。

街道は多くの人が行き交います。
湿地帯を通さず地盤が安定してる場所を通すのが基本です。

瓢箪山稲荷神社の中には古墳があったと思いますが
古い時代は山沿いにしか住める場所がなかったといいます。

東大阪の著名な三社。
「石切神社」「枚岡神社」「瓢箪山稲荷神社」
これらが山沿いにあるのもこういった理由からなのでしょう。

IMG_0226.jpg
江戸時代の枚岡、暗峠周辺。河内国細見図より。

以上、駆け足で歴史から東大阪を紹介してみました。

近世では成り立ちが違う各地域の集落を合併に合併を重ね、
布施市、河内市、枚岡市と最後の大合併をして
現在は大阪府で3番目に大きな市となっています。

成り立ちが違うからこそ各地域で見どころが違う。
これがミッションが散らばっている理由かもしれません。

あと個人的なオススメポイントでは

・アーケードの残る商店街が非常に多い
・瓢箪山の国道商店街
・石切神社のお百度参り

はい、食べ歩きが中心ですw

MD東大阪は11/5で終わりましたがミッションは残ります。
また再訪される際にでも参考にして頂けると幸いです。

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posted by にゃおすけ at 11:09 | Comment(2) | ゲーム(Ingress・ポケモン) | 更新情報をチェックする