2017年12月13日

熊野古道小辺路その4・十津川温泉→熊野本宮大社

小辺路のハイライトを歩きます。

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出発点の十津川温泉へは大阪から車を走らせました。
十津川の国道は秘境感あふれる雰囲気が好きなのですが
近年の改良で高速道路のように変貌していて驚きました。

大阪から約3時間。近くなったものです。
今回は前回見落としていた大津越えから始めました。

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串崎付近からの山越えです。

ピークには大師堂が建っていて
四国八十八か所を模した石仏群がおられます。
登り口は少しわかりにくい場所になっていますが
道は整備されているので日頃からお参りに行く人が多いようです。

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降り口もまた少しわかりづらいですが
お堂近くの十字路から一気に地平へと下っていきます。
下りきると深い峡谷で現在は鉄橋が架かっていますが
昔は上流側に吊り橋が架かっていたのだそうです。

この険しさが大津越えだった理由かもしれませんね。

国道を歩いて宿泊施設の昴の里のトンネルを抜けると
前回歩いた旧道と合流します。

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柳本橋を渡ります。

幅が狭い小柄な吊り橋でかなり揺れるものですが
十津川ではよく見かけるタイプです。

川の上を吹く風はヒンヤリ。
夏の暑さを忘れさせてくれました。

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川を渡ると高度を上げていきます。
山道は木陰に覆われているので夏でも快適です。
とはいえ、標高1000m近く上るわけですからハードなものです。

視界が広がってくると有名な果無集落に入ります。

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果無の名前の謂れですが説はいくつかあって

「谷幽かにして嶺遠し、因りて無果という」

行けども行けども果てなく山道が続いているという説や、
怪物ハテが年末20日過ぎになると現れて旅人を喰ったことから、
峠越えをする者がなくなった(ナシ)という説。

この2つの説が有力で地元では後者を推してるみたいです。
でも、小辺路は農業が休みの冬に歩く人が多かったという話なので
峠越えをする者がいなくなったという説には少々疑問が残ります。

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高地に開かれた集落は良いですね。
民家の軒先は開放されて水舟もあって実に長閑。

お盆真っ盛りの中の少し早い秋。
綺麗なコスモスと秋のうろこ雲が空に映えてました。

余談ですが下の写真と同じ構図でiPhoneでも撮ったのですが
この日の夕方のテレビ番組に採用され流されました。
写真は何気に撮ったものでも他の人の目から見ると
おぉ!と思われることがあるのは面白いものですね。

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世界遺産の石碑前。
小辺路といえばこの場所です。

パンフレット等の写真を見ると物凄い山奥に見えるのですが
石碑の後ろには実は車道があってバス停まであります。
歩きじゃないと来れないと想像していたので意外でした。

この場所では時間帯や季節が違う写真をよく見かけます。
冬は雪が積もり春先は草がない景色を楽しめるようですが
今回歩いた夏の季節は雑草がよく伸びてしまっているので
他の季節よりかは情緒は少ないかもしれません。

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集落を過ぎるとグングン勾配を稼いでいきます。
標高が高いので紫陽花が綺麗に咲いていました。

道標には「くまの」の文字が見えますね。

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道端には西国三十三か所の石仏が数10mおきに置かれています。

この石仏は古いものではなくて
大正11年に地元桑畑の人たちによって設置されたものです。
1〜33番まであるのですが31番以降は小辺路とは別のルート上にあって
おそらく設置者の集落へ繋がっているのかなと思います。

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天水田の跡。
雨水のみを使用した田んぼで雨の多い熊野地方ならではです。

この天水田の持ち主だったのが先にある山口茶屋(跡)。
石積みと立派な防風林がイイ感じに残っています。

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所々でこういう分岐の箇所がありますが、
本来は右の道なのですが廃れて左側に新道が築かれているようです。
街道マップでは当然のように新道で指定されてることが多いので
昔に忠実に歩きたい人にとっては注意が必要ですね。

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掘割状になった道を進むと観音堂です。

観音堂には広い平場と水場があるので
テントを張って休む人が結構多いと聞きます。

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見晴らし最高!

果無峠。標高は1000mほど。
涼しく気持ちの良い場所です。

峠には常夜灯?の残骸がおかれています。

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あとは一気に下るのみ。
標高が高いのでセミの声が聞こえません。

本宮付近を遠望。
やがて旧国道168号に合流します。

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ここからは熊野川に沿ってしばらく歩きます。
山の際なので日影を歩くことが出来ました。

この日の熊野川の水量は少な目。
濁ってるのは先般の台風の影響なのでしょう。

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道の駅を過ぎるとゴールまで後少し。
三軒茶屋で中辺路と合流となります。

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左、きみい寺。右、かうや。

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結局この日は大斎原まで歩いて終わりとしました。
大斎原は昔の熊野本宮大社の社地となっていた場所。
数ある全ての熊野古道のゴールの場所でもあります。

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さて、小辺路の感想ですが
歩く前は行程的に相当ハードと覚悟してたのですが
いざ歩いてみるとその心配は大したものではなくて
道標や地域のサポートが結構あって安心して歩けました。
日頃から山歩きをする人なら問題はないレベルでしょう。

熊野古道=信仰の道とイメージする人が多いと思いますが
小辺路に関しては生活道路としての役割が大きかったので
中辺路と比べると信仰の道を感じるものは少なかったように思います。

また、道が崩壊していたりルート変更の場所も多いように思いました。
これは山奥の道であるがゆえ致し方ないところではあるのですが
昔の道筋で歩きたい人にとっては消化不良の部分があるかもしれません。

しかしながら、ハイキングと割り切って歩くとすれば最高な道です。
そもそも平安時代の道の痕跡なんてほとんど残ってないわけですし、
気楽な気持ちで楽しむというのもアリかもしれません。


  
posted by にゃおすけ at 16:02 | Comment(0) | 熊野・紀州への街道 | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

【街道シンポジウム】悠久の歴史を持つ忍坂道

街道シンポジウムの一環で歩いてきました。
奈良の桜井から宇陀城下町を結ぶ「忍坂道」は
古くからの歴史があり古事記や日本書紀にも登場する古道です。

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桜井は古い家並みが残っています。
堺から伸びる竹ノ内街道の延長上にある横大路の宿場町。
横大路は平成29年度「日本遺産」に認定されましたね。

忍坂道もそれにも増して魅力ある街道で
近世においては伊勢参りのルートでもあって
道中では常夜灯などの遺構を見ることができます。

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桜井町の道路元標。
紅葉名所の談山神社へも続く多武峰道との分岐点にあります。

街道名が書いた標識は道中で所々で見かけますが
半坂峠より西側に集中しているようです。
ようするに峠で自治体が変わるからなのですが
自治体によっての街道への認識の違いがわかります。

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桜井の東端は枡形になっています。
その角には大きな銀杏が美しい小さな神社があるのですが
宿場の出入り口には神様を祀ってあることが多いですね。

周辺には関西では珍しい庚申塔と双体道祖伸もありました。

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「磯城邑傳稱地道」と書かれた指差し道標。
紀元2600年を記念とする道標は道中で何度も見かけます。

宇陀ヶ辻は横大路と忍坂街道との追分にあたります。

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「舒明天皇御陵道、従是、南へ八丁」「明治廿七年五月」
忍坂地区に天皇陵がありその案内道標です。

奈良を歩いていていつも思うのは古墳の多さ。
歴史のある場所を歩いていることを実感します。

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「忍阪」と書かれた交差点標識。

「坂」ではなく「阪」になっているのは
大阪が大坂と多用されていたのと同じニュアンスなのでしょう。

「忍坂」の読み方は「おっさか」になります。
由来を調べると古くは「押坂」とも呼ばれていて
刑部省(司法全般)を意味する刑部が関連するという説。
もう一つは忍坂大中姫が住んでいたという説があります。

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「忍坂道」と書かれた道標。昭和15年ものです。

近世は松山街道と呼ばれることもあったようですが
忍坂道という名称のほうが古くからのものです。

歴史的に古い道なので文化庁の「大和の古道紀行」では
あの有名な「山の辺の道」と共に選定されています。

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国道は山を削って拡幅されているおかげで
右横に旧道がそのまま残ってします。

昔の山肌の一部がそのまま残っているのは貴重ですね。

国道も忍坂道と同様に大宇陀へと続いているのですが
半坂峠ではなくて女寄峠(明治21年改修)を経由しています。

改修以前は半坂峠がメインルートで
その険しさから男坂と称されることがありました。
また男坂の名は周辺の地名である「忍坂」から
「オシサカ」→「オサカ」と転じたという説もあります。

一方、女坂はというと女寄峠と思いきや
女坂と書いた石碑がある大峠(針道峠)になるようで
古代の戦いにおいて女軍を配置した場所なのだそうです。
(半坂峠には男軍を配置から男坂という説もあります)

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分岐点(A)

さて、忍坂道の新旧2つの半坂峠と女寄峠ですが
桜井から来た場合の分岐点は一体どこだったのかが
今回一番悩んだポイントでした。

粟原集落周辺で分岐していたのは確定的なのですが
候補地点は2つあって1つは東海自然歩道との分岐点(A)、
もう1つは「男坂傳稱地道」の道標が立つ分岐点(B)。
どちらも分岐点から伸びる道は明治の地図に記載があります。

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分岐点(B)

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道標が立つ分岐点(B)には明治時代は学校がありました。
仮に道標の年代が江戸時代のものなら悩む必要はないのですが
昭和15年のものなので非常に微妙なものです。

ここで分岐すると粟原寺跡付近に粟原集落があるのですが
その集落と学校を結ぶ近道として新たに作られたとも考えられます。

ただ、周囲の川の流れや地形を勘案すると
(B)の道のほうが信憑性が高いのかなと思います。

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学校跡

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分岐点(B)にある道標

ちなみに粟原寺跡付近で東海自然歩道ルート(A)と再び合流します。
この合流点にも「男坂傳稱地道」の道標があるんですよね。

道標の設置は道を迷わないようにするためと思いますが
何か目的があって設置したことは間違いないことで
たとえば(A)ルートには入って欲しくないなど
迷ったらいけない何かがあったのかもしれませんね。

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周辺の地名が書かれた古い地図が掲げられてありました。
よく見るとカタカナで書かれた地名が多く見られます。
本来は漢字表記での地名だとは思うのですが
皆が読めるようにしているということなのでしょう。

それにしても、小さな地名が多く書かれています。
一体地元の人でもどれぐらいの人がご存知でしょうか。
こういう地図は年を重ねる毎に貴重になっていきますね。

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山道に入る手前に太神宮常夜燈。
これは伊勢神宮関連のものです。

その横にある自然石の道標は古いものです。
「うだ道」の文字が見えます。

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獣除けのゲートを越えると最初は舗装路であった道は
次第にコンクリ道、土道へと変わっていきます。

所々で先般の台風被害の影響から
倒木や土砂崩落などの被害がありました。

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石を割った切通し。
小さなものですが立派なものです。

下の屋根が架かっている大きな石は
ただの石と思いきや・・・

側面に石仏が彫られていました。

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峠手前は若干急ですが
登山道と比べると大したものではありません。

半坂峠には常夜灯と広い平場があります。
おそらくこの平場には茶屋があったと思われます。
周辺に瓦や茶わんの破片が散乱していました。

忍坂道は片峠なので少し下るだけで集落が見えてきます。

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大宇陀側は緩やかですが若干荒れている様子。
夏場は藪になっているかもしれませんね。

再び少し上ると「小峠」。
半坂峠を大峠として対をなしている峠なのでしょう。

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山の中ながらも歩きやすい道が続きます。

それもそのはず昭和20年代に改修を受けています。
早い年代での改修なので昔はよっぽど酷かったのでしょう。

道を歩いていると「道路改修碑」を時おり見かけますが
こういうのは必ずチェックしておきたいものです。

旧道は碑に書かれた年代を境に変わっている場合があります。
逆にいうとこの年代以前の地図を見れば旧道がわかるので
帰ってからの復習に非常に役立つことがあります。

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芝生集落。古絵図にも描かれている集落です。
この辺りから道が複雑な様相になっていきますが
明治の地図を見れば街道はどこだったかの推測は容易です。

宇陀松山城が見えてきました。
その奥には雪が積もった高見山も見えます。

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城下が近くなっての旧道風情。

この付近は川沿いの旧国道が旧街道と思われがちですが
古絵図を見る限りこのルートが正しいようです。

その証拠に嘉永年間の立派な道標があり
「右 はせ 者い原 左 み王 さ久らい」と書かれています。

ただルートは時代によって変わるものです。
城下の町中を突っ切っていた頃もあったようなので
ルートの変更はちょくちょくあったように思います。

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この橋の先が宇陀松山の城下町。

ここには西門が残っていて枡形もあります。
忍坂道としてはここをゴールとしました。

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脇にあった道路元標は神戸村のもの。
大宇陀町は松山町など周辺の集落と合併して生まれています。

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宇陀松山といえば薬草園があったりと薬が有名ですね。
吉野葛や宇陀紙の集散地としての商家町の側面もあります。

城下では切妻・桟瓦葺・平入の伝統的な建物が連なっています。

忍坂道は奈良の数ある歴史街道の中ではマイナーですが
沿道には古墳や伊勢参りの遺構、古い町並みがあったりと
短いながらもバラエティーに飛んだ良い街道でした。
ちょっとしたハイキングにもオススメしたい道です。

当日の様子のtwitterまとめはこちら。
https://togetter.com/li/1177874

動画・1分で分かる忍坂街道 -音声あり-
http://pic.twitter.com/AmpNi8QE8e 


 
  
posted by にゃおすけ at 11:56 | Comment(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする