幕府道中奉行が管轄だったという共通点があります。


スタートは水戸街道との追分である「新宿」です。
宿場の中央部には見事な枡形が残っています。
成田街道の元々の由来は「佐倉道」です。
江戸と佐倉城下を結ぶ参勤交代路の役割が大きかった道で、
江戸中期になって成田山への参詣が活発になっていくと
「成田道」とも呼ばれるようになっていきます。

中川と平行する旧街道らしい道筋を進みます。
この辺りの情景は一見すると住宅街そのものですが
街道ウォーカー目線で見ていけば名残りは見つかるもので
地蔵堂の中には元禄期の庚申塔型の道標がありました。



高砂駅近くになると賑やかな雰囲気になっていきます。
この桜並木は江戸川堤防まで続く立派なもので
「佐倉道」に因んで「親水さくらかいどう」と呼ばれています。
横を流れる水路は明治期からの農業用を転用したものだそうです。


江戸川の堤防は大規模に改修されていますが
改修以前の道も今とほぼ同じ位置に道筋があったようです。
かねてから街道を調べる際は古地図を利用しているのですが
関東に関しては迅速地図という明治初期の地図が公開されています。
これをスマホに表示してGPSで連動させてみると
現地にいながらにして昔の情景がわかるので有り難いものです。
関西でも今昔マップを用いる手法があるのですが
迅速地図ほど古い時代でないのは少し惜しいですね。



旧道風情が残る江戸川駅周辺。
ここには日本橋から来る「元佐倉道」との追分があります。
元佐倉道とは元禄期以前の主要ルートでした。


重要な場所なので大きな道標も立っています。
「右せんじゅ岩附志おんじ道」
せんじゅとは千住宿のことですね。

正面には江戸川の土手が見えます。
この周辺に舟渡場と関所がありました。
川幅自体は迅速地図で見る限りは
昔も今も変わらない広さのようです。


対岸に市川の集落が見えます。
それほど広くない川幅なのですが
当時は江戸防衛のため橋が架けれられませんでした。
関所は「小岩・市川関所」と呼ばれていて
メインは小岩側で市川側は緊急時のみ対応するといった
2か所で1つの役割がある関所だったそうです。


市川周辺では片側2車線の国道を進みます。
この先に立っていた道標の位置を考えると
向かって右側を拡幅しているように見えます。

「青面金剛道標」
西、市川八丁 江戸両国三り十丁。東、八わた 16丁 中川一里。
このような道標が結構残っていました。


葛飾八幡宮の門前町の本八幡駅周辺。
幕府の道中奉行管轄の区間はここで終わりです。
葛飾八幡宮は下総国の総鎮守でした。
平安時代に京都の岩清水八幡宮を勧請してきています。



社殿の横にある巨木は「千本公孫樹」。
根廻り10mで江戸名所図会にも描かれたほどのものです。


参道入口にあるのが「不知八幡森」
中に入ったら出ることが出来ないという話があります。
成田街道はここまで比較的平坦な道が続いてきましたが
小さなアップダウンが少しずつ増えていきます。


二子浦の池。
この付近には溜池が多く江戸名所図会にも描かれています。
”浦”という名前がつくように昔は海に面した場所でした。

やがて船橋宿へと入ります。



船橋の由来は「川に架かった船の橋」。
中心部を流れる海老川に架かる橋がそれで
古くは船を横に並べただけの簡易的な橋だったそうです。
船橋宿は宿場の入口に西向き地蔵があり、
昔ながらの名物「ウナギ」の稲荷屋さんがあったりと
今は大きな町へと変貌した船橋ではあるのですが
宿場の雰囲気は結構残っていました。


宿場の出口に船橋大神宮。
名前からわかるようにお伊勢さん系です。
鳥居前に道路元標が置かれていました。



成田山道道標。
これは明治のもので形が特長的です。
この近くには先代のものも残されていました。
この辺りからよく見かけるのが「成田道」の道標です。
距離的に江戸から成田まで往復で3〜4泊の手軽な旅だったので
幕末には年間200万もの人が参詣に訪れていたそうです。
道標は江戸中期からのものが多いですが
多くの人が目にしたであろうこれらの道標を
今も変わらない姿で見れるのは嬉しいですね。


津田沼市街地をかすめるように街道は成田方面へ。
習志野と呼ばれる地域からは景色が長閑になってきます。
薬円台の地名は徳川吉宗の命によって薬草園が造られたことから。
この付近には「小金牧」という幕府の御料牧場もありました。
次回は成田山へ向かいます。