2018年03月22日

『街道歩きのススメ』信憑性のある資料とは

今回は街道を調べる際の資料についてです。




ここでいう「歴史の道調査報告書」という本は
学術的な資料としてトップクラスの信憑性があるもので
街道ウォーカーの中では敬意をこめて教科書と呼ぶ人がいるほどです。

ただ、その信憑性は街道によって違っています。

実作業は各県の教育委員会が行っていることから、
県によって熱意の差や精度の差が否めません。

ルートマップが付属しているものもありますが
地図が小さく見づらかったり、大雑把だったりして
古地図と見比べてみると「あれ?」と思うことがあります。

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とはいえ、専門家が調べあげた資料なので
一級の価値であることは否定できません。
特に誰も歩かないようなマイナー街道においては
他に資料がない場合が多いので唯一無二の存在です。

信憑性の価値としては別格の「S」。

ただし、入手には大変な苦労を伴います。
大抵は大きな図書館や資料館などにあるのですが
資料によっては現地にしか在庫がない場合が多く
入手の困難さも「S」なのは残念なところです。
資料性の価値がある「町史」などの類も同様ですね。

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次に自治体が発行している街道マップ。
これも精度の差が自治体によって随分違います。

宇都宮国道事務所「日光街道御徒マップ」
http://www.ktr.mlit.go.jp/utunomiya/utunomiya_nikkomap001.html

和歌山県観光連盟「街道マップ|高野巡り・熊野古道」
https://www.wakayama-kanko.or.jp/walk/index.html

基本的に自治体制作のマップは観光案内が豊富です。
旧道に拘らない街道ウォーカーなら満足のいく内容と思います。

上に例をあげた2つのマップですが
どちらも消滅した区間まで書かれてある力作です。
パッと見た感じ信憑性は似たような感じに見えます。

ところが大きな違いがあります。

自治体のマップは万人の目に触れやすい資料なので
数多くの人が手に取って歩くことが想定されています。

たとえば廃道になっていて歩けないような場所は
別のルートが迂回路として街道の指定となっていたりと
安全を優先してルート選定されていることが多いのです。

ルートを見て明らかにおかしな場所はないか?
あまりにも不自然な道筋が多かったりするならば
別途、古地図などを用いて検討が必要かもしれません。

熊野古道マップはトンネルを街道として指定していたりと
明らかに迂回路重視であることがわかります。

一方、日光街道マップでは廃道の箇所は点線表示で残して
あえて迂回路を書いていない点が凄く好感が持てます。

このことから熊野古道マップは別途検討が必要なので「C」。
日光街道マップは「A」という評価になると思います。

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次に古地図について。

近頃はスタ大が提供するマップ今昔マップ
一番手っ取り早く見れるので大変ありがたいのですが
明治中頃〜昭和初期の地図であることを忘れてはいけません。

明治時代だけでも45年もの長き時間が流れてます。
道筋が大なり小なり変化していると考えるほうが自然で
どの道が江戸時代の道かという見極めが必要です。

江戸時代に描かれた地図、例えば国絵図などは
宿場の位置や川と街道との関係など大まかにはわかりますが
測量技術が現代のように正確でないのが難点です。

その点、測量技術が発達する明治初期の地図のほうが
わかりやすく見やすいので信憑性が高い場合があります。

とはいえ、大まかでも知れることは価値があることです。
天保図や元禄図など時代ごとに製作されているので
各年代のものを見比べて検討してみると信憑性があがります。
併せて測量に定評がある伊能図も確認してみると効果的でしょう。

有名な五街道分間延絵図は
五街道とそれに準じた街道のものに限られますが
当時の様子が手に取るようにわかるという代物です。
デフォルメして描かれてる点を除けば一級品ですね。

ということで以下のように評価してみました。

・迅速地図「A」
明治初期の段階で軍部が作成した地図。
関東地方のものはネットでアクセスすることができます。

・地理院地図明治初期(旧版地図)「A」
お取り寄せする価値があると思います。
取り寄せ方法はこちらのブログが詳しいです。

・今昔マップ、スタ大地図「B」
年代が新しいことで評価が下がってしまいます。

・江戸期の国絵図、伊能図「B」
・五街道分間延絵図「A」
江戸時代の資料は多少精度に難があっても貴重です。

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次に個人のサイトや街道本について。

街道を扱っているものが数多くありますが
それぞれ作者の趣旨が違っていたりするので
どれが信憑性があるかというと一概には言えません。

熱心に調べあげたルートマップが載せてあっても
それらはどんな資料を用いて作られたものかを考えると
鵜呑みにしてしまうのは少々危険な気がします。

それでも先人が歩いた記録はとても参考になります。
先ほどあげた古地図や他の資料なども併せて検討してみると
より昔に忠実なルートが見えてくるのではと思います。

また当サイトに関して言えることですが
街道歩きの初期の記事と最近の記事では信憑性が全然違います。

街道ウォーカーは歩くことによって
街道スキルがどんどんあがっていくものです。
初期の記事は単なる旅行記といった感じでしたが
最近では結構な資料を紐解いて検証を重ねて書いています。

そういう意味で最近の記事の信憑性を「A」とするならば
昔の記事は「C」という評価になってしまいます。

さいごに。

「一体、どの資料を信用すればいいのだ!」
これは街道を調べる人にとって永遠の悩みでしょう。

タイムスリップが出来れば答えがでますが無理な話で
先人が作った資料を元に想像するほかありません。

何の資料が信憑性があるかないかは
最終的には各個人の判断になっていきますが
自ら調べて街道を歩く楽しさ=「街道力」を付けていくと
今より一層ますます街道歩きが楽しめるかもしれません。

以上
enjoy!街道歩き


  
 
posted by にゃおすけ at 15:15 | Comment(0) | 街道歩きテクニック | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

長尾街道その1・堺→国分

長尾街道は古くは難波京・住吉津と当時の京を結ぶ重要路で、
近世は遠くは伊勢へも通じることから産業の流通の他に
道明寺や葛井寺への参詣道としての役割もありました。

明治になると名称が長尾道→長尾街道と定義されていきますが
今も古代の直線道路の名残があるのは大きな魅力です。



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紀州街道との分岐点の花田口よりスタートします。

堺市街地は空襲で焼け野原になったので
古い建物はというと殆ど残っていません。
寺院の建物もコンクリ造りのものが多いですね。

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そういう中でも
上の写真のような街道の石柱は嬉しいものです。
大阪府では長尾街道に限らず主だった街道に
案内標識の設置が進められています。

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ゆるやかな坂道は「三国の坂」の名残り。

三国の名前は河内、摂津、和泉の境からきていて
「堺」の名前もこれに由来しています。

坂の上部にあたる場所にあるのが方違神社です。

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社地は三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地として
方位、地相、家相などの方災除けで信仰を集めていました。

この様子は和泉名所図会にも描かれています。
大仙陵とは一般的に仁徳天皇陵と呼ばれている古墳ですね。

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JR堺市駅前の踏切を越えると商店街があります。
その入口には「長尾街道」の文字。

早朝はひっそりとしてましたが
昼ははまた違った光景なのでしょうか。

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街道は国分まで基本的に直線なのですが
上の写真のように若干ウネウネ箇所が多いです。

もっとも長尾街道の前身である「大津道」は
他の古代官道と同様に本当の意味での直線になっていました。
しかも幅は10〜12mあったというから驚きです。
今でいう4車線の国道と同じ大きさというわけですね。

こうした古代官道は時代を経ると往時の姿は失われ、
次第に土地利用の変化や地形に合わせた改良によって
多少面影は残るものの近代の街道の姿になっていきます。

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堺の「丁目」表記は「丁」です。

この表記に関しては法律で決まっているものではないので
どういう風に付けるかは町ごとになんでも良いわけですが
堺では江戸初期の区割りに由来しているそうです。

この「丁」は〇〇町の「町」と同格の意味になるのだとか。

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クスノキが立派な愛染院前。
この辺りまで来ると街道風情が出てきます。

本堂は江戸時代前期のもの。
綺麗なトイレがあったのでお借りしました。

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一見、普通に見えるお地蔵様ですが
赤い布をめくると道標になっています。

「ひだりハふじゐ寺 はせならみち」

”はせ”とは長谷寺のことですね。

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下の指先道標は明治以降に多いタイプです。
道標も時代時代によっての流行りがありますね。

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遠見地蔵。
昔はここから堺の海を見えたそうです。

西除川の西側の堤防上で下高野街道と交差します。
この付近は古代の大津道の駅家の跡でもあって
施設の名残りの一つに「惣井戸」が保存されています。

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西除川は狭山池から流れる河川です。
大和川付替え以前は淀川(大川)に直接流れていました。

この西除川は河川が少ない和泉地域では貴重な存在で
流域から離れた場所には数多くの溜池が作られました。

近年は埋め立てされたものが多いですが
下の写真の今池も往時の半分の大きさになっています。

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河内松原が近くなってきました。
松原の名前は反正天皇の宮殿跡の「松生いし丹比の松原」からで
長尾街道沿いにも近世まで多くの松が植わっていたそうです。

下の大きな道標には長尾街道と書かれていますが
「街道」と書かれた道標は明治以降のものが一般的です。

「ちちかみ橋」とは乳児がお乳を飲んで寝ていたら
悪夢で驚いて乳首を噛み切って母親が死んだというお話です。

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昔の絵図に「ちちかみ橋」があることがわかります。
また街道に沿って小さな川も描かれています。

川は現在は暗渠化されてはいるものの健在で
暗渠の上にはモニュメントが置かれています。
堰があった場所には分量石も保存されています。

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阿保(あお)交差点。
この左手に阿保(あおん)茶屋が3軒あったそうで
中高野街道との交点ということもあって賑わっていました。

阿保の由来は奈良時代の阿保親王からきています。
下の写真の親王池の名前もそこからですね。

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東除川を渡ります。
これも狭山池を源とする河川です。

狭い道ながらも比較的交通量が多いので注意して進みます。

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「右 いせ 道明寺 葛井寺」横には「村内安全」の文字。
元は常夜灯だったと思われる江戸後期の道標です。

長尾街道は古市街道(平野-古市)と交差しますが
上の道標の他にもう一つ古いものが立っています。

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「かうや」「ふじい寺」の文字が見えます。

元禄年間のものですが元々の場所から移設されています。
もっとも車が衝突して破損する可能性のことを考えると
危なげない場所に移設もありかもしれません。

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説明板には田尻峠の文字が見えますが
江戸時代においては存在はするものの脇道的なもので
関屋峠が古くからのメインルートになっていました。
その後、明治時代に田尻峠が開削されメインの座が移ります。

「長尾街道」という名称は明治時代からのもので
そういう意味では間違いのない記述ではあるのですが
江戸時代の長尾道も指してるなら誤解を生むかもしれません。

この古市街道と交差する付近では
長尾街道は少し南下する形でルートの進路が変わります。
大津道は進路を変えずそのまま東へ直進という話なので
古代道路を踏襲しているのは実質ここまでということになります。

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西名阪道路の藤井寺インター付近からは古墳が目立ちます。
長尾街道は全般的に歴史の深い場所を通ってるわけですが
竹ノ内街道などと同様に有名になっても良い道です。

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このお地蔵様の下部にも道標があります。

「右 大坂さかひ、左 ならはせ道。右 ふじゐてら道」

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この先にある東高野街道との交点にも道標がありました。

「右 道明寺」

少し前までは折れて倒れていたそうですが復活していました。

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石川を橋で渡って大和川の堤防上にでます。

今回は国分の国豊橋で終了としました。
次回は関屋峠を越えて奈良県の磐城まで歩きます。


posted by にゃおすけ at 16:00 | Comment(0) | 大阪近辺の街道 | 更新情報をチェックする