2018年05月25日

『街道歩きのススメ』街道の起終点の見つけ方とか



先日のtwitterでの話題からですが
街道を歩くにあたって起終点は悩む点ですよね。

街道歩きという趣味上の話になりますが
どこから歩くか、どこをゴールとするかは
歩く目的である以上は決めておきたいものです。

自由な趣味なのでどれが正解かは言えませんが
例えば、電車の駅をスタートに設定する人もいますし、
町の中心地である道路元標を設定する人もいます。
まさに十人十色といった感じでしょうか。

街道を調べると明確に書いている場合がありますが
昔の人の視点で見ると起終点という拘りはなく、
起点は家、終点は目的地といった感覚だったと思います。

現在の街道の名称のほとんどは
幕府や藩で制定されていた場合は別として
近代になってから便宜上名付けられたものが多く、
その際に明確な起終点も定めた街道もありました。

この辺りの詳細は以前書いた記事をご覧ください。

→街道という単語の関東と関西の認識の違いとか
http://borabora.seesaa.net/article/455008889.html

要は同じ道筋であったとしても
江戸時代とは色々とズレがあるということです。

でも、せっかくなら・・・
江戸時代の起終点だったと思われる場所から歩きたいもの。
そこで今回は起終点の見つけ方について書いていきます。

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街道の起終点を調べていくと
大きく3つに分けることができます。

1・文献などにしっかり残されている街道
2・明確に起終点がわかりやすい街道
3・起終点がはっきりしない街道


1番は東海道分間延絵図が一例ですね。
江戸幕府が東海道の状況を把握するために、
道中奉行に命じて作成された道中絵図です。

東海道以外の五街道や脇街道のものもあるので
東京国立博物館の画像検索で確認することができます。
江戸時代の文献はどんな資料にも勝りますね。

2番の明確に起終点がわかりやすい街道とは。

追分から追分への街道であったり、
追分から伸びる参詣道であったり、
渡し場から伸びている街道であったり、

パッと見て起終点がわかる道筋です。
五街道wikiから具体例をあげてみましょう。

五街道wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93

『佐屋路』東海道宮宿の追分←→三里の渡し。
『美濃路』東海道の追分←→中山道の追分。
『本坂通』東海道の追分←→東海道の追分。いわゆる姫街道。
『伊勢参宮街道』東海道の追分←→伊勢神宮。参詣道。

三里の渡しのように渡し場が現存しない場合は
その跡と思われる場所がゴールで良いと思います。
渡し場跡が現存するような街道の場合だと
水面近くまでいってみるのも良いでしょうね。
何か痕跡が残っているかもしれません。

参詣道の場合はどこをもって終わりか悩みますが
入口にあたる鳥居や山門で終えるのが一般的でしょうか。
伊勢神宮の場合だと宇治橋鳥居になると思います。

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3番の起終点がはっきりしない街道とは。

例えば北国街道を例にあげると
滋賀県を経由するものや経由しないものがあるように
自治体や資料によって大きく異なっています。

もちろん、江戸時代においては
単に江戸道や加賀道というように呼ばれていたので
どこからどこが北国街道なのかという定義は
近代になって設定されたものにすぎません。

このような起終点が複数存在する街道については
歴史を紐解いて考えていくのが肝心です。

関西の伊勢本街道の例もあげてみましょう。
高麗橋か玉造稲荷神社かで起点が分かれています。

高麗橋は江戸にある日本橋のような公儀橋で
大坂のあらゆる街道の起点になっていたわけですが
伊勢詣の歴史を考えれば神社でお参りしてからが多いので、
高麗橋は街道的にはスタート地点であっても
参詣的にはスタート地点とは言いづらい面があります。

このことは冒頭のTwitterにあります
成田街道についても同じような感じかもしれません。

一般的には成田山山門でゴールでいいと思いますが、
山門から先にある寺台宿の説が多くなっているのは
宿や船着き場があったことから大勢の人が歩いている点で
成田詣とは切ってもきれない場所だったからでしょう。
参詣という括りならばセットで考えれるのも頷けます。

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現在の寺台宿

さて、町中を発端とする街道の場合、
町には幾重にも道筋があるのでどこが街道なのか、
どこが起点だったか特定が難しいところです。

下は伊丹城下の絵図になりますが
街道には家々が建ち並んでいる様子がわかると思います。
一見するとわかりづらいですがじっくり見ると見えてきますね。

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城下町である場合はネットで検索すると
昔の絵図がヒットすることが意外に多いもので
街道の道筋を探す際の大きなヒントになります。

また、絵図には高札場や道標も描かれていたりします。
高札場は多く人が集まる場所に設置されることが多いので
町の中心部であったり何か重要な場所だったりするものです。
道路元標や里程元標が置かれた所もこういう場所が多いですね。

ようするに町のシンボルとなっていた場所が
起終点がはっきりしない街道の起終点かなと思います。
もしこれが宿場町だったとすれば本陣でしょうし、
城下町であるなら城へと続く橋であることもあります。

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復元された奈良市内の里程元標と高札場

以上、いろいろ書いてきましたが
起終点はどうするか本当に悩むところです。
基本は先人が歩かれた記録を参考にして歩いていますが
それがない場合は自分で見極めないといけません。

調べるということは大変なことですが
それはきっと後に歩く人の参考になるはずです。

ではenjoy!街道歩き


  
posted by にゃおすけ at 10:16 | Comment(0) | 街道歩きテクニック | 更新情報をチェックする

2018年05月15日

有馬道その1・神崎津→安倉

京や大坂から有馬温泉を結ぶ道で
古くから湯治目的の人々で賑わっていました。



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神崎川のほとりにあった神崎津。
大坂からの中国街道や瀬戸内海から舟で来る人々の拠点でした。

ここが有馬道としては実質的なスタート地点で
伊丹市、尼崎市域ではルートが本道と間道と2つに分かれますが
再び宝塚付近で合流して六甲山中へと抜けていきます。

本道は新道、間道が旧道にあたりますが
古い絵図など見ても名称の区別が見当たらないので
おそらく近代になって便宜上名付けられたものと思われます。

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神崎川には昔は橋がなく広さは四十間程あって舟で行き来していました。
旅人は1人につき40文、増水時は24文の追加料金だったとあります。

歴史的には天平年間で行基によって築かれた摂播五泊の一つ「河尻泊」
14・15世紀になると尼崎が神崎川河口地域の中心的な港になっていきます。

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摂津名所図会を見ると往時の賑わいがわかります。

神崎津は商人荷物を扱うことでも繁栄していました。
川を利用した近隣の年貢米の船出しや伊丹の酒造米の受け入れにも対応。
このような荷物を扱う問屋が江戸中期には6軒あったそうです。

ちなみに近くにあるJR尼崎駅は設置当初は神崎駅でした。
元々の尼崎の地名は尼崎城下の阪神尼崎駅付近を指す地域なので
開業当時としては「神崎」と名付けるのが自然だったのでしょうね。

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神崎津のメインストリート。
絵図そのままの光景が広がっています。

突き当りに仏像を兼ねた道標があり
側面には「左 大坂」などの文字が刻まれています。

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ダイセルの工場の先で本道と間道と分かれます。

ここには明治初期の道標が立っています。

「右 伊丹 中山 池田 能勢」
「左 昆陽 小濱 有馬 三田」
反対側の文字には「大坂 西京」

西京とは東京に対しての京都の言い方ですね。

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途中まで新幹線と平行して進むので
何度か交差して少し不思議な感覚になります。

猪名川水系である藻川の堤防の上を進みますが
他の河川と同じく大きく改良を受けているので
往時の道筋とは若干違うようです。

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大井組の碑。

大井組とは猪名川水系の最大の井組で
水争いの乱闘の末、斬首数名となった話が書かれています。
意外にも周辺では水に困っていたことがわかりますね。

川もあるし不思議な感じがするのですが
有名な昆陽池を筆頭に街道沿いで見かける池は
灌漑用のものが多いので今とは違った環境だったのでしょう。

それにしても、街道沿いは歴史があるからいいですね。
今回の歩きは短距離な上に市街地の中ではあったのですが
何も調べないで歩くとツマラナイような道であっても
歴史を調べてみると発見があり実に楽しいものです。

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やがて風情が残る猪名寺の集落に入ります。

街道から少し逸れて猪名寺廃寺を見てきました。
東に金堂、西に五重塔の白鳳時代創建の大きな寺だったのですが
織田信長による有岡城攻めで焼失しています。

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摂津名所図会に有馬街道が描かれています。
廃寺跡の背後の森が佐璞丘(さぼくがおか)と言って
大阪湾を見渡せる景勝地になっていたそうです。

また、「猪名の笹原」としても有名で
辺り一面は笹が生えそろっていたとあります。

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伊丹城下へと入っていきます。

大坂道の標識が目によく入ってきましたが
ここでは大坂道と呼ぶのが一般的だったようですね。

古い家々が立ち並ぶ街道筋。
城下に入ると道筋がいくつもあることが多いですが
どの道筋が一番多く使われてメインだったのだろうと
街道を調べる際の一つのポイントになっています。

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文禄伊丹之図を見てみると
家の並び方でなんとなくメインルートがわかります。

青い丸は江戸時代の高札場があった場所で
現在は道路元標が立っています。
いわば伊丹の道路上の中心地というわけです。

ちなみに緑色の丸の箇所は三軒寺です。

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先の震災では倒壊が酷かった地域です。
ここは名前のとおり三軒の寺が並んでいたのですが
震災後は大きな広場を整備して三軒寺広場となっています。

ピンク色の丸は猪名野神社。
伊丹郷町の北端で有岡城(伊丹城)の北端でもあって
惣構えの「岸の砦」が置かれていた場所です。

古くは「野宮、天王宮、牛頭天王宮」と呼ばれていて
摂津名所図会では「野宮牛頭天皇」と紹介されています。

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猪名野神社を過ぎると若干の勾配が始まります。

段差がある場所は美味しい水が関係することが多いですが
周辺の地名が「清水」とあるのもそういう関係でしょう。
また、伊丹の酒造りにも関係する段差かもしれませんね。

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大鹿(おじか)。ここで西国街道と交差します。

「すぐ西宮」「すぐ京」「すぐ中山ありま」「すぐ大坂」。
中山とは中山寺のことですね。

ここには古絵図を現代語に翻訳された看板がありました。
こういうのはわかりやすくてとても助かります。
大鹿あたりにも池があったことがわかりますね。

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瑞ヶ池は伊丹市民の貴重な水がめです。

池の前後の街道は住宅整備によって消滅したのですが
池の周囲の一部分のみは旧道が残っています。

ただし昔の雰囲気とは大きく違うようです。

古地図を見るに土手の上を通っているように見えますが
いざGPSを頼りに同じ場所に立ってみると普通の道路です。
おそらく昔の土手は改修の際に崩されてしまったのでしょう。

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鴻池という地名。
実は「鴻池財閥」の出身地です。

伊丹で清酒の醸造を始めた後に大坂で両替商に転じて
江戸時代における日本最大の財閥になっていきます。

河内に住んでいた者にとっては
鴻池新田辺りが出身地とばかり思いこんでいたのですが
まさか伊丹だったとは意外でした。

元々の鴻池の地名のいわれとしては
周辺の池に鴻(ヒシクイ)が群れを成していたという説、
摂津国の国府(コウ)を当地に移す計画があった説があります。

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「阿り満たしま」は有馬但馬。
他に中山観音、小浜、三田の意味する文字が刻まれていました。

享保年間のもの。

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姥ヶ茶屋(ばんがちゃや)。
ここで有馬街道の別ルートの間道と合流します。

祠の中には寛文八年の兵庫県下で最も古い道標が残っています。
「あまがさきみち」「いたみみち」

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次回は間道を神崎から宝塚に向けて歩く計画です。



  
posted by にゃおすけ at 11:38 | Comment(0) | 有馬温泉への街道 | 更新情報をチェックする