琵琶湖周辺の輸送についてをテーマに話していきます。
大量の物資を運ぶのに適したものといえば船。
これは昔も今も変わらないものです。
京が都だった時代、
日本海側の物資をどのように運んでいたのでしょう?
江戸初期までは琵琶湖を利用した水運が主でした。
海路を利用した「北前船」が有名ですが当時は未整備で
難破する船が多かったというのがその理由です。
海洋廻船は時間がかかるのが難点ですが
荷物の積み替えがないは大きな利点でした。
海路が整備されると次第に「北前船」にシフトしていきます。

琵琶湖の水運の主役「丸子舟」
こうして琵琶湖水運は徐々に衰退していくわけですが、
衰退といっても日本海側からの物資の輸送ルートとしてのことで
近江国内での輸送には専ら琵琶湖水運が利用されています。
江戸中期にピークを迎え約1400隻の舟が行き来していました。
では、実際の輸送の流れを見てみましょう。
敦賀で荷下ろしした物資は陸路で塩津および海津に向かいます。
この区間には深坂峠などのキツイ難所があるのですが
坂の緩い新道を作ったりと輸送改善の努力が多数見られます。

塩津および海津からは丸子舟に荷物を積みこみ一気に大津へ。
ラストスパートの大津からは再び陸路で峠越えをしていきます。
この難所で有名なのは牛車用の舗装路である車石ですが、
当時の主要街道は牛車を用いての輸送は禁止されていただけに
輸送路としていかに重要だったかがわかります。
このような不便を打開しようと考えられたのが
敦賀と琵琶湖を大運河を作るという計画です。
深坂峠付近に3kmに渡るトンネルを掘って
その前後は川を改良として舟を通すものですが
当時の技術を考えると疋田宿までの開通が関の山で
幕末の改良を経て一部区間のみ利用されていきます。


こうして琵琶湖水運は再び脚光を浴びたわけですが
これは当時の日本近海に出没していた異国船の影響が大きく
北前船の輸送に不安が生じたので別ルートを作ることで
京の食糧を確保するためと言われています。
ちなみにこの時の輸送量は加賀藩米を例であげると
それまで1500俵程度だったものが11万俵と大幅に増えています。
当時の疋田宿は荷物の中継地点としても賑わっていて
運河の川幅は2.8mもあったそうです(現在は1.5m)
時代は明治に変わって鉄道での輸送が考えられていきます。
明治初期は全国を見渡しても数えるほどしか走ってなかったのですが
琵琶湖水運のルートは日本海側と京都を結ぶ最短ということで
東海道線が全通する以前にいち早く開業していきます。

この鉄道の開通によって北前船ルートと比べると
90日〜半年の所要だったのが3日程にまで大幅短縮とあります。
3日というのも今で考えると長い時間ではあるのですが
途中の柳ケ瀬トンネル(当時日本最長1352m)が未開通で
荷下ろしがあったことが影響していたのでしょう。
このようにいちはやく開業した鉄道でしたが
当時の京都はというと東京遷都の影響で荒廃が進んでいました。
江戸時代の町の勢いからは程遠い状態になっていたわけですが
この状況を打開しようと考えられたのが琵琶湖疎水です。
琵琶湖と京都の町を直結する水路が作られていきます。
水路には舟が通り、流れる水を利用した発電所が作られ、
それによって電力が生まれ日本初の電車が走り出すことになります。

太平洋戦争後に面白い計画として
敦賀〜塩津間に舟も載せれる鉄道を作るものがありました。
完成していたら日本海の舟を直接京都に持ってこれたというので
パナマ運河ばりの名所になっていたかもしれません。
こうして琵琶湖を取り巻く輸送は
船から鉄道、トラックに取って変わっていきます。
かつて琵琶湖水運の主役だった丸子舟は
昭和40年頃には消えて役目を終えてしまいます。
さいごにまとめとして。
近江国内には主要街道である北国街道や中山道がありますが
海のように荒れない琵琶湖は実に安定した輸送手段でした。
大きな湖だからこそ舟による航行時間が長いことから
荷物を積みかえる手間があっても価値があったでしょうし
また、京の台所を守るという使命もあったりと
他の地方にない輸送の在り方が垣間見えるのも面白いところです。