2018年06月27日

『街道プレゼン』琵琶湖を取り巻く輸送の今昔

今回は先日の街道シンポジウムで発表しました
琵琶湖周辺の輸送についてをテーマに話していきます。

大量の物資を運ぶのに適したものといえば船。
これは昔も今も変わらないものです。

京が都だった時代、
日本海側の物資をどのように運んでいたのでしょう?

江戸初期までは琵琶湖を利用した水運が主でした。
海路を利用した「北前船」が有名ですが当時は未整備で
難破する船が多かったというのがその理由です。

海洋廻船は時間がかかるのが難点ですが
荷物の積み替えがないは大きな利点でした。
海路が整備されると次第に「北前船」にシフトしていきます。

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琵琶湖の水運の主役「丸子舟」

こうして琵琶湖水運は徐々に衰退していくわけですが、
衰退といっても日本海側からの物資の輸送ルートとしてのことで
近江国内での輸送には専ら琵琶湖水運が利用されています。
江戸中期にピークを迎え約1400隻の舟が行き来していました。

では、実際の輸送の流れを見てみましょう。

敦賀で荷下ろしした物資は陸路で塩津および海津に向かいます。
この区間には深坂峠などのキツイ難所があるのですが
坂の緩い新道を作ったりと輸送改善の努力が多数見られます。

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塩津および海津からは丸子舟に荷物を積みこみ一気に大津へ。
ラストスパートの大津からは再び陸路で峠越えをしていきます。
この難所で有名なのは牛車用の舗装路である車石ですが、
当時の主要街道は牛車を用いての輸送は禁止されていただけに
輸送路としていかに重要だったかがわかります。

このような不便を打開しようと考えられたのが
敦賀と琵琶湖を大運河を作るという計画です。

深坂峠付近に3kmに渡るトンネルを掘って
その前後は川を改良として舟を通すものですが
当時の技術を考えると疋田宿までの開通が関の山で
幕末の改良を経て一部区間のみ利用されていきます。

4_敦賀・琵琶湖間運河計画図」(慶応三年)五月.jpg

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こうして琵琶湖水運は再び脚光を浴びたわけですが
これは当時の日本近海に出没していた異国船の影響が大きく
北前船の輸送に不安が生じたので別ルートを作ることで
京の食糧を確保するためと言われています。

ちなみにこの時の輸送量は加賀藩米を例であげると
それまで1500俵程度だったものが11万俵と大幅に増えています。
当時の疋田宿は荷物の中継地点としても賑わっていて
運河の川幅は2.8mもあったそうです(現在は1.5m)

時代は明治に変わって鉄道での輸送が考えられていきます。
明治初期は全国を見渡しても数えるほどしか走ってなかったのですが
琵琶湖水運のルートは日本海側と京都を結ぶ最短ということで
東海道線が全通する以前にいち早く開業していきます。

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この鉄道の開通によって北前船ルートと比べると
90日〜半年の所要だったのが3日程にまで大幅短縮とあります。
3日というのも今で考えると長い時間ではあるのですが
途中の柳ケ瀬トンネル(当時日本最長1352m)が未開通で
荷下ろしがあったことが影響していたのでしょう。

このようにいちはやく開業した鉄道でしたが
当時の京都はというと東京遷都の影響で荒廃が進んでいました。
江戸時代の町の勢いからは程遠い状態になっていたわけですが
この状況を打開しようと考えられたのが琵琶湖疎水です。
琵琶湖と京都の町を直結する水路が作られていきます。

水路には舟が通り、流れる水を利用した発電所が作られ、
それによって電力が生まれ日本初の電車が走り出すことになります。

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太平洋戦争後に面白い計画として
敦賀〜塩津間に舟も載せれる鉄道を作るものがありました。
完成していたら日本海の舟を直接京都に持ってこれたというので
パナマ運河ばりの名所になっていたかもしれません。

こうして琵琶湖を取り巻く輸送は
船から鉄道、トラックに取って変わっていきます。
かつて琵琶湖水運の主役だった丸子舟は
昭和40年頃には消えて役目を終えてしまいます。

さいごにまとめとして。
近江国内には主要街道である北国街道や中山道がありますが
海のように荒れない琵琶湖は実に安定した輸送手段でした。

大きな湖だからこそ舟による航行時間が長いことから
荷物を積みかえる手間があっても価値があったでしょうし
また、京の台所を守るという使命もあったりと
他の地方にない輸送の在り方が垣間見えるのも面白いところです。


  
 
posted by にゃおすけ at 11:44 | Comment(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする

2018年06月12日

【街道シンポジウム】戦国の香り漂う刀根道

街道シンポジウムの一環で歩いてきました。
刀根道は柳ケ瀬(滋賀県湖北)と疋田(敦賀)を結ぶ道です。

今回のルート精査は困難を極めました。
琵琶湖と日本海を結ぶ重要なルートの一つだけに
周辺の古絵図など資料が結構残されています。
ただ、そのどれもこれも描かれている道筋が違う・・・。
どれを信じて歩けばいいかというのがポイントでした。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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北国街道柳ケ瀬。
宿場ではなく間の宿の役割があった集落です。
道の中央には今も昔ながらの水路が残っています。

宿の北方には彦根藩の柳瀬関所が置かれていました。
特に女改めが厳しく夜間の通行は一切禁止だったとのこと。

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刀根道は左へ。右は北国街道今庄方面。

右 えちぜん、かが、のと道、
左 つるが、三国ふねのりば

以前、ここには北国街道歩きで5年前に訪れています。
街道を歩いていると気になる道と出会うことが多いですが
道標とともに未舗装の道が伸びているシチュエーションは
いつか歩いてやろうと当時わくわくしたものです。

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道標を越えた先から峠道が始まります。

基本は尾根道になっているのですが
絵図によっては川筋を上るルートがあったり、
尾根道においても廃道になってる箇所が多いので
なかなか一筋縄にはいきません。

明治11年明治天皇の行幸に合わせる形で
峠道を大きく改修したと資料に残ってるので
複雑になっているのはこういう事情なのでしょう。

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例えば、この大きなヘアピンになった道筋。
江戸時代のものではなく馬車を想定した可能性が高いです。

かつて峠の下には旧北陸本線が通っていたのですが
開通当時は峠部分にある柳ケ瀬トンネルは未貫通だったので
トンネル前後に駅を設けて徒歩連絡になっていました。

わずかな期間ではあったものの、
一地方街道にも関わらず立派な峠道になっているのは
この影響も少なからずあったものと思われます。

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倉坂峠。
近江ではこの名前で呼ぶことが多いようです。
他に柳ヶ瀬峠、久々坂峠とも。

今回の道筋の名称においても
刀根越、久々坂、柳ケ瀬道などいくつか存在しています。

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峠は大きな切通しになっています。
右に上れば賤ケ岳の戦いでの柴田勝家本陣だった玄蕃尾城はすぐ。

このような峠は風の通りが良くていいですね。
まるで天然のクーラーのようでした。

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峠を過ぎれば福井県です。
こちら側も改修の影響が所々に伺えます。

この右手にある祠は古いものですが
かつては祠に沿って下る道筋が存在していたようです。
ただ、遠目で見る限りは痕跡らしいものは残ってなく、
豪雪地帯であるがゆえ地形が変わってしまったのでしょう。

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やがて北陸自動車道が見えてくると峠道は終わり、
完成した当時は日本最長だった柳ケ瀬トンネルが現れます。
車専用のトンネルになった今も現役とは素晴らしいですね。

ここから先の旧道は鉄道建設や北陸自動車道建設によって
消滅している箇所が多くなっていきます。

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特に鉄道は日本の鉄道黎明期に作られています。
これは日本海と太平洋側を結ぶ重要な路線だったからですが
江戸時代の物流ルートだった塩津港を経由しなかったのは
全般的に勾配が緩い上に峠ではトンネルを短く建設できることで
土木技術面、SLでの輸送面で耐えれる優秀なルートだったようです。

鉄道黎明期に作られたおかげで
明治以降に作られた古い地図を確認しても
そのほとんどに鉄道が描かれてしまっているのは
今回の旧道調査を難しくしている一因でもあります。

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その上で、昭和50年代の北陸自動車道の建設。
これも勾配が緩いということで決まったと思いますが
ただでさえ狭い谷間なので旧道への影響は大きいものでした。

そういう中で道自体は吸収され消滅してしまった場所でも
山肌には石仏などの痕跡が残ってたりするので嬉しいものです。

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刀根集落が見えてきました。
地名の由来の一説は豪族の庄内刀根が坂道を修復したことから。
女留ノ口番所が置かれていました。

集落内には明治天皇の聖跡があったり、
公民館前には刀根トンネルの要石まで保存されてあり必見です。

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ここから先は基本は川沿いに進んでいきます。

川沿いに進んでいるということは
災害の影響を受けやすいということでもあります。
江戸時代の古絵図のどれもが道筋が違ったりするのは
浸食によって削られたり、山腹が崩壊したりした影響から
時代によってのルート変更が多くあったからでしょう。

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小刀根トンネル。
煤が付いているのはSLが通っていた証ですね。
当時の姿のままの鉄道トンネルでは最古のものとなっています。

麻生口交差点付近から曽々木集落にかけては
北陸自動車道脇に残る旧道を進んでいきます。

こういう道はテンションがあがりますね。

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曽々木集落から先の国道8号は
かつての鉄道線路跡を大部分で転用しています。

転用前の旧国道8号は現道の脇に残ってるのですが
舗装は古いコンクリート製なので時代を感じます。

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新しいビットマップ イメージ.jpg
赤線が旧国道8号、青線が旧街道、青破線が旧街道で消失

上の地図をご覧ください。
Googleマップ上には道があるのですが消滅しています。
旧国道8号と現国道8号の間のわずかな距離ですが
当時の舗装は国道ですら行き届いてなかった時代ですし、
脇道であった旧街道まで舗装されてないのは普通でした。

その結果、新国道開通によって誰も通らなくなってからは
自然に返るのも早かったのでしょうね。

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やがて疋田宿に入ります。
ここは大津〜敦賀の道筋である西近江路との合流点。

追分には明治6年の道標が立っています。

右 西京かい津志ほつ
左 東京きの本道 西方はれて千鳥みせたきねかひかな

ここでいう東京とは江戸のことで
西京は東京奠都にともなう東京に対する京都の俗称です。

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疋田宿は水路(運河)があります。
かつては倍の川幅があって船溜まりもあり
日本海の物資を積みかえて琵琶湖を経由して京に運ばれていました。

この運河と琵琶湖を取り巻く輸送については
プレゼンで発表しましたので次回にまとめてみます。


  
posted by にゃおすけ at 11:24 | Comment(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする