難所の米山三里を抜けると
新潟県の真ん中に位置する柏崎に入ります。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
青海川駅からは六割坂が見えます。
右手の赤い橋の国道まで一気に登る形になるのですが
坂道は大部分が残っていて難なく歩くことができます。


六割坂へは旧信越本線の鉄橋を改築した橋を渡ります。
鉄橋の下を流れる川は鮭の遡上で有名だそうです。
坂の途中から駅方向を振り返ると
歩いてきた北国街道の道筋がクッキリ確認できます。
中越沖地震では駅の後方で大規模な土砂崩れが発生したのですが
その爪痕である山肌が今だ痛々しい感じです。




国道から先は若干の藪道となっています。
この藪道を抜けると広大な道の駅の廃墟に出ますが
かつてはここに車を置いて六割坂を歩いて
駅や海に遊びに行った人が多かったことでしょう。
当時設置したと思われる標識が残っていました。



「史跡・北国街道米山三里旧道・松並木」
古い松は数本のみ残っています。
坂を下っていくと古い道標がありました。
「右ハかみがた道」
京上方への道を示しています。
法師像が浮き彫りになっている指差し道標です。


かつては道標の先を辿っていけば
先ほどの藪道に繋がっていたと思われますが
痕跡は少なく大部分は道の駅建設で消失してしまっているようです。
海を見ながら国道を下っていきます。


大きな米山道標がありました。
「右の砂道ハ京江戸往来 左の坂は米山薬師さんけい道」
この道標は国道より少し高い場所に設置されています。
どうも雰囲気的に置かれてる場所が不自然感が否めません。
国道は車が通りやすいように
勾配を緩和して旧道を大きく掘り下げることが多いので
道標のある位置は昔の街道のレベルでは?と考えることが出来ますし、
昔の空中写真を見ると国道に平行して道があるような感じなので
旧道は国道とは別の道筋だった可能性も捨てきれません。
この辺りは国道の工事記録を見るとわかると思いますが
気になりだしたらきりがありませんね。



やがて鯨波宿。
柏崎宿までわずか1里という距離にあるのですが
米山三里の難所はここで終焉なので休憩で丁度良かったのでしょう。
ふと民家の軒先に道路元標が置かれてるのを見かけました。
形はそのままだけども材質が全く違う・・・
いわゆるレプリカですが道路元標のは珍しいですね。



鯨波駅を過ぎて嫁入坂を上ります。
ここは戊辰戦争の激戦地。鯨波戦争の場所です。
柏崎は桑名藩の支配地だったので幕府軍優位の戦場だったようです。
振り返ると雪を被った米山が見えました。
北斜面の雪は反対側と違ってまだまだ豊富ですね。


御野立公園。
名前から察しれるように明治天皇が休憩された場所です。
ここからの眺めは実に素晴らしいものがあります。
眼下には日本の渚100選の鯨波海岸が広がっています。



街道沿いでは結構な数の民宿を見かけました。
山岳地帯と違って海水浴場が近いと民宿が多いですね。
季節営業もあるでしょうが街道歩きで非常に頼もしい存在です。

今回は旅の行程は全般的にゆったりしたものです。
全4日の道中で計画上の距離は90kmもいっていません。
普段なら4日もあれば120〜150kmは歩く距離なのですが
新潟は大阪から非常に交通が不便な場所にあるので
行き帰りだけで時間を随分取られてしまいます。
そのおかげというべきか行程をゆったり組んで
街道沿いの名所など寄り道して楽しむことができました。
新潟はなかなか来れないのでこれで良かったかもしれません。

番神堂は街道から少し離れた場所にある名所で
日蓮聖人が佐渡から赦免されここに着岸した時に勧請したお寺です。
番神堂は小高い岬の上に位置しているので
柏崎の町並みや遠くは椎谷宿あたりまで眺めることが出来ました。


弘法大師の茶の池。
喉が渇いた僧が地元の人に水を求めると
「ここは塩水しかないけど」で仕方なく塩水を差し出したところ
僧はそれを飲み干しひどく美味しく頂いたのだとか。
僧は立ち去ると塩水の池が水がコンコンと湧き始めたという。
その僧は弘法大師だったというお話です。
この手の伝説は各地にありますね。


時間があったので柏崎市立博物館にも寄ってみました。
寄り道は往復20分かかりますが
街道資料や米山信仰の資料が多く見ごたえがありました。
町のことを知るには資料館は有能ですね。


柏崎宿に入ります。
柏崎は鵜川の河口に誕生した町で
川の西岸には陣屋が置かれ陣屋町として発展し、
東岸は宿場町として町の機能が分担していました。
その柏崎宿の特長をあげるとするならば
宿場の道の中央に2体の石仏が置かれていたことでしょう


その一つが「ねまり地蔵」
明治天皇行幸の折に道路脇に移設されましたが
古い手記には異様な光景だったという文字を見かけます。
もう一つが下の写真の「立地蔵」
ねまり地蔵と同様の岩で作られていて
「目鼻など形がはっきりせず、ただ形があるだけ」と
古い手記にあるように造形は独特なものがあります。


中越沖地震の影響で古い建物が皆無になっている柏崎宿中心部。
街道沿いには中越沖地震の資料館もありました。
柏崎宿といえば「閻魔堂」も有名ですね。
場所は宿場の木戸の外に位置していて
出雲崎方向から見ると宿場の出入口にあたります。

閻魔十王像が祀られています。
古くから周辺は馬市で賑わっていた場所で
現在は「えんま市」という祭りが受け継がれています。
東柏崎駅周辺の雁木風のアーケードを抜けると安政橋です。


安政橋は安政年間に架けられた橋で珍しい有料の橋でした。
橋が架けられる前は悪田の渡しが少し上流にあったのですが
河口が近いことで海の影響をよく受けるので安定せず、
さらに上流の渡しまで迂回することもあったようです。


荒浜地区。
元々は砂丘だった土地ですが
砂の飛散防止のための松が植えられています。



原発の施設が見えてきました。
柏崎側の旧道はここで途切れてしまいます。
ちなみに昭和49年の航空写真では
原発工事前なので旧道の道筋を確認することができます。


侵入防止用のフェンスが物々しい迂回路。
今回は原発PRセンター近くの宿に泊まりました。
翌日は朝4時台の出発なので街道沿いの宿は助かります。