2019年01月25日

『街道歩きのススメ』2019年版ルート作成術。

街道歩きのルート作成に用いる手法は
年々、様々な方法が生まれ使いやすくなってきています。

今回のポイントは3点。
ルートラボの仕様変更で使いづらくなってしまった。
スーパー地形アプリの勢いが止まらない。
FieldAccess2アプリはサブでの使用に。


以前までの作成術は以下のリンクをご参照ください。

『街道歩きのススメ』 最新版ルート作成術。
http://borabora.seesaa.net/article/417391202.html

まず、基本的な作成には地理院地図のサイトを今回も利用します。

ルートを作成できるサイトやソフトは幾つかありますが
地理院地図のサイトはネット環境があれば作成できるのが利点で、
インストール不要で気軽に作成することができます。

カシミール3Dというソフトもオススメですが
操作性の面で人によって向き不向きがあるようで
かく言う私もカシミール3Dを何度か触ってはみたものの
どうも使い勝手が苦手で使わなくなってしまっています。

《追記2019.01.29》
カシミール3DはGPXファイルとして出力が可能ですので
FieldAccess2をかまさずともスーパー地形にインポートが可能です。
使いこなせればカシミール3Dは便利と思います。

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標高のデータが入った例

地理院地図のサイトで作成したルートは
GPSの座標が書かれたKMLファイルで排出されます。

ただし、これには標高のデータが含まれていません。

街道歩き中において有り難いものといえば
ルート上での標高差が一目瞭然でわかるグラフでしょう。
標高差がわかれば峠越えでは事前に心構えができますし、
前もって飲み物などを購入したりと安心できます。

このような利点から標高データを加える必要があったのですが
これまではルートラボというサイトで加えていました。

ところが、年明けのバージョンアップによって
地理院地図のKMLファイルはエラーでうまく取り込めないことが多くなり
標高データを簡単に付け加えれてたのに大きな痛手です。

これを解決しての新たな方法は以下の流れです。
画像が多めで一見すると大変な作業に見えるかもしれませんが
わかりやすく解説したものなので実際はものの数分でできます。

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手順1・地理院地図でルート作成

資料を見ながら線を引っ張っていって
ルートを確定します。

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手順2・ルートをKMLファイルで出力

形式をKML形式と指定して保存します。

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手順3・メールに添付

自分宛のメールに添付して送信します。
上の画像はGmailアプリのものです。

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手順4・FieldAccess2に取り込み

FieldAccess2アプリがインストールされていれば
添付ファイルをクリックすると上の画面が出ます。

ここで「FieldAccess2にコピー」を選択します。

今回のFieldAccess2の役割はKML→GPXへの変換で使用します。

以前までは街道歩き中でメインとして利用したアプリですが
バージョンアップが近年で全く行われておらず、
画面表示が狭いままなど古くなってしまった感があります。

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読み込み開始をクリック

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このようにアプリ上にルートが表示されます。
下部のスペースは本来はルート上の標高差が表示できるのですが
地理院地図のKMLファイルには標高差データが入っていません。

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手順5・GPXファイルに変換しスーパー地形アプリへ転送

読み込みフォルダを開くと読み込ませたルートの一覧が出てきます。
該当ルートの右端にある「>」か「i」マークをクリックします。

《追記2019.01.29》
地理院地図では立ち寄り地ポイントを書き込んでおくことが可能です。
ルートと立ち寄り地ポイントを合わせたルートを作っておけば
FieldAccess2やスーパー地形上に表示することができます。

ルートと立ち寄り地ポイントを合わせたルートの場合は
フォルダになっているので「>」のマークをクリックすることになります。

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画面が変わって右上ゴミ箱の右隣りのアイコンをクリックすると
「ファイルに出力」メニューが出てきます。

《追記2019.01.29》
ルートと立ち寄り地ポイントを合わせたルートの場合の出力方法は
「>」のマークをクリック後、右上の「編集」→一番下の「全部選択」をクリック、
そして右下のマークをクリックすれば「ファイルに出力」メニューが出てきます。

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任意でファイル名を入力して「外部へ転送する」をクリックします。

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すると、スーパー地形アプリが事前に入っていれば
「スーパー地形にコピー」をクリックするとスーパー地形アプリに転送されます。

スーパー地形アプリは今回から街道歩き中にメインとなるものです。
頻繁に行われているバージョンアップは怒涛の勢いで
ついにFieldAccess2の有利だった道中での標高差表示も実装されました。

こうなるとスーパー地形アプリで一本化しても良いのですが
FieldAccess2のマップの中にはこれまで歩いたルートが刻まれているので
データーベース状で一目瞭然なので削除までは勿体ないところです。
なので、GPSのログ記録はFieldAccess2に任せてもいいかなと思っています。
あと、別々の地図をアプリ毎で切り替えながら見る使い方も便利ですね。

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手順6・スーパー地形アプリに読み込み

転送が完了すれば自動的にスーパー地形アプリが立ち上がります。
GPSデータの読み込みの「開始」をクリック。

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無事、スーパー地形アプリにルートが表示されました。
ただし、この時点ではまだ標高データがありません。

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手順7・ルートに標高データを加えて完成

ルートをクリックするとこの画面が出てきます。
「変換」をクリックします。

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「標高データで書き換える」をクリックします。

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これで完成です!

以上、2019年版の街道歩きルート作成術を書いてみました。

今まで愛用していたルートラボとは完全に決別しましたが
ルートラボ自体は非常に優秀なルート作成サイトです。
簡単にルートが引ける点や、ピン立て機能も有能なのですが
地図が地方や山の中では詳細表示ができないのは
旧道歩きが多い街道歩きではマイナス点でした。

また良い方法があれば記事にしたいと思います。







posted by にゃおすけ at 16:17 | Comment(0) | 街道歩きテクニック | 更新情報をチェックする

2019年01月23日

西宮道その2・仁川→宝塚

西宮道その2として仁川からスタートします。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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仁川といえば阪神競馬場ですね。
競馬場は元々は鳴尾にあったのですが
戦後に川西飛行機工場の跡地をに移転してきています。

広大な敷地が必要な競馬場ですから
この仁川がちょうど良い場所だったのでしょうか。

旧道は競馬場に続く地下道の左横に残っています。

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この付近は明治道と江戸道で分かれています。
特に鹿塩集落付近はウネウネとした道筋になっていて
街道風情が色濃く残っている区間といえます。

小林駅の手前で明治道と合流すると
再び江戸道へと進んでいきます。

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「武庫山平林寺聖コ太子開基」
「但し西宮ぬけ道阿里」

抜け道ありと書かれているのは面白いですね。
本道の他にもいろんな脇道が存在していたことがわかります。

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ここから先の西宮道は二手に分かれます。
直進が宝塚方面への道(赤)で右に曲がれば小浜宿(青)への道です。
小浜宿への道は中山寺や清荒神への近道にもなるのですが
あくまでメインは有馬なので支線的な位置づけだったのではと思います。
(今回は先に小浜宿に立ち寄るために右に曲がりました)

逆瀬川(伊孑志)付近の道筋は大変わかりにくいものですが
古い地図を照らし合わせて歩くと意外と道が残っています。

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伊孑志は「いそし」と読みますが仁川と武庫川の合流地点で
武庫川が大きく湾曲する場所なので水害に悩まされてきたことと、
「イソ」が石の多い地形を指す事からきています。

武庫川は「伊孑志の渡し」で渡河します。

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「伊孑志の渡し」は小さな伝馬船による渡しが大正初期まで続いていました。
江戸時代においては橋が架けられた時期もあったようですが
増水で流されることが多く近代まできちんとした橋がなかったそうです。

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武庫川より宝塚方向を眺めます。
昔の宝塚は何もなかったというのが嘘のような光景ですね。

国道を越えると小浜宿への上り坂が続きます。
浜という名前のとおり太古は海ないしは武庫川の広い流域だったため、
人が住む集落は周りより高い場所に設けられています。

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小浜宿の南門付近にある「首地蔵」

ある日、武庫川に突然首上だけの地蔵が流れ着いたのですが
保管しようと祠を建てても建てる際に災いがおきるので
お外が好きなのでは?ということで雨ざらしで祀られています。

首から頭の病にご利益があるのだとか。
右が昔からの首地蔵さんで左は昭和のものです。

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大へん古い道標。
なんとも大雑把な説明に驚いてしまいました。

「のみち」とは周辺に「の」と付く地名がないので
野原の中の道。野路(のじ)という意味なのでしょうね。

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小浜宿の詳細は有馬道の項に譲るとしまして
高札場付近で再び伊孑志へと引き返しました。

逆瀬川駅前の道筋は開発によって消滅しています。
これまでの街道風情とは一変した雰囲気です。

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地名にある逆瀬川は天井川で水量は少な目です。
かつては現在より幅広の川幅があったのですが
川底だった場所は「中州」という地名で残っています。

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この先の道筋ですが年代によって随分と違う時期があって
幕末に関しては宝塚での武庫川渡河で落ち着いたのですが
それ以前は逆瀬川の手前で渡河することもあったようです。

これは武庫川や逆瀬川の氾濫の影響もあったのでしょう。
急流故に上流部からの土砂流動が著しく砂防が大変でした。

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「塩尾寺観世音」
塩尾の名の由来は尾根から塩水が湧水したとの言い伝えによるもので
塩尾寺(えんぺいじ)は十一面観世音菩薩を本尊としています。

やがて宝塚南口駅を過ぎれば宝塚界隈へと入っていきます。
温泉街だった場所も大きなマンションが建ち並ぶようになりました。

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ここを右へ宝来橋を渡ります。
ちなみに直進も「西宮街道」ではあるのですが明治道となります。
地形的に武庫川の険しい崖なので道を通すには困難だったようです。

明治道の途中に見返り岩や滝がある景勝地があるのですが
そこには観光用に隧道が設けられ今も跡が残っています。
通称「丁字ヶ滝隧道」気になった方は検索してみてください。

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さて、宝来橋は1902年に初代が完成しています。

初代ということは江戸時代はどう渡っていたのかというと
橋をかけては何度も流されたという話があるので
宝来橋という名前ではない橋があったのかもしれません。
水量が少ない時期は徒歩渡りだった可能性もありますね。

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宝塚駅から大坂からの有馬道への分岐点へ。

駅付近の道筋は完全に消滅しているのですが
ここからどうやって有馬道に取りついていたかというと
古地図を見る限り安場村、川面村の先で合流となっているので
北西へ斜め方向に進んでいたことがわかります。

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以上、西宮道でした。



posted by にゃおすけ at 10:08 | Comment(0) | 有馬温泉への街道 | 更新情報をチェックする

2019年01月09日

西宮道その1・門戸厄神→仁川

西宮道は西国街道の分岐点から武庫川沿いを北上して
宝塚付近で大坂からの有馬道と合流する道筋です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

名称は西宮道(明治からは西宮街道)としていますが
これは宝塚付近での呼び方になっています。

昔の道の名前は行き先の地名を付けるのが一般的でしたが
西宮付近では有馬道と呼ばれていました。

ようするに数ある有馬温泉への道筋というわけですね。

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西国街道との追分には指差し道標がありました。

「日本、三躰、厄神明王社」

文久年間のものなので
明治以降に流行した指差し道標とは貴重さが違います。

ここでの厄神とは門戸厄神のことで
関西で有名な厄除けさんへの道筋を示しています。

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かつては田園風景が広がっていた場所は
閑静な住宅地になって昔の面影は少な目です。
街道の左手は六甲山系の山裾になっていたのですが
これも削られ住宅地に生まれ変わっています。

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「右 尼大坂高木道」、
「荒神道」、「左 厄神明王道」

西国街道へ短絡する道への道標ですが
ここでの荒神とは宝塚付近の清荒神になります。

この場所で清荒神を表す文字があるということは
西宮道は有馬への湯治目的以外にも中山寺や清荒神、門戸厄神など
参拝目的で大いに利用されていたことがわかります。

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腹切地蔵。
なぜかお腹のどころで折れてしまっていることから
腹に関する病気が必ず治るという言い伝えがあり信仰されています。

この腹切地蔵のある場所は甲山参詣道との交点にもなっています。
甲山は独特な形状をした山で南麓に神呪寺があるのですが
甲山大師の名で親しまれて今も大変な賑わいがあります。

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新幹線との交差の手前にあった自然石の道標。

「是よりにし 加ふと山 くわんおんみち」

その先には江戸時代初期の庚申塔もありました。
庚申さんは厄難や疫病を外から入ってこないようにするため
村はずれに置かれることが一般的でした。
場所的には神呪集落のものですね。

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甲東園を過ぎて阪急今津線の踏切を渡ります。

この甲東園という名前ですが甲子園や苦楽園などと同じ
西宮七園と呼ばれる高級邸宅街の一つとされています。

甲山の東の地区なので「甲東」なのですが
元は甲東園という果樹園が名前の始まりなのだそうです。

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踏切の先には西国街道大市集落付近からの脇道(青)との追分があります。
この脇道は西宮道の一つという説もあるのですが
古い絵図を見ても特に大きく描かれているわけでもないので
単なる短絡路的なものだったのでは思われます。

この場所には道標(下)があるのですが

「右 厄神明王道」「荒神道」「高木今津道」

と、あります。脇道は高木今津道ですね。

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仁川の手前にあった墓地は貝之介墓地です。

区画が整然となっておらず如何にも古い印象です。
昔は葬儀で死者を運ぶ際に使う籠の置き場が各村ごとに作られ
墓も各村ごとにまとめて作られていたといいます。

昔は阪急の線路の西側にも広がっていたそうです。

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仁川は天井川になっていて川付近は勾配になっています。

武庫川の渡河までの間で逆瀬川などの川を渡りますが
六甲山から流れ出す土砂で天井川の形式が多く
災害の対策などの苦労がしのばれます。

この日の仁川は水が流れていませんでした。
元々の仁川は六甲山を源とする水量豊富な川だったのですが
江戸時代始めに西宮の百姓が水利権を無法に横取りして
上流で夙川方面に7割の水を獲ってしまったそうです。

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そのため肝心の仁川はいつも干からびることになるのですが
昔の文献に西宮道は砂地が多く歩くのが大変とあることからも
干からびた川の渡河が何か所もあったことがわかります。

以上、その1として仁川までの道筋をたどってみました。
トータルで13kmほどの距離ではあるのですが
歴史のある道は本当に中身が濃いですね。

地元ということもあって
調べれば調べるほど面白く楽しいものです。
その2の宝塚までの道筋もご期待ください。



   
posted by にゃおすけ at 15:19 | Comment(0) | 有馬温泉への街道 | 更新情報をチェックする