全般的に難路が多いのが特長です。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

海沿いのルートであることから
海路や里道を利用した代替ルートも多くあったようで
今もルートの全容は解明されてない部分があります。
歴史的には熊野古道としては新しい部類で
江戸時代からは土木技術の発達で再整備はされたものの
熊野詣といえば中辺路を通るのが一般的でした。


スタートは紀伊田辺。中世の中辺路との分岐点です。
出立王子には潮で身を清める「潮垢離浜」もありました。
中世の中辺路は川沿いを上っていくルートですが
大辺路は田辺市街地へと入っていきます。

城下町でもあった田辺市街地は
江戸時代以前は湿地帯になっていました。
中世の中辺路が手前で分かれていたのはこういう理由です。
ところが次第に城下として整備されていくと
土地が改良され中辺路も市街地を経由する道筋になっていきます。

城下らしい屈折した道が続く


この立派な道標は江戸時代の分岐点に立ちます。
「左 くまの」と書かれてある下には
「すくハ大へち」という文字が刻まれています。
真っすぐ行くと大辺路ですよっていう意味ですが
大辺路は小さく書かれているところを見ても
熊野詣のメインは中辺路だったことがわかりますね。


駅の南側の繁華街を進んでいくと闘鶏神社に出ます。
世界遺産に登録されています。
ここでルート的な疑問が沸いたのですが
今通ってきた道筋と大鳥居の位置関係が非常に不自然です。
普通なら街道沿いの目立つ場所に立っているものですが、
参道は大辺路と平行して城の方向に伸びてるんですよね。
もしかすると今通ってきた道は大辺路は大辺路でも
明治期に整備された別ルートの可能性も考えられます。


バス停の名前に残る「つぶり坂」
昔からの名が残っているのは嬉しいものですね。
この坂はちょっとした難所だったのでしょう。
新庄駅付近で旧道に入ります。


川沿いの橋のたもとにあった石碑には
「昭和21年南海地震」と書いてあります。
海沿いの街道なので
津波関連の碑を多く見かけます。


その先の大潟神社参道にも
津波がここまで来たよ的な碑がありました。
ここは標高が比較的高い場所なのですが
地形的に津波が高くなってしまうようです。
津波の恐ろしさが想像ができますね。



やがてお地蔵さんが現れました。
よく観察すると地名が刻まれ道標を兼ねています。
地図を眺めてみると大潟神社の横の坂を上らずに
このお地蔵さんまで続くルートも確認できます。

真新しい道しるべを設置している姿を見かけました。
世界遺産に一部区間が登録されてからは
案内看板を統一していこうという動きがあるそうです。

旧新庄峠への道筋。
峠は昔ながらの雰囲気が残っていました。
高地蔵さんが立派な祠におさめられています。



国道を進んで朝来駅周辺へ。
田辺から出ている熊野本宮行きのバスは
朝来を経由するルートで走っているのですが
昔の街道も朝来を経由するルートがありました。

やがて不動山。
山の左手には川が流れて崖になっています。
その崖沿いには旧道と思われる痕跡が残っています。
今の国道は切り開いた場所を通っているのですが
かつては難所になっていました。
昔の道筋はどんな形であったのでしょう?
紐解くポイントは2つ。中腹に波切不動尊があること、
もう1つは川沿いに明治水害の碑があることです。


あくまで想像の域になってしまいますが
昔は治水技術が貧弱なので山中を抜けていたと考えるのが一般的で
ここも波切不動尊の前を通る形で水害を避けていたと思われます。
明治に入って馬車が通るようになってからは
川に沿った山を巻く形に進む道が完成したものの
明治水害によって崩落して通行止め→現在の道を切り開いた。
こんな流れだったのではないでしょうか。

山の中には古い石積みが所々に残っています。
山の頂上に大きな石が横たわっているのですが
そこからの展望は気持ちの良いものでした。


ここからしばらく川沿いを進みます。
春の心地よい気候の中歩くのはいいものですね。
対岸へは川を渡る必要がありますが
渡しは現在の高速道路の下付近にあったそうです。


その名も「血深の渡し跡」
ちょっとおっかない名前です。


平間神社を経てしばらく進むと
今回のゴールである富田橋に辿り着きます。
この先は難所の富田坂が待ち構えています。