2019年03月19日

熊野古道大辺路その1・紀伊田辺→紀伊富田

大辺路は熊野三山へ通じる「熊野古道」のひとつ。
全般的に難路が多いのが特長です。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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海沿いのルートであることから
海路や里道を利用した代替ルートも多くあったようで
今もルートの全容は解明されてない部分があります。

歴史的には熊野古道としては新しい部類で
江戸時代からは土木技術の発達で再整備はされたものの
熊野詣といえば中辺路を通るのが一般的でした。

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スタートは紀伊田辺。中世の中辺路との分岐点です。
出立王子には潮で身を清める「潮垢離浜」もありました。

中世の中辺路は川沿いを上っていくルートですが
大辺路は田辺市街地へと入っていきます。

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城下町でもあった田辺市街地は
江戸時代以前は湿地帯になっていました。
中世の中辺路が手前で分かれていたのはこういう理由です。

ところが次第に城下として整備されていくと
土地が改良され中辺路も市街地を経由する道筋になっていきます。

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城下らしい屈折した道が続く

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この立派な道標は江戸時代の分岐点に立ちます。

「左 くまの」と書かれてある下には
「すくハ大へち」という文字が刻まれています。

真っすぐ行くと大辺路ですよっていう意味ですが
大辺路は小さく書かれているところを見ても
熊野詣のメインは中辺路だったことがわかりますね。

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駅の南側の繁華街を進んでいくと闘鶏神社に出ます。
世界遺産に登録されています。

ここでルート的な疑問が沸いたのですが
今通ってきた道筋と大鳥居の位置関係が非常に不自然です。
普通なら街道沿いの目立つ場所に立っているものですが、
参道は大辺路と平行して城の方向に伸びてるんですよね。

もしかすると今通ってきた道は大辺路は大辺路でも
明治期に整備された別ルートの可能性も考えられます。

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バス停の名前に残る「つぶり坂」
昔からの名が残っているのは嬉しいものですね。
この坂はちょっとした難所だったのでしょう。

新庄駅付近で旧道に入ります。

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川沿いの橋のたもとにあった石碑には
「昭和21年南海地震」と書いてあります。

海沿いの街道なので
津波関連の碑を多く見かけます。

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その先の大潟神社参道にも
津波がここまで来たよ的な碑がありました。

ここは標高が比較的高い場所なのですが
地形的に津波が高くなってしまうようです。
津波の恐ろしさが想像ができますね。

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やがてお地蔵さんが現れました。
よく観察すると地名が刻まれ道標を兼ねています。

地図を眺めてみると大潟神社の横の坂を上らずに
このお地蔵さんまで続くルートも確認できます。

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真新しい道しるべを設置している姿を見かけました。

世界遺産に一部区間が登録されてからは
案内看板を統一していこうという動きがあるそうです。

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旧新庄峠への道筋。
峠は昔ながらの雰囲気が残っていました。

高地蔵さんが立派な祠におさめられています。

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国道を進んで朝来駅周辺へ。

田辺から出ている熊野本宮行きのバスは
朝来を経由するルートで走っているのですが
昔の街道も朝来を経由するルートがありました。

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やがて不動山。
山の左手には川が流れて崖になっています。
その崖沿いには旧道と思われる痕跡が残っています。
今の国道は切り開いた場所を通っているのですが
かつては難所になっていました。

昔の道筋はどんな形であったのでしょう?
紐解くポイントは2つ。中腹に波切不動尊があること、
もう1つは川沿いに明治水害の碑があることです。

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あくまで想像の域になってしまいますが
昔は治水技術が貧弱なので山中を抜けていたと考えるのが一般的で
ここも波切不動尊の前を通る形で水害を避けていたと思われます。

明治に入って馬車が通るようになってからは
川に沿った山を巻く形に進む道が完成したものの
明治水害によって崩落して通行止め→現在の道を切り開いた。
こんな流れだったのではないでしょうか。

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山の中には古い石積みが所々に残っています。

山の頂上に大きな石が横たわっているのですが
そこからの展望は気持ちの良いものでした。

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ここからしばらく川沿いを進みます。
春の心地よい気候の中歩くのはいいものですね。

対岸へは川を渡る必要がありますが
渡しは現在の高速道路の下付近にあったそうです。

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その名も「血深の渡し跡」
ちょっとおっかない名前です。

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平間神社を経てしばらく進むと
今回のゴールである富田橋に辿り着きます。

この先は難所の富田坂が待ち構えています。




  
posted by にゃおすけ at 10:30 | Comment(0) | 熊野・紀州への街道 | 更新情報をチェックする

2019年03月06日

京伏見街道(有馬道)・大阪府池田市→宝塚

京伏見街道は京から西国街道を経由して
池田市、伊丹市、宝塚を経て有馬温泉に至る道です。

大阪に住んでいる自分でも???な街道なのですが
宝塚付近では案内看板類があるほどメジャーな呼び方で
他の地域では有馬道と称することが多いようです。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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西国街道の瀬川追分。

この日の朝は放射冷却の影響でかなり冷えました。
大阪市内と比べると標高があるので霜がおりています。

京伏見街道はここからほぼ一直線に西へと延びています。
ルート自体は慶長10年の国絵図にも描かれるほど古く、
京との交易の他、湯治や寺社の巡礼にも使われています。

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住宅街の中を進みます。

ふと、有馬道の案内看板が目につきました。
自治体が作るマップは偽の迂回ルートが書いてたりするものですが
当マップは古絵図の通りの道筋が描かれいて嬉しい限りです。

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マップに書かれてある井口堂の道標がこちら。
「右、大坂」とあるように能勢街道との分岐点になっています。

真ん中の自然石も道標になっていて
「右ハ 大坂道」「左ハ 京道」とあります。

井口堂というと池田では知ってる人が多い地名ですが
「井口」とは用水の取り入れ口を意味するもので
「堂」は堰や水門を意味するものを合わせたものです。

てっきりお寺のお堂が由来と思っていたのですが
それはどうも違っていたようですね。

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この追分付近にあったのが二子塚古墳。

古墳時代の摂津は海が内陸まで入っていたことから
内陸部で古墳を見かけることができます。

6世紀前半の築造で石室のうち1つは
第2次世界大戦時に防空壕として利用されています。

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さらに進むと池田城下への分岐の追分があります。
左が京伏見街道、右が池田経由の能勢街道になるのですが
資料によって池田城下を経由するものがあるんですよね。

ところが、古絵図で確認すると左が正解です。
城下は通らせないほうが防衛上良いわけですが、
距離短絡の意味においても理にかなっています。

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追分にはお堂と道標があります。
通称・ニシンジョ道標です。

「右ハ いけだみち」「左ハ ありまみち」。

先ほどの井口堂の道標と様式が同じなので
同時期に作られたと思われます。

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この左手のマンション辺りに
一里塚があったそうですが痕跡がありません。

明治初期の地図では辛うじて道筋がわかるのですが
中期の時点で確認困難になってるので仕方ないところですね。

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阪急宝塚本線をくぐります。

阪急線って正式名では本線って付くんですね。
宝塚線というのは愛称みたいなものらしいです。

さて、街道沿いは古くからの道らしく
石仏があちこちにあるのは嬉しいところです。

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狭い道に入っていくと
通勤の人々がたくさん歩いていました。
ちょうど時間は8時ごろです。

その通勤の人々が向かった先は「ダイハツ」
街道の目の前にドーンと現れます。

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道筋は残念ながらこの先で消滅しています。
猪名川を渡って大きく迂回するしかありません。

猪名川大橋を渡ります。
川上からの風で体が冷えます。

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猪名川というと毎年夏に花火大会があります。
規模が大きい割にゆったり見れる穴場の花火大会で
行き帰りの交通の便も良いのでよく見にいっています。

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下加茂の集落から街道が復活します。

猪名川の水量を考えると渡し舟が存在したと思うのですが
探してもなかなか該当資料が見つかりません。

ここより下流の西国街道でさえ渡河だったことを考えると
もしかすると渡し舟がなかったのかもしれませんが
渡河を前にした茶屋ぐらいはあったことでしょう。

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伊丹台地へと上る坂道。
京伏見街道唯一といえる急坂なので
名前があったと思われますが資料不足でわかりません。

この先の街道は伊丹台地上を進んでいくことになります。
加茂の集落で池田城下からの道筋と合流します。

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加茂集落の中心部にある阿弥陀寺。
ここに道標が移設されています。

「右 のざと」、「左 にしの宮」

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野里というと大阪に住む人だと西淀川と思いがちですが
ここでいう野里は山本野里の場所を指すようです。

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やがて追分。
1672年の道標が立っています。

「右ハ 小M道」「左ハ 西宮道」

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表示が正確なことから
元からこの場所に立っているのでしょうね。

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川西市から宝塚市にかけての大きなマップ。
集落ごとに名前があるのは実にわかりやすい!

この付近から増えてくるのが造園業です。

なぜここまで多いのかですが
台地上で水利が良くなく田を作るに適してなかった?
と、想像できるのですが詳細は不明です。

ただ元禄年間に大阪の天満へ出荷という資料があるように
特に山本辺りは古くからの歴史があるようです。

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水利が良くなかったという証拠に
この辺りには今も溜池が多く残っています。

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京伏見街道の看板が現れました。

この道を挟んで右側が宝塚市、左側が伊丹市です。
宝塚市内ではこの看板をよく見かけます。

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「すく 池田 京 道」
「右 中山 道」
「左 大坂 伊丹 道」。

当街道は巡礼道の側面も併せ持っています。
中山とは西国三十三か所の中山寺のこと。

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街道随一の大きな神社が天日神社。
御祭神は天忍穂耳命と火魄命です。

境内には尼崎藩領境石が移設保存されています。
元々はバラで有名な荒牧地区にあったもののようです。

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大きな溜池の横を進みます。
かつてはこのような光景が多かったことでしょう。

やがて左手から大坂からの有馬道と合流し小浜宿へ。

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この先、宝塚まで歩きましたが
有馬道の項で書いているので割愛させてもらいます。

有馬道その2・神崎津→小浜宿→宝塚
http://borabora.seesaa.net/article/463072215.html

今回は前日になって急遽歩けるようになったのですが
日頃から半日で歩ける道を幾つか準備していたおかげで
歩き装備を準備するぐらいで街道歩きができました。

道中は10km程度のものとなりましたが
京都方面からの利用が多かった街道だけあって
どことなく大阪からの有馬道と違った雰囲気を楽しめました。

次回は宝塚-有馬温泉の道筋を歩きます。
いよいよ有馬道のクライマックスになります。



  
posted by にゃおすけ at 10:02 | Comment(0) | 有馬温泉への街道 | 更新情報をチェックする