地元の有志の方々が切り開いた知られざるルートが満載で
やや難易度が高くなっています。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

和深駅をスタートし集落を抜けていくと
世界遺産登録区間である「新田平見道」に入ります。
大辺路の中でも保存状態の良い区間のひとつで
約50m以上にわたって幅広い石段と石畳が現存しています。
今も一部の石畳が土の中に埋ってるとのことですが
保存のため発掘せずそのままにしているそうです。


「平見」とはこの辺りに多い名称です。
海岸に突き出た小山の総称のことをいうのですが
海岸段丘によって形成されています。
木々を見てると東海道などでは見られないものが多く、
どこかジャングルのような雰囲気を醸し出しています。
本州最南端の暖かい場所なんだなと実感しますね。


集落を過ぎ再び山道へ。
山道と海沿いを繰り返すのは地形的なものなのでしょう。
海岸線は相変わらず岩がゴツゴツした感じですし、
歩きやすさを求めて山へ進路を求めるのも納得できます。
この山道は和歌山県の街道マップにない区間で
多少荒れてはいるものの雰囲気は良いものでした。


落石があったり道が消滅した箇所もあるのですが
GPSと現地の案内標識を頼りに行けばなんとかなります。
特に登山道でもよく見かけるリボンの類は
道筋をそのまま示してくれているので大変助かりました。


田子駅前を抜けると再び海岸線へ。
この辺りも特長的な海岸が続いています。
JR線をトンネルでアンダーパスすると
世界遺産登録区間である「富山平見道」の入口です。



大辺路で最も規模が大きい石畳が約200mに渡って残っています。
石畳は雨水などで路面が痛みやすい区間に作ることが多いですが
ここの特長は驚くことにサンゴが埋め込まれた箇所があります。
天然の岩を利用した場所もあって雰囲気がいいですね。



国道や鉄道建設で消滅した箇所が多い大辺路ですが
富山平見道の状態が良いのは道路整備から取り残されたのが理由で
良い意味で歴史に埋もれてしまっているということなのでしょう。
近代になって道普請が行われなくなり、
豪雨にさらされたりイノシシに荒らされたりしたものの、
地域の人々の努力によって見事に蘇っています。


再び海沿いの国道へ。
この地域に特に多いのが「徳本塔」と呼ばれるもの。
これは紀伊国日高郡出身の念仏行者「徳本上人」をしのんでのもので
全国に約3000基はあるのだそうです。


続いての難所は「堤の宝篋印塔」通称・つつみ地蔵の区間。
これも和歌山県の街道マップには載ってない区間です。
今回の道中では2番目にハードでした。
まず、リボンの道案内はあっても道筋がほとんど不明瞭。
倒木多数の荒れ放題でどこを通っていいのかまるで迷路状態。
冬場のこの時期ですらこの状態ですから
夏場のことを思うとゾッとします。



大木に囲まれてつつみ地蔵が鎮座されています。
ここから田並地区への下り道も不鮮明です。
地元の人でも滅多に訪れない場所なのでしょう。



大辺路の看板も倒れてました。
こうなってくるとGPSだけが頼りですね。
人の手が入った場所に出ると一安心。
フェンス沿いに下ると田並集落に出ることができました。



次は世界遺産登録区間である飛渡谷道(とびやたに)です。
この辺りはサンゴを焼いてできる灰を作る仕事が盛んで
漆喰の粉なので和歌山城などに出荷されていたといいます。
道自体はとても歩きやすく石畳もよく残っています。
やはり世界遺産登録の区間は整備されていますね。



途中には有田と田並の境界標柱が立っています。
明治〜大正期にかけて漁場境界争いが多かったのですが
前回の道中でもこういう標柱がありました。


有田集落を過ぎると再び山道へ。
その途中に「いせ道道標」がありました。
「左いせみち 右やまみち」
文久年間のもので移設保存されています。
大辺路で唯一のいせみち道標ですが
伊勢の手前に熊野三山があるこの地において
伊勢詣が活発だった証拠でもありますね。

かつての難所の逢坂峠。
今は舗装されて歩きやすくなっていますが
厳しい場所だったからか石仏が多く残っています。


潮岬を遠望
やがて串本海中公園を右手に見て海岸線へ。
ふと視線を進行方向に目をやってみると・・・
ありました!東雨の洞門(通称・大辺路の通り穴)です。

浸食が激しい旧国道の地盤を恐る恐る進むと
ぽっかりと開いた大きな開口が目の前に現れます。


この大きな洞門は旧国道建設時に明治に作られたもので
それ以前の洞門は右下に存在していたのですが
双方とも崩落の影響で現在は通ることが出来ません。


江戸時代の通り穴の入口
崩落は2015年〜2016年にかけておきたようですが、
今も現在進行形で続いてるようで近づくのは要注意です。

これが明治以前の大辺路の通り穴の内部。
人が1人通れるような大きさです。
古文書に「通り穴」「岩穴」「石門」と記載がある有名な場所で
弘法大師が杖の一突きで穴を開けたという伝説があります。
この洞門付近の道筋ですが
波の穏やかな日や干潮時は距離が短い海岸道を通るものの
荒天時は東雨から分岐する山道ルートを通っていたようです。

トンネルで迂回して反対側から見ると
見事に崩れている様子がわかります。
この東雨の洞門については
詳細に書いたサイトありましたのでリンクしておきます。
隧道レポート 国道42号旧道 旧高浜隧道
http://yamaiga.com/tunnel/takahama/main.html

海沿いを進みます。
この辺りでも石塀が高い家々を多く見かけますが
中には地面を嵩上げしている家もあります。
津波などからの浸水対策なのでしょうか。
大辺路では津波からの避難路の看板もあちこちで見かけます。

さて、今回の道中で1番ハードだったのが
袋平見集落跡を経由する古道です。
途中までは津波の避難路としての役割で
整備されたわかりやすい道になってはいるのですが
そこを過ぎれば倒木多数の道なき道になってしまいます。


袋平見集落跡。
家の敷地を囲んでいたであろう大規模な石積み群。
かつては人がいた場所は完全に眠りについています。


大辺路の看板があります。
この辺りで右方向に折れていくわけですが
左方向にも道自体は続いていてリボンの目印があります。
でもリボンを良く見ると地籍調査と書かれてあって
どうも古道を示すものではないように思いました。
うーん、まぎらわしい。

下山道もまた道なき道です。
微かな平場を探しつつ急斜面を下りていくと
またもや大辺路の看板がありました。
安心したのもつかの間、
周りを見渡しても道らしきものがないのですよね。

ここまでの大変な経験は地方街道で何度かあるのですが
まさか、熊野古道大辺路で経験するとは思いませんでした。
「大辺路半端ないって!!」
まさにこの言葉がぴったり。
特に串本周辺ではしっかりした装備で歩きましょう。


下山するとなだらかな車道を進んでいきます。
平行する鬮野川(くじがわ)は空川のようです。
左手の道標地蔵様には
「右 在所道」「左 若山道」と書かれています。


「しりでの坂」を下ります。
橋杭岩や紀伊大島を遠望できました。
本来の大辺路は今回の鬮野川沿いのルートになるのですが
江戸時代後期になると串本周辺が発展していったので
海岸部を回る道も使われるようになっていきます。

道標地蔵様。「右ハ わかやま」
果樹がなる木々があるのは和歌山らしい光景ですね。


やがて古座市街地へ。
渡し場へ続く古い家並みを抜けると古座川にぶつかります。
今回はこの渡し場跡でゴールとしました。


それにしても今回と前回ともども、
地元の有志による懸命な開拓のおかげで
昔のルートを知りたい自分にとって満足な歩きができました。
熊野古道大辺路歩きは残り2回になりました。楽しみます。