2019年06月19日

『街道プレゼン』ブランク明けの街道歩きと長崎街道

いってきました!長崎街道。
長距離遠征は1年ぶりになりました。

近場で短い距離の街道は歩いていたのですが
運動不足は否めず今回は体力的に不安がありました。

全盛期ならば1日40kmの行程を組んでいたのですが
無理して距離を稼ぐと故障がつきものです。
万が一2日目で大きなマメが出来てしまったなら
その後の行程に支障が出てきてしまいますし、
近場ならまだしも遠征となると慎重になります。

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今回の道中は北九州の門司〜佐賀県吉野ヶ里までの区間。
1日30kmほどを4日に分けて歩きました。気候は晴天!
気温は心地よい高めというGWらしい街道歩きです。

まずは結果として申し上げますと、
完歩はしたものの体力が落ちてるなーと実感しました。

その一つに持久力。

なんとか距離はこなせたのですが
20km過ぎからペースがガクんと落ちました。
少し歩いては休み、少し歩いては休みの繰り返しです。

これは以前だと35km過ぎから出ていた症状で
あまりにも早い疲れに自分自身驚きました。

とはいえ、街道歩き後の足の具合は普通で、
ほのかな疲労感は以前と全く同じ感じでした。
マメは出来てないですし筋肉痛も出ませんでした。
これは長年歩いてきた積み重ねかもしれません。

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今回の道中ではハプニングがありました。
実は歩く1週間前にインフルエンザに罹ったのですが
たまに咳だけは出る感じが続いていました。

歩いていると咳が不思議と増えてきて
2日目の夕方からゴールにかけては特に酷くなり
宿に着いた頃には熱が40度まで上がっていました。

ここまで来ると意識が朦朧とするもので
翌日の宿をキャンセルし新幹線の予約も変更しつつ
街道歩きの中止を念頭に帰り支度を始めていました。

ところが日付が変わるころには熱が下がり
朝には何事もなかったように収まっていたんですよね。
うーん、どうしようかと、悩んだのですが
手は勝手に再び新幹線と宿の手配を始めていました。

どうしてここまですぐ回復したのか!?
それは急患に診てもらったからです。

幸いにして宿の隣が急患センターでした。
田舎の町ならばタクシーに乗って移動しないと
病院がないこと多いので運が良すぎました。

処方されたのは咳止めとロキソニン。

ロキソニンは足の痛みを和らげる目的で使うことがあったのですが
今回のような急な熱発にも対処できるなんて驚きました。
これからは万が一のことを考えて携帯していこうと思います。

その後、3日目、4日目と歩き通しましたが
薬は服用していたもののいつも通り歩くことができました。
もし、あの時、急患に行かず家に帰っていたとしたら
めちゃくちゃ後悔してただろうなーと思います。

何かあったらまずは病院。大事ですね!

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ところで、この日は長崎街道の写真をネタにしての話もしました。
詳しくは後ほど記事に書きますが2つだけ紹介します。

上の写真は長崎街道のプレートですが
現地に行ってびっくり。案内看板があちこちにあるんですよね。

正直、大阪に住んでいると地方の街道の一つという認識だったので
地元の長崎街道に対する熱意みたいなのを感じることができました。
現地に行かないとわからないことが多いですね。

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鳥栖付近にある太刀洗峠の光景です。

いつも思うのは案内看板に旧写真が含まれていると、
昔と今の対比が容易なので字だけのものより何十倍も嬉しいです。

この場所の国道はひっきりなしに車が通る場所なのですが
現地で昔の写真を見てると隔世の感を実感できました。






posted by にゃおすけ at 13:49 | Comment(2) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする

2019年06月04日

【街道シンポジウム】家康の霊柩の道・久能街道

1年ぶりに街道シンポジウムに参加してきました。
今回のテーマは「家康の霊柩の道」でした。

徳川家康は元和2年4月17日に駿府城で没すると、
密かに久能山に運ばれ、通夜も行なわず埋葬されています。
その時に使用された道筋が久能街道になります。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

家康像がある辺りが本丸御殿跡で
恐らくこの辺りで亡くなったと思われます。

駿府城は天守が焼失した後は天守台のみ残っていたのですが
廃城後の明治29年に天守台までも取り壊されしまいます。
その時に出た土砂で本丸堀が埋め立てられています。

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訪問時は大規模な発掘調査中でした(2020年2月まで)
金箔の瓦や豊臣期の石積みなどが露わになっています。

駿府城というと未確認物体「肉人」が文書に残っています。
天から光が差して乗り物が下りてきたような記述があるので
宇宙人か?それとも妖怪か?気になる方は検索してみてください。

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大手門を出てお堀沿いを進みます。

さすがは江戸期の石積みらしくが立派ですが
2009年の静岡地震の影響で今も所々で爪痕が残ります。
中には膨らんでしまってそのままの場所も。

新静岡駅付近を過ぎると東海道に合流します。
静岡はかつて「府中」と呼ばれていました。

府中宿は静岡空襲によって昔の家並みはなくなっていますが、
伝馬町付近は若者の町の雰囲気があり活気があります。

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絵図に久能道が見えます。
元々は久能寺への参拝道だったものが
家康が埋葬されてからは東照宮の参拝道となり、
参勤交代の大名もこの道を通って寄り道をしたそうです。

久能街道は参拝以外にも海産物や塩を届ける目的もあって
古代から現在に至るまで駿府の発展を支えた街道だったといえます。

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この駐車場の角が久能街道と東海道の追分です。
かつては久能山東照宮里程標塔(大正4年)があったのですが
静岡駅前に移動させられています。

下の写真はJRの高架手前にあった日切地蔵尊です。
久能山東照宮に向かって建てられています。

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元々は安南寺の中にあったのですが
安永年間に行者が門前で倒れたという出来事からは
駿府中に疫病が蔓延するようになったのだそうです。
悩んだあげく地蔵様を門前に移設すると収まったというお話です。

自分の心の中で
「いついつまでお参りするので願いを聞いてください」など
日数を決めてお参りするとご利益があるといいます。

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「つつじ通り」は久能街道を一部拡幅してのものですが
南幹線との交差点からは一気に狭くなります。

「南幹線」は静岡では有名な通りです。
他に北に「北街道」、真ん中に「国1」がありますが
北街道は東海道制定前の街道筋になるそうです。

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歩道がないにも関わらず交通量は多めです。

左手に見えるイタリア軒はラーメン屋ですが
店の前の雰囲気や店の構えは20年前と変わりません。
静岡の人なら知ってる人が多いお店です。

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八幡神社の手前で右にカーブします。
一見すると直進が旧道に見えますが戦後の道なのです。

八幡神社の参道入口には昔は街道に面して鳥居がありました。
その隣には大きな門もあったのですが静岡空襲で焼けています。

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八幡神社。
久能街道はここの宮司が治めていた時代もあったそうです。

そういうことからか狛犬の下の中央に〇が見えますが、
これは葵の御紋です。台座は富士山の溶岩で出来ています。

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かつての八幡神社の様子を見ると
江戸時代の山は今より広大で南幹線を越えた先までありました。

明治になって石切が活発になってからは現在の大きさになり
東名高速建設時は用土として山全体が行政に買い取られ
平地になる計画まであったといいます。

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神社前の道筋は多少拡幅されているものの狭さは否めません。

少し歩いた先、有東山の手前付近のルートですが
家に帰ってからルートミスしていたことがわかりました。

先ほど書きました八幡神社前で分岐した戦後の道は
どうも南半分は本来の旧道になるようです。

今回、我々が歩いた該当部分は
昭和12年の航空写真を見ると真新しい感じに見えます。
また今昔マップにおいては大きく蛇行した道筋になっていて
直線道路になっていないというのも理由の一つです。

今後歩かれる方はどうぞお気をつけください。

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先へ進みましょう。
この場所の左手は暗渠になっているので
昔は車一台がやっとの広さだったのでしょう。

やがて、SBS通りと交差し消滅しますが
東名高速と交差する手前で再び旧道が現れます。

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ここから復活

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遠くに富士山が見えます。長閑な田園風景です。

昔の航空写真を見てみると家は殆どなく
今よりもっと長閑な光景が広がっていたことでしょう。

足元には昔の路盤が少しだけ露出していました。

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戦前の古い石橋

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津波を警戒してかこのような標識をあちこちで見かけました。

静岡市は津波の警戒も大事なのですが
水害も多い地域なので対策が行われています。

特に酷かった水害といえば「七夕豪雨」です。
アニメのちびまる子ちゃんでもやってましたね。

この大谷川放水路は清水側に抜ける巴川の氾濫防止のため
巴川から分岐するバイパス水路として1999年に完成しています。

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進路を東向きに変えて海沿いを進みます。
旧道は国道150号線より一つ山側を通っています。

西平松地区の閻魔堂。
通行人の休憩所と安全を願う場所とされていました。
その傍らには今の上皇さまが皇太子になった時を記念した碑も。

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この辺りは「石垣いちご」の産地です。
今は「久能いちご」と呼ばれるほうが多いかもしれません。

昼間に太陽の熱で暖められた石垣で
夜間の土壌の温度の低下を防ぐ栽培方法で
本来は初夏の食べ物だったのが真冬でも食べれるようになりました。
冬でも温暖で久能山の斜面が立地的にも最適だったようです。

それまで砂地だった当地は米作に向かない土地で
サツマイモの他、家康が好物だった折戸茄子の栽培をしてたのですが、
石垣いちごの成功で、それらの栽培は一気に衰退していきます。

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日石の古い廃スタンド。
マークが現存していているのは激レアですね。

久能山東照宮への参道が見えてきました。

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久能山は海底の地層が隆起した山です。
砂が堆積した砂瀝層でできているためにとても脆く、
雨水や波に浸食され今の形になっています。

ちなみに三保半島は久能山が波で削れた砂で出来た島で、
次第に砂が堆積して半島となった経緯があります。

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門前町を経て久能山東照宮の参道へ。

下から見るとかなりの高さで大変そうに見えますが
実際は何重もの九十九折になっていて勾配は緩く、
15分ほどで登ることができます。

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久能城だった当時はこれほど立派な石段ではなかったものの
参道は大手門につながる道として機能していました。

生前、家康は「久能城は駿府城の本城」と言っていたほどで
駿府城は平城なので防御は弱いので決戦になった時は、
久能山を最後の砦として考えていたそうです。

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大崩海岸や遠くは御前崎まで見えます。

ちなみに日光という名前は家康の読み違えでついた地名です。
日光山は元々は「二荒山」という名前だったのですが、
これを「にっこう」と呼んじゃったわけですね。

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拝殿が近づくにつれ古い常夜灯がズラリと並びます。
一様に年代を見ると元和年間のものです。

そう、家康が運びこまれた時代のままです。
手洗い場の石も元和年間のものでした。

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拝殿は国宝です。
よく見ると葵の御紋が逆さになっているものがあります。

「あえて中途半端なままにする」考え方がありますが、
完成すれば後は「朽ちるのみ」となってしまうことから
家康を祀る神社として永久に残って欲しい意味があるのだそうです。

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拝殿の奥にある家康公のお墓でゴールとしました。

家康公の亡骸は埋葬された翌年に日光に改葬したのが定説ですが
実際は日光をはじめ全国の東照宮には御霊が安置されているのみで、
当時掘り起こした事実はないので今も久能山にあると言われています。

おわりに。
今回、久しぶりに静岡を歩くことが出来ました。

静岡には3年間住んでいた場所だったのですが
当時、車で走っていた所が実は街道だったなんて!!など
趣味が変われば見方が変わるもので新たな発見がありました。

久能街道は10q程度ということもあって、
気軽なハイキングにもオススメできる街道です。







posted by にゃおすけ at 16:45 | Comment(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする