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長崎街道は江戸時代に整備された脇街道の一つでした。
九州諸大名の参勤交代などの利用はもちろんのこと、
鎖国下で外国との交易ができる長崎に通じる街道として
異国に関連する利用があったことも特筆されるものです。
長崎街道の起点ですが諸説あるので非常に悩みました。
西国街道を東から歩いてきたので海底国道を歩いて繋げるか、
それとも小倉の常盤橋から歩き始めるかー。
結局、門司近くの大里宿から始めることにしました。
本州への渡船は初期は小倉城下からがメインだったのですが
混雑が嫌われ次第に大里宿経由に変わっていったことが理由です。


大里宿はレトロな建物が目立ちます。
門司の場所は本州に近いことから江戸時代は宿場として発達し
明治以降においても早い段階で近代化が行われています。
大里という名前は古い時代は天皇の御所(内裏)があったそうで
それが今も名残として残っているといいます。

番所があった付近は本土との渡海口にあたります。
舟の出入り、人馬の手形改め、荷抜けの取り締まり場所でした。
この番所は1799年に完成しています。
この完成を見て長崎街道の起点が大里宿となった説があります。
ちなみに小倉から大里の区間は門司往還とも呼ばれています。


さくらビールのレトロ建物(門司麦酒煉瓦館)
手前は資料館になっていて見学ができます。
この先の街道は一本道で小倉へと続きますが
所々で鉄道によって分断された場所があります。
広大な鉄道敷地はかつての石炭輸送の名残なのでしょう。
山と海に挟まれた狭い場所なので鉄道輸送を優先するために
街道が犠牲になったのは仕方なかったかもしれません。



海岸線は「企救の高浜」と呼ばれ白砂と美しい根上り松が美しく
万葉集でも謳われた風光明媚な場所だったわけですが
今は道路が整備されて面影がなくなってしまっています。
下の写真は小倉城下の入口である門司口橋です。
橋を渡った場所には小倉城郭の門の一つ門司口門がありました。
長崎街道の門ということで最も重要な扱いとなっていたので
昼夜問わず常に開門していて役人は交代で勤めていたといいます。


常盤橋までほぼ一本道で進んでいきますが
途中、街道がデパートの中に吸い込まれます。
まるで中山道にある八木橋百貨店みたいな感じです。
街道跡と思われる場所は通路になっていますが
八木橋百貨店にあったような街道の案内はありませんでした。
とはいえ、北九州地区では案内看板をあちこちで見かけます。
関西に住んでいると長崎街道は地方街道の一つと思いがちですが
現地では予想を超える長崎街道推しに驚いてしまいました。



商店街を抜けると常盤橋です。
九州五街道の起点。江戸でいう日本橋のような場所です。
常盤橋は江戸時代の初期は町人が生活する東側と
武士が生活する西側を結ぶ重要な橋として架けれられています。
その後、幕府役人の施設が出来たり旅籠が立ち並んでいきます。
それにしても立派に復元された橋です。
川幅自体は治水対策で広げられてはいるものの
橋を渡る人々の光景は昔を思い起こさせてくれます。



小倉城下は他の城下町と同じく
敵の侵入を防ぐ意味で屈曲した道が続きます。
マップを見ながら歩いても迷うような道筋ですが
地面には長崎街道のプレートが埋め込まれてあって安心です。
旧小倉駅である今の西小倉駅前には大門跡がありました。
小倉城は東西2q、周囲8kmもの日本有数の大きさで
48ある門のうちの一つが大門になります。
地面には透明のアクリル板を通して遺構が見れました。



到津門口跡、清水口門跡を過ぎて城外へ。
この辺りまで来ると住宅街の様相になっていきます。
ふと、煉瓦の橋脚の遺構が左手に現れます。
九州鉄道の茶屋街橋梁です。

九州鉄道は今の鹿児島本線の一部ですが
開業時は軍の意向で海岸沿いではなく山沿いを経由しています。
通称「大蔵線」で明治年間のうちに廃線となっています。
この橋梁の面白いところは
街道側はパッチワークのような装飾が施されています。
当時はまだまだ鉄道を使わず歩く人が多かった世の中ですから
装飾は街道を行く人々の恰好の宣伝になっていたことでしょう。


特長的な皿倉山が見えてきました。
板櫃川を渡る場所は江戸時代は橋はなく
大きな石を飛び移ったり川の中を歩いて渡っていました。
橋は明治20〜31年の間に架けられています。


この付近の街道筋は大きく消滅しているのですが
随分と早い段階(明治期)で区画整理が行われたようで
その場所には企業の社宅が建ち並んでいたみたいです。

国境石。
この付近は福岡藩と小倉藩の境界で
川の氾濫などで境界が曖昧になったりで紛争が多発した地域でした。
そのため国境石が多く今も13基が残っています。
やがて街道は八幡地区へと入っていきます。
八幡といえば国営の八幡製鉄所が有名ですね。


道筋は製鉄所の敷地などで消滅してる箇所があるのですが
高速道路の下にモニュメント的な道があったのは嬉しいものです。
この近くには「いのちのたび博物館」があります。
自然史と歴史が合わさったような展示内容でしたが
街道資料が豊富なので入っていて損はありません。


レトロ建築が多い八幡駅付近。
皿倉山が目の前に現れます。
やがてJRの踏切を渡って信号を越えると黒ア宿入口です。
黒ア宿は黒ア城と黒ア湊で発達したので
中心地は黒ア駅付近より東側ですが東西に長い宿場でした。
湊は大坂への航路があり福岡藩の重要な役割がありました。
洞海湾には他に貨物用の若松湊もあったようです。


黒ア宿東溝口。
九州では宿場の出入口のことを「溝口」と呼ぶのが一般的です。
本州でいう木戸のようなものです。
「東」は方角的なものではなく江戸側を東と付けられています。
ちなみに本陣は御茶屋と呼ぶのが一般的です。


黒ア宿内は昔の風情はそれほどありませんが
地名の「舟町」を見ると湊だったことを実感します。
湊にあった当時の常夜灯は東溝口付近に移設保存されています。



春日神社の手前を進み商店街へ。
アーケード内は閑散としていましたが日の丸がいいですね。
この日は乱橋付近でゴールとしました。