今回の台風では被害が広範囲に渡っており、
街道歩きで歩いた場所が多く、気になる毎日です。
北陸新幹線の車庫が洪水でやられたという被害がありました。
上の写真をご覧ください。
過去の洪水の被害がどれほどだったものかを示すもので
水位の高さ以外にも洪水の回数も頻繁にあったことがわかります。
実はこの水位標は車庫のすぐ横に立っています。
車庫の場所は洪水が頻繁におこる場所だったのです。
この水位標の説明文ですが、
何世代にも渡る千曲川の氾濫の歴史の中で
洪水に対する先人の苦労を偲び建設したものとあります。
災害の多い地域にはこういう碑や文献が多いですね。
東日本大震災の津波においても
「ここの場所から家を建てるな」というような碑がありましたが
実際に碑より山側には水が来ることなく助かったといいます。
近年の治水はダムや堤防の能力の向上など、
江戸時代に比べて格段によくなったことは確かでしょう。
ですが、災害があったという事実は消えないものなので、
先人の教えは本当に大事にしていかないといけません。
車庫は過去100年の水害でこの程度なら大丈夫だろうと
嵩上げしたりと対策していたとどこかの記事にあったのですが、
100年と言わず江戸時代まで遡っていたらと思うと残念でなりません。
いざ決壊してしまうと江戸時代の洪水とさほど変わらないわけですし。
さて、話は変わりまして松代道についてお話します。
今回の千曲川浸水域である穂保地区を貫く街道で、
豊野付近で北国街道と分岐して屋代で再び合流するという
言わば北国街道のバイパスという機能を持っていました。
興味深いのは「雨降り街道」と呼ばれていた点です。
本道である北国街道は丹波島や篠ノ井あたりの渡しがネックで
雨が降った際の松代道は普段以上の通行量があったといいます。
無論、千曲川が決壊するような時は松代道もアウトでしたが。
昔の街道は大規模な被害がおこると
復旧することを放棄することがしばしばありました。
ようするにルートを付け替えたり、高台に移ったり、
宿場や町を丸ごと移転ですが今の時代なかなか出来ないことです。
穂保地区に関してはそういう移設の歴史はなかったようなので、
千曲川が決壊したとしてもすぐに復旧させる理由があったのでしょう。
北国街道のバイパスとしての重要な役割もその一つです。
この地は長沼と呼ばれることがありますが、
戦国時代まで遡れば、長沼城の城下町であり、
廃城後は長沼宿という宿場町でもありました。
興味深いのは戦国時代において珍しい平城だったことで、
一般的な山城にせず、あえてこの地を選んだということは
北方への睨みを効かせる意味で重要な場所だったといえるでしょう。
北国脇往還松代道・平出追分→矢代宿
https://borabora.seesaa.net/article/443139674.html
一日も早い復興を願うとともに皆々さまのご無事をお祈り致します。