2019年10月16日

北陸新幹線の車庫の浸水と松代道に思う

被災された皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。

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今回の台風では被害が広範囲に渡っており、
街道歩きで歩いた場所が多く、気になる毎日です。

北陸新幹線の車庫が洪水でやられたという被害がありました。

上の写真をご覧ください。
過去の洪水の被害がどれほどだったものかを示すもので
水位の高さ以外にも洪水の回数も頻繁にあったことがわかります。

実はこの水位標は車庫のすぐ横に立っています。

車庫の場所は洪水が頻繁におこる場所だったのです。

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この水位標の説明文ですが、
何世代にも渡る千曲川の氾濫の歴史の中で
洪水に対する先人の苦労を偲び建設したものとあります。

災害の多い地域にはこういう碑や文献が多いですね。

東日本大震災の津波においても
「ここの場所から家を建てるな」というような碑がありましたが
実際に碑より山側には水が来ることなく助かったといいます。

近年の治水はダムや堤防の能力の向上など、
江戸時代に比べて格段によくなったことは確かでしょう。

ですが、災害があったという事実は消えないものなので、
先人の教えは本当に大事にしていかないといけません。

車庫は過去100年の水害でこの程度なら大丈夫だろうと
嵩上げしたりと対策していたとどこかの記事にあったのですが、
100年と言わず江戸時代まで遡っていたらと思うと残念でなりません。
いざ決壊してしまうと江戸時代の洪水とさほど変わらないわけですし。

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さて、話は変わりまして松代道についてお話します。

今回の千曲川浸水域である穂保地区を貫く街道で、
豊野付近で北国街道と分岐して屋代で再び合流するという
言わば北国街道のバイパスという機能を持っていました。

興味深いのは「雨降り街道」と呼ばれていた点です。

本道である北国街道は丹波島や篠ノ井あたりの渡しがネックで
雨が降った際の松代道は普段以上の通行量があったといいます。
無論、千曲川が決壊するような時は松代道もアウトでしたが。

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昔の街道は大規模な被害がおこると
復旧することを放棄することがしばしばありました。

ようするにルートを付け替えたり、高台に移ったり、
宿場や町を丸ごと移転ですが今の時代なかなか出来ないことです。

穂保地区に関してはそういう移設の歴史はなかったようなので、
千曲川が決壊したとしてもすぐに復旧させる理由があったのでしょう。
北国街道のバイパスとしての重要な役割もその一つです。

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この地は長沼と呼ばれることがありますが、
戦国時代まで遡れば、長沼城の城下町であり、
廃城後は長沼宿という宿場町でもありました。

興味深いのは戦国時代において珍しい平城だったことで、
一般的な山城にせず、あえてこの地を選んだということは
北方への睨みを効かせる意味で重要な場所だったといえるでしょう。

北国脇往還松代道・平出追分→矢代宿
https://borabora.seesaa.net/article/443139674.html

一日も早い復興を願うとともに皆々さまのご無事をお祈り致します。



  
posted by にゃおすけ at 13:46 | Comment(0) | つぶやき | 更新情報をチェックする

2019年10月08日

長崎街道その3・飯塚宿→冷水峠

「九州の箱根」と言うべき冷水峠へ!


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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飯塚宿の中心部はアーケード街になっています。

さすがに朝は閑散としていますが
鯉のぼりが泳ぐ様はGWならではですよね。

宿場内には「問屋場跡」といった
昔の様子がわかる標識が数多くありました。

そのうち明治時代のポストのモニュメントには
当時は1人で25sの荷物を2時間で20km運ぶとありました。
これがノルマだったようで恐ろしいですね。

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街道から少し離れたところにある「飯の山」は
飯塚宿の名前の由来のもので昔の絵図にも描かれています。

一説には聖光上人が人足のまかない飯を依頼したところ
何かの都合でご飯が沢山あまってしまったのだとか。

それで、この地に塚のように高く積み上げたので、
ここを「飯の塚」→「飯塚」となったといわれています。

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飯塚宿の西側は河川によって地形が変わっています。
上の写真の場所には白水橋が架けられ飯塚川が流れていた場所で
1975年に埋め立てられて地中化されています。

元の川筋は空中写真から痕跡がなんとなくわかる感じで
川幅は30m〜50mほどあったみたいですね。

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筑豊らしい山々があちこちに見られます。

中にはボタ山という石炭のゴミ捨て場がありますが、
閉山から年月が経って素人目にはわかりづらいものの
高く積み上げられた姿は筑豊の繁栄の象徴に他ありません。

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天道駅の先には「瀬戸の渡し」があります。
白壁の塀がある家は元は川庄屋でした。

川を渡る人はここで休憩していたようで
この場所は秋月街道との追分にもあたりますし
行き交う人々の丁度良い場所だったのかもしれません。

渡しと名がつくものの川幅は十間ばかり。
徒歩渡りだったものが明治に板橋が架けられています。

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道路は国道200号線。通称・冷水道路です。

新緑の季節ならではのパッチワークのような山の景色は
交通量が多い中でも癒される風景です。

街道は再び旧道へ。
上穂波駅付近には古い標識が残っていました。

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街道とはJR筑豊本線も平行してあるのですが
桂川までの区間と違ってローカルムード満載です。
20年ほど前に50系客車4両の頃に乗車した折においても
客は殆ど乗っていなかった記憶があります

それだけに、何故こんなところに路線?と
歴史も何も知らない当時の自分にとって疑問だったのですが
今回、長崎街道を歩いてみて今やっとわかった次第です。

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現在は「原田線」といい愛称のあるこの区間。
1両の単行ディーゼルカーがいったりきたりしています。
昨年の台風で大きな被害の爪痕は今も痛々しく残っていました。

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さて、街道は冷水峠の手前にある内野宿に入ります。

東溝口付近には松並木があったそうですが
昭和50年代初めまでは一本だけ残っていたそうです。

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その時の写真が案内板に載せてありましたが
こういう比較写真は昔の情景を思い起こさせてくれるので
単なる文字だけの看板よりも何倍も嬉しいものがあります。

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郡屋(ぐにや)。
他ではあまり見かけない読み方ですが
大名などが通行する際に打ち合わせをした会議室のようなものです。

内野宿の中心部は白壁が美しい家並みが続きます。
長崎屋は町茶屋(脇本陣)でシーボルトも泊ったそうです。

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大宰府への山越え道の道標と恵比寿様。
御茶屋(本陣)はこの先にありました。

大宰府への初詣などのお参りでは
この山越えを経由してのものだったみたいです。

恵比寿様はこの辺りからよく見かけますね。
宿場の繁栄と旅人の安全を祈願したものといいます。

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内野宿を過ぎると再び国道に出ます。

山と山に挟まれた場所なので街道の消滅が多いのですが
そんな中でも上の写真のような藪道が一部残っていたりするので
常にアンテナを張り巡らせて探索をしています。

冷水峠の入口には大根地神社の立派な鳥居がありました。
神功皇后が羽白熊鷲征伐の前に祈願した神社です。

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次第に勾配がきつくなっていくと石畳が現れます。

冷水峠の前後約10キロの区間は長崎街道最大の難所でした。
黒田節の主人公母里太兵衛が黒田長政の命を受けて
内野宿と冷水峠の開削を慶長年間に行ったといいます。

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清流を左に見ながら進めば地蔵堂です。
ここで水に触れてしばし休息。

峠の名前のいわれになった水はその名の通り冷水で
喉を潤せて、疲れを癒すことができました。
昔の人と同じことをするのは楽しいものです。

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古い石橋で清流を越えれば峠まではすぐ。

この日は西鉄筑紫駅まで歩きましたが
長くなったので続きは次回に分けることにします。




posted by にゃおすけ at 15:23 | Comment(4) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする