2019年11月27日

長崎街道その5・西鉄筑紫駅→田代宿

ゆったり筑紫路。佐賀県へ。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

筑紫駅周辺の住宅街を通っていきます。

猿田彦さんは福岡県内でよく見かけます。
道中安全の神様ですね。

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原田宿の手前に筑紫神社があります。

社殿が立つ筑後国は元は筑前国と合わせて1つの筑紫国でした。
「筑紫」の由来は2国の間にある坂が険しく鞍が擦り切れるため
「鞍尽くし」と呼ばれた説を筆頭に三説あるようです。

神社付近の街道ルートは少し複雑になっています。

筑紫駅側から来ると鳥居のある大きな広場前を通ります。
街道を往来する旅人は牛馬をこの広場に休め置いて、
参道を通って道中安全の祈願をしたそうです。

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逆に祈願に興味ない人はスルーしていたと思うのですが
そういう人は上の写真の右手の道を通っていたようですね。

神社入口の大きな鳥居は元禄期のもので立派です。

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原田宿内は区画整理が行われて昔の面影がほとんどありません。
この写真付近はかろうじて旧ルート上にあります。

東溝口跡付近には「はらふと餅」の店がありました。
この先にある三国坂や手前にあった冷水峠を越えるため、
腹ごしらえにもってこいの店で繁盛したそうです。
下の絵図を見ると当時の様子がなんとなく見えてきますね。

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原田宿絵図の右側にウネウネした道筋があるのがわかります。
この区間が完全消滅になっていてJR跨線橋まで続いています。

享和年間の原田宿の記録によると
人家100軒あまり宿屋や茶屋も多くとあるので
小さくもなく大きくもない規模の宿場だったようです。

旧道を経てJRと平行している国道3号線沿いを進みます。

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難所である三国坂の手前にあった国境石。
元々あった場所は国道上にあるマンホールの位置になります。

国境石を建てる前は大きな松の木があったのですが
枯れたので印を設置せねばと議論がはじまったものの
2年近く揉めに揉めたそうです。

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国境石の元の場所にはマンホール

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三国坂の入口。

草道が続きますが高速道路と交わる辺りで途切れています。

結局は引き返してバイパスの歩道を歩くことになるのですが
バイパス工事となると痕跡すらなくなることが多いですので
少しだけでも維持されているのは嬉しいですね。

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けやき台駅の先の白坂で街道は右の森の中へ入っていきます。
線路で分断されているので踏切で迂回しないといけません。

それにしても鹿児島本線は列車の本数が多くて驚きました。
九州新幹線の開業前はもっと凄かったんでしょうが
間違っても”わるにゃん”して線路横断はやめましょう。

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白坂の旧道風景。
大きな猿田彦さんがおられました。

やがて基山駅周辺へ。

基山は長崎街道が通過する町として1645年に成立した町で
人家五六十軒あり、東の入口に茶屋あり。商家、酒屋あり。とあり、
宿場ではないものの間の宿的な感じだったのでしょう。

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西海製薬の横を進みます。
鳥栖周辺は有名な製薬会社が多いですね。

それもそのはずで領主だった対馬藩は朝鮮と貿易の折に
漢方薬などの知識を豊富に手に入れていたことが一つにあって
領民は薬の製造を副業とする人が次第に増え、行商も増えて、
江戸時代後期には日本四大売薬となっていきます。

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今町の集落。
1653年の時点では計30戸の家々があったようです。

鳥栖インターを過ぎて田代宿へ。
入口付近には自然石の道標がありました。

「右 ひこ山道、左 こくら はかた道」

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田代宿は対馬藩の代官所が置かれた場所で
江戸後期の記録では人家500、茶屋、宿屋多しとあります。

田代宿のすぐ隣には肥前藩の管轄の轟木宿があります。
宿場が接近しているのは国境であることが一つの理由のようです。

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田代代官所跡は田代小学校になっています。

ちなみに代官所が廃藩置県によって廃止になった後も
田代周辺は宗家(旧対馬藩主)が大地主として関わっていきます。

田代宿を歩いていると目にするのはサロンパスの看板です。

工場は街道の道筋を大きく霞めるように立てられています。
街道筋には人家が多く建ち並んでいたことから
何もない場所を選んで立てられたのではと思います。

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田代宿の出口にも道標がありました。

「右 さか 左 くるめ道」

東口にもあった同じタイプの自然石の道標です。
1802年以前からのものです。

この日は吉野ヶ里付近まで歩きましたが
長くなったので次回に分けます。





  
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2019年11月11日

岡山から牛窓へ続く街道の考察

岡山県内の古地図はあらゆる年代のものが公開されています。

古くから児島湾の干拓事業によって多くの新田が作られ、
牛窓往来に関するエリアでは沖新田の開発によって
幾重もの道筋が出来て非常に複雑になっています。

ポイントは3つ

・古地図の道筋がどれも一定ではない
・新田開発と倉安川と百間川による治水
・明治初期の東山峠の改良


備前慶長図(1596〜1615)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004092519241341842
用水路を改良して後に倉安川となる川沿いの道と西国街道から分岐の道が描かれる。

備前国九郡絵図(1624-1644・寛永年間)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004092519241441843
西国街道から分岐の道が描かれる。

江戸時代初期前後のこれらの地図を見るとかつての海岸線がよくわかります。
備前慶長図にある川沿いの道が備前国九郡絵図に描かれていない理由は、
実際には存在していたものの都市と都市を結ぶ幹線の役割よりも
集落同士を結ぶ役割が大きかったので省かれたのではと思われます。

備前国(1700・元禄13年)
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/zoomify/T1-20-1-CT02000018.html
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。

備前国絵図 (1705・宝永2年ごろ?)
https://www.u-sacred-heart.ac.jp/library/display_collection/digital_gallaery/Wa291_038_Z3/0986186.html?fbclid=IwAR3Q5fLLa3FlqhBdRA-k3gulCR9phrKM1WgZtNJpFiTzHEh0csSYVsqDtjo
東山峠を越えて倉安川沿いの道と西国街道から分岐の道が描かれている。

備前国絵図 (1715・正徳5年)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2014122011311869464
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。

沖新田は1691年に完成します。
倉安川は倉安新田の開発を着手した同年(1679)に完成します。

先ほどの地図とは随分と地形が変わっているのがわかります。
1705年の地図で東山峠越えの道が初めて出てきますが、
峠自体は古い時代からあったものと思われます。

ただし峠は非常に険しく大荷物で移動するには難儀だったようで、
1715年の地図に峠道が描かれていないということは
旧来の道が相変わらずメインで使われていたのでしょう。

ちなみに東山峠は明治初期に改良されています。

東山峠道改修碑には
「土質堅牢にして且つあまたの厳石あり、刻開高艱難」とあり、
3か月間、のべ12,400余人で東山峠の掘削工事が行われ
三か所の坂道を一丈余り切り下げたそうです。

備前国絵図 (1765・明和2年)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2014122011305269462
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。

沖新田東西之図 (1818・文政元年)
http://www.city.okayama.jp/museum/okishinden/map.html
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2014122012442969695
沖新田の真ん中を突っ切る道に官道の文字。

伊能図(1813ごろ)
https://kochizu.gsi.go.jp/items/438?from=category,10,index-map
東山峠を越えて現在の県道沿いに進む。

備前国 (1838・天保9年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0303000000_6/0000000294/00
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。

江戸中期から幕末にかけての地図を見ると
様々なルートがあり複雑な様相になっています。
新たに西大寺を経由しない短絡ルートも描かれています。

牛窓は重要な拠点ですが西大寺もまた同様で

「西大寺は下津井とともに港町として栄えているので、
おかげで岡山城下町の繁栄が脅かされている」

西大寺は戦国時代に西大寺観音院を中心に家や店が増え、
門前町が形成されて繁栄し有力商人が多数活躍していました。

そういう重要地に寄らずに目的地へ直行することは
用がなければ現代社会でもよくあることです。
特に当時は徒歩ですから距離が短い道を選ぶのは当然でしょう。

ただ、こういう道が完成した以降でも、
不思議と描かれている地図が少ないんですよね。
あの伊能図にも描かれていません。

これはおそらく牛窓へ直行する道は数ある道の一つに過ぎず、
需要的には西大寺経由が高かったのではと思います。

以上、古地図からの考察でしたが
他に「備陽国志」などを含めて考えてまとめてみると
以下のような感じになるのではないでしょうか。

牛窓往来は西大寺を経由する道としない道があり、
岡山城下側においても東山峠や平井や西国街道を経由する道があった。
時代によって複雑でどのルートも牛窓往来と言っても過言ではなく、
強いていうなら西国街道から分岐する道が数多く描かれているので
古来からの牛窓往来と言えるのかもしれません。

11月の月末に街道シンポジウムで歩きますが、
そこでまた何かわかりましたら報告させていただきます。
ちなみにルートは備前国絵図 (1705・宝永2年)で歩く予定です。




posted by にゃおすけ at 15:52 | Comment(0) | いろいろ考察 | 更新情報をチェックする

2019年11月01日

長崎街道その4・冷水峠→西鉄筑紫駅

飯塚宿からの続きになります。



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峠には群境碑と大根地神社への道標が立っています。

ここからの下り坂はそれほど急なものではなく
楽に歩くことができます。ただし石畳はありません。

やがて旧冷水道路に合流します。
バイパスと違って交通量は少な目です。

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広い道に出てホッとしたのも束の間、
この先は消滅した箇所がかなり多めです。

まず、下の写真の場所では
右の木立の中を進む道筋があったそうです。

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雰囲気的に一見するとただの森に見えるのですが
反対側を見てみると路盤と思われる痕跡があるんですよね。

こういう場所は如何に見つけることができるかですが、
それは事前に資料での調査をしているからに他ありません。

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長崎街道では「長崎街道/大里・小倉と筑前六宿」を参考にしています。
この資料の良いところは廃道になった区間でも地図に描かれている点で
安全性重視と違って史実重視なので好感が持てます。

道中で見かける長崎街道の案内看板も
この資料を元に作ったのかと思う場所が多い気がします。

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たとえば、この場所。

長崎街道の看板が右手にあるのですが
普通なら入らないような場所に立てられています。

獣除けの網に沿って道があったと思われますが
網が旧道のほぼ真ん中に設置したせいで狭くなっています。
おそらく夏場は厳しいでしょう。藪漕ぎは必至です。

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この場所の出口にも案内看板がありました。
昔の道を忠実に歩きたいウォーカーにとっては嬉しいですが
一般のウォーカーが入ってしまった時のことを考えると少し心配です。

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この区間の廃道箇所として特筆すべきは鍋峠付近の場所です。

川が渓谷なので難所だったことは容易に想像できますが
こういう場所は時代によってルートが変貌するのが常です。

江戸期、明治期、大正期、昭和期・・・

江戸期の道は川の左岸(下の写真では右手)を進んでいたようです。

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明治以降は川の右岸(写真では左手)に道が作られ、
途中にある橋で左岸(写真では右手)に繋がるよう改良されています。
ちなみに昭和期はというと今のバイパス道路になりますね。

この付近の変遷は調べてみると大変面白いもので
詳しくはヤマレコに書きましたのででご参照ください。

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鍋峠を過ぎるとバイパスの横を進みます。

この付近の旧道に見える道は元々の街道とは別の道で
元々は旧冷水道路に沿うように通っていたと思われます。
おそらく痕跡は大胆な道路建設でごく僅かでしょう。

下の写真の位置が旧道が復活するポイントです。
正面に森が見えますが大日如来碑などがあるみたいなので
その横を旧道が通っていたと思われます。

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ここからは旧冷水道路を下っていきます。
バイパスではないので交通量は少な目です。

山家宿はそういう場所にある静かな宿場です。

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白壁が美しい家並み。
宿場内のあちこちに恵比寿様がおられます。

下の写真の右手に御茶屋(本陣)がありました。

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ここで目についたのは昭和5年の案内看板。

当時の案内看板と呼ばれる部類は、
多くは木製だったため現存してるものは少なく
この石造りのものは昔の案内板を知る上で大変貴重なものでしょう。

多用されてる「なり」の文字は時代を感じさせますね。
内容的にはここに西の出口がありました的なことが書かれています。

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昔ながらの道筋を下っていくと
住宅街に入り筑紫市街地が見えてきました。

今回は西鉄筑紫駅でゴールとしました。




 
posted by にゃおすけ at 14:57 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする