2019年12月18日

【街道シンポジウム】牛窓往来・その2

百間川→岡山城下までのご紹介です。
西大寺からの区間はその1をご覧ください。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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百間川。現在はそこそこの川幅になっていますが、
昭和40年代までは通常時は用水路のような川幅しかなく
街道には小さな橋が架けられていた程度で、
正木城跡の横まで一直線で道筋が伸びていました。

これは古い航空写真を見れば一目瞭然です。

百間川の歴史を紐解くと岡山城付近を流れる旭川を
外堀の役目をもたせるため城近くに付け替えたのが発端で
新旭川は蛇行した水路となったため洪水を引き起こしたことから
洪水防止目的のバイパスとして作られています。

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川を渡れば右手に正木城跡があります。

ここは西国街道へ通じる道の追分です。
この道は児島湾干拓以前からあるメインルートだったのですが
古地図には江戸時代末期においても太く描かれているあたり、
東山峠を避ける目的など距離は長くても重宝されていたことがわかります。

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その道筋を少し歩きましたが雰囲気いいですね。
道路脇には石仏もあり古い街道そのものです。

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倉安川沿いを淡々と進みます。
海面山などの名前から昔は海沿いだったことを連想できます。

ちなみに、この辺りの山沿いは湧水が多く水質は良好なのだそうです。
井戸が散見できますが上水道が出来てからは使う人が減ったとのことです。

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岡山名物のメタル茅葺き。
県内はなぜかこのタイプの旧家が多いですね。

岡山藩主の菩提寺である曹源寺を右手に見つつ、
難所である東山峠へと向かっていきます。

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石高神社からの眺め。
石段が大変でしたがせっかくなら登っておきたいものです。
古い時代は海原が目の前に広がっていたことでしょう。

石高神社は現存する神名帳で一番古い備前国総社神名帳綿抜本と、
総社本(863年頃)に既に載っている古社です。

現在地は移転でのもので新田開発の折に地域を守護するため、
この場所になったという話があります。

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この追分では西大寺を経由しない牛窓からの直行ルートと合流します。
直行ルートは新田開発で出来た土地の上をほぼ一直線に結ぶ道筋で
牛窓往来の中でも新しい時代のものです。

街道歩きをする上で重要な参考になるのは
ほぼ各県で出している「歴史の道調査報告書」というものがあります。
これは関係者が丁寧に調べあげてあるものなのですが、
残念ながら各県によって精度や調べ方が全然違うんですよね。

歴史の道調査報告書では直行ルートを牛窓往来と指してるのですが、
あらゆる時代の地図を見るにつれ果たしてそうなのかと、
やや疑問が残るような感じになっています。

しかしながら、街道は時代によってルートが変わることが多く、
どれが牛窓往来のメインであったかなどは時代ごとに違うわけで、
今回の区間を含め数々のルートは広義で全て牛窓往来といえるでしょう。

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旧道は明治道と分かれます。
他の例と同じく勾配を緩和するような道筋をとっています。
元々の旧道はというと現在の県道になります。

県道の交差点付近にあったのは池ノ内大池。
大池は江戸時代に出来た灌漑用の池で茶屋などが立ち並び
街道を行く人々に親しまれたそうです。

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神社横に残る旧道の痕跡。スロープ状の道を上っていきます。
そして神社の脇にあるブロック石段を上るわけですが、
ここで明治道と合流することになります。

そもそも、東山峠の道は古くからあったものの、
江戸初期は倉益新田・曹源寺への目的としての道でした。
農業、商業が盛んになると西大寺、牛窓への道として重視され、
明治の初めには馬車が通れるよう大改修工事が行われた経緯があります。

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東山峠の交差点では不自然に旧道が下がっているのがわかります。
これは新道を通す際に掘り下げられたもので
一丈あまり(3メートル強)掘ったと文献に残っています。

交差点付近には幾重もの道筋がありますが
変遷を調べてみると面白いものが見えてくる気がします。

それにしても峠の集落は紅葉が多く綺麗でした。
かつては茶屋などもあったのでしょう。

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道幅を広げた跡があります。
その先には峠道路改修記念碑もありました。

車一台が通れるほどの道を下っていきます。

所々で石仏を見かけることが増えてきましたが
これは難所であった証しでもありますね。

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権現坂から岡山市街を望みます。

東山公園の脇を通り電車道へ。

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資料によってはこの先の道筋は電車道沿いとあるのですが、
城下の古い地図と見比べてみると合点がいきません。
これもまた時代ごとの変化があるとは思いますが、
我々は途中で右に折れる道筋を選びました。

ちなみにイチゴサンドの写真ですが、
東山電停近くの「nono white」というお店でのもの。
シンポジウムとは別の日に訪れたのですが絶品でした。
タピオカもモチモチ。

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再び電車道と合流する辺りが西国街道との追分です。

京橋の古い欄干と新型路面電車。
新と旧のハーモニーはなんともいいですね。
道路元標がある京橋のたもとでゴールとしました。

牛窓往来は実に調べがいのある街道でした。
時代ごとに描かれているルートが違っていたりして
当初どのルートを歩くか大いに悩みました。

本来は牛窓まで続く街道ではありますが、
岡山-西大寺の間だけでも魅力は十分あり満足いくもので
いつかは牛窓まで足を延ばしてみたいものです。

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posted by にゃおすけ at 11:09 | Comment(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする

2019年12月11日

【街道シンポジウム】牛窓往来・その1

恒例の街道シンポジウムで歩いてきました。

どこを歩くかは毎回悩みのタネなのですが
距離は15km程度で利便性のあるバラエティーな道となると
全国各地を探しても意外とあるようでないものです。

今回の牛窓往来は本来は岡山城下から牛窓までなのですが、
需要の大きかった西大寺までとし短縮して歩きました。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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西大寺は地方屈指の大寺で吉井川の河口に位置していたので
庶民信仰を集め門前町が形成されていました。

現存する三重塔は1675年のもの。
仁王門や本堂など境内の建物は江戸時代のものでどれも立派です。

関西で西大寺というと奈良の西大寺を連想しがちですが
こちらは別名「観音院」と呼ばれ関連はどうもないようです。

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そもそも牛窓往来の名前の由来の牛窓とは
古くから海上交通での風待港として栄え、
江戸時代には朝鮮通信使の寄港地で賑わっていました。

瀬戸内には西国街道という陸路もあるにはあるのですが
難所が多いので比較的穏やかな海路を選ばれることが多く、
そのため一定の距離間隔で寄港地がおかれていました。

現代は日本のエーゲ海として若者に人気の場所ですが
詳細についてはまたの機会に書こうと思います。

【追記】日本のエーゲ海!?牛窓の魅力
https://borabora.seesaa.net/article/473000541.html

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さて、西大寺の町は観音院の門前町として賑わい、
有力商人が多数活躍する重要な町でした。

今の時代においても町中には古い家があちこちに残ります。
その良さから「三丁目の夕日」など映画撮影も行われています。

牛窓往来は時代のよってルート変化があるのが特長的です。
これは児島湾の干拓などの影響が主たる理由です。

岡山県内では数々の古地図がネット公開されていますが
干拓前と干拓後では道筋が随分と違っています。

ここで詳しく書くと書ききれないので
下のリンクにある拙記事を併せてご覧ください。

岡山から牛窓へ続く街道の考察
https://borabora.seesaa.net/article/471462099.html

ちなみに今回は備前国絵図 (1705年ごろ)を参考にしました。
西大寺から倉安川沿いに進み東山峠を越えるルートです。

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吉井川の堤防付近にあった常夜灯。

西大寺から牛窓方面へ向かうにはここで渡し舟に乗るか、
ここから少し北にある河本町からの渡し舟を利用していたと思われます。
ちなみに西大寺を経由しない直行ルートは下流の金岡で渡っていたそうです。

立派な中国銀行の建物を右手に見ながら歩みを進めます。
この手の大きな建物は町の中心にある場合が多いですね。

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西川沿いに進みます。
灌漑用に作られた川で吉井川の西側にあるので西川とのこと。

味わいのある千年橋は1917年のもので
この地の繁栄を願って命名されたもののようです。

川沿いを抜け進路を西に向けると
かつての西大寺鉄道のターミナルが見えてきます。

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現在は西大寺バスセンターになっていますが
岡山県下を牛耳る両備グループの創業の地でもあります。

西大寺鉄道はここから岡山城下の後楽園まで走っていました。
経営は良かったものの赤穂線開通のため廃止に。
補償交渉は何かと大変だったみたいです。

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前後にデッキがある昭和11年製の車両。
デッキには荷物や自転車、乳母車などを載せていたそうです。

街道は大多羅あたりまで廃線跡(自転車道)に沿って進みます。

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砂川の堤防が見えてきました。
かつて新橋が架かっていた場所で西大寺の町の出入口です。

新橋を渡ると旧道は2つに分かれるのですが
今回歩く道である倉安川沿いは古来からの道筋である一方、
現在の県道沿いの道筋は伊能図に描かれた由緒ある道です。

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赤穂線と横切ります。
このタイプの車両は希少になりましたが岡山ではまだまだ多いです。

その先にあった石橋の橋脚の土台は昔のまま。
橋は下を覗き込んでみると意外な発見があって面白いですね。

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倉安川と合流します。
野菜を洗う昔ながらの光景。いいですねー。

倉安川は吉井川と旭川を結ぶ1679年に築かれた人口河川で
元々あった用水路などを繋ぎ合わせて作られています。
南部の干拓地への水路であるとともに高瀬舟の運河でもありました。

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南の方角を見ると平地が広がっていますが
児島湾を干拓したもので、かつては大部分が海でした。
遠くには特長的な鷲羽山も見ることができます。

百間川の堤防と正木城跡が見えてきました。

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長くなりましたので残り岡山城下までは次回をお楽しみに。




     
posted by にゃおすけ at 15:36 | Comment(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする