2020年06月24日

大阪ベイエリアの不思議

外出自粛の期間は地元を知る絶好の機会となりました。
八尾市から大阪市福島区に居を移して4年になりますが
古地図などを見ても知らないことが随分と多いなと思います。

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大阪ベイエリアと言われる大阪市西部地域ですが
地図を見て気づくのが「島」「江」「橋」の地名の多さ。
水に関係しているものは、かなりの数です。

かつての淀川河口部は島だらけだったといいます。
江戸時代からの埋め立てによって新田が増えていき、
次第に工業地や住宅地へと変化していきます。

こういった経緯もあってか
今でこそUSJや天保山で人気のエリアですが、
少し前までは、集客的な賑わいは少なかったのは否めず、

「野田」ってどこ?「西九条」??というような反応が

関西人であっても多かったように思います。

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写真は終戦直後の阪神野田駅界隈です。

航空写真から見てわかるように
多くの町家が空襲の被害にあわずに残っています。

おかげで今も古い家、狭い路地に石畳、地蔵など
昔の面影が色濃く残っているので町歩きは楽しいものです。

太平洋戦争時の野田は今と同じく西の出入口の役割があり
鉄道、道路ともに新淀川を控えての交通の要衝でした。
そして住宅地でもあり繊維などの工業地帯でもありました。

そういう場所でありながら空襲の被害が少なかったのは
ある意味、奇跡的なことで、よく残ってくれたと思います。
ちなみに淀川大橋は一部で落橋してしまっていますね。

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上の写真は鼠島で中津川(旧淀川)の中州にありました。

この特長的な島には隔離病院が建てられています。
当時、流行していたコレラやチフスなどの感染病対策のもので
島という水に囲まれた場所なだけに隔離する上で最適だったのでしょう。

周辺に工場があった影響で空襲で焼けてしまい、
今は川の大部分も埋め立てられ昔の面影は殆んど残っていません。

このように、ベイエリアは埋め立ての歴史と言いますか、
運河や海を埋め立て、新たに土地を作ることで成長してきました。
一方で、埋め立てとは逆に、海や川幅を広げるという事例もありました。
それが安治川内港や大正内港の話です。

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上の写真は天保山周辺のものです。
手前が海遊館がある港区で、対岸はUSJがある此花区です。

その境を流れるのが安治川になるのですが
戦後しばらく経つと川幅が倍以上に広げられます。
広げるということは町が沈んでしまう場所もあるわけで、
これほどの規模の工事を随分と思い切ってやったなと思います。

では、なぜ、こうも思い切ったことが出来たのか。
この地域では工業が発展した影響で長年、地盤沈下に悩まされていて、
高潮が発生した際は広範囲に沈んでしまうことが多かったようです。

さらにプラスして港湾設備の設置を急がれた時期でもあり、
戦災で焼け野原になっていた港区の事情もあったのでしょう、
意外と話はスムーズに進んだのかもしれません。

川幅を広げたことで発生した土砂は
港区の地面の上に盛られて随分と嵩上げされました。
川には立派な堤防も築かれて安全になりましたが、
町の一角が大きく消えた事実は寂しいものです。

最後にラサスポーツセンターのご紹介。

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蒲鉾型の建物に大きく「ラサ」の文字。
スケートリンクにプールにゴルフ練習場などが入る施設は、
昭和38年に完成し娯楽が少なかった当時ですから
非常に多くの人で賑わっていたといいます。

昭和50年代後半には跡地をマンションに譲りますが、
ラサスポーツセンターは地域のシンボル的な存在だったはずで、
当時を懐かしむ話を今も耳にすることがあります。





posted by にゃおすけ at 16:49 | Comment(0) | いろいろ考察 | 更新情報をチェックする

2020年06月18日

美山の茅葺きの里と重伝達のこと

京都は京都市内ばかりクローズアップされがちですが
地図を見れば意外と南北に長いことがわかります。

大河ドラマで脚光を浴びる「福知山市」も京都ですし、
日本海側の旧軍港である「舞鶴市」も京都なのです。
この感覚は東京で言うところの奥多摩や離島と似ていますが
そこの地域に住んでいない者からすると意外な発見と言いますか
言われてみて初めて気付くことがよくあるものです。

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京都には茅葺で有名な「美山」集落があります。
重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。

重要伝統的建造物群保存地区一覧
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html

久しぶりに重伝達の一覧を見たわけですが
指定になった場所が随分と増えてきましたね。
指定されるということは有名になって良い面もありますが
住んでる住民にとっては観光地化になることで騒がしくなりますし、
コアな町並みファンの中には観光客がいない日常的な光景が良いという人もいます。

良いことよりもむしろ悪いことのほうが多い気もしますが
重伝建に指定されることによって乱開発は規制されますし、
過疎や荒廃などといった問題も幾分回避できるものと思います。
そういう意味においては指定は喜ばしいことかもしれません。

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美山は指定から随分と経っていることもあって、
数多くの観光客の姿を見かけました。
道は山奥にも関わらず整備されているので
関西のツーリングの名所にもなっているようです。

さすがは茅葺きを売りにしているだけあって、
現地周辺は見事な茅葺きの家が立ち並んでいます。

一方、現地までの道のりでも古い家を見かけたのですが
その多くは茅葺きからトタン屋根に改造したものでした。
ようするに茅葺きを維持するには多額の費用がかかるので
過疎化になった今の時代はこうするしかなかったのでしょう。

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こういうことからも美山の茅葺きが維持できている現状は、
重伝建に指定になった恩恵が大きいのではと思います。

個人的に観光地化になった古い町並みでは
できるだけ土産や食事にお金を落とすようにしています。
道の駅への立ち寄りは古老との触れ合いも楽しめて良いもので、
古い町並みにお住いの方の生の声が聞けるのは嬉しいものです。

大阪から近い場所だけあって後回しにしていましたが
美山周辺は人の気配はあるものの秘境というべき場所で
秘境でも奈良の十津川の雰囲気とは一風違うものがありました。


 
posted by にゃおすけ at 10:43 | Comment(0) | 近畿ボラボラ | 更新情報をチェックする

2020年06月10日

大阪の運河の痕跡を求めて その2

前回、淀川の本流が大阪中心部に流れていたと書きました。
さらに驚くことに1704年頃までは大和川の本流も流れていたと書くと
一体どのような流路になっていたのか気になりますよね。

その一つの答えが数多くの運河と安治川でしょう。

2.地形に残るもの

淀川の本流は中ノ島を西進していくと
終端で中津川(上流で分かれた淀川の支流)方面と
木津川、尻無川方面の二手に分かれ大阪湾にそそいでいました。

その分かれ目となる場所に九条島という島があり、
川に蓋をする形で遮っていたので流れが悪くなることが多く、
これが原因で水害を引き起こすことがありました。

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安治川「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

そこで九条島を左右に分けるように安治川が開削されます。

安治川は洪水を減らすという目的の他に、
大阪湾への水運もルートが短縮されたおかげで活発となり、
大阪の町の発展の原動力の一つとなっていきます。
名前の由来は「安らかに治まるように」と付けられましたが
まさに名前のようになっていったわけです。

安治川が完成した一方で勢いを失ったのは中津川への流路。
次第に埋め立てられ小さな川に変貌していきます。



上の旧逆川の跡がその流れですが、
見て頂くとわかるように道がかつての流れに沿っています。
わざわざ曲線になっているのは何か理由があるものです。

大阪西部地域では人工の運河を埋め立てた事例よりも
旧淀川の流れだったことから河川を埋めた事例が多いように思います。
これは地名を見ても明らかで福島、四貫島、姫島、海老江といった
自然地形による名称が多いことからもわかります。



上のストリートビューは境川運河の痕跡です。

一見すると普通の道路のようですが
異様な盛り上がりがあるのが確認できると思います。

不要になった運河は埋め立てる際は
きちんと土地を平らに出来れば良いのですが
高度経済成長期で開発を急いでいたり何かしら理由があることで
元の河川部分が痕跡として残ることがよくあります。

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境川「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

このような盛り上がりは
大阪では旧大和川の流路跡がよくわかる事例でしょう。
江戸初期の技術では機械もなく平らにするには困難だったはずで
天井川だったこともあり今も周りと比べ一段高くなっています。
それが何10キロも続いているのだから相当なものです。

最後に大正区の三軒家の巨大堤防道路を紹介します。



大正区は明治の中頃までは河口部の農村という風情でしたが
次第に地の利を生かし紡績業が活発となり工業地帯になっていきます。

当然、水運も活発になっていくわけですが、
今まで以上に多くの舟をさばく広場が必要になってきます。
その広場=船溜まりとして設けられたのが堤防右側の部分。
かつては大きな港が広がっていたことが想像できます。

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三軒家「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

ところこの港が活躍していたのはそう長くはありませんでした。
次第に物流が水運から陸運へとシフトしていくと
お役御免となり埋め立てられ工場になっていきます。

おわりに。

昔の大阪の繁栄を今に伝える痕跡は
紹介したもの以外にも数多く残っています。
それほど大阪は水運で商を成していたといえるわけで、
これからも少しずつ事例を紹介していければと思います。


posted by にゃおすけ at 10:18 | Comment(0) | いろいろ考察 | 更新情報をチェックする