八尾市から大阪市福島区に居を移して4年になりますが
古地図などを見ても知らないことが随分と多いなと思います。

大阪ベイエリアと言われる大阪市西部地域ですが
地図を見て気づくのが「島」「江」「橋」の地名の多さ。
水に関係しているものは、かなりの数です。
かつての淀川河口部は島だらけだったといいます。
江戸時代からの埋め立てによって新田が増えていき、
次第に工業地や住宅地へと変化していきます。
こういった経緯もあってか
今でこそUSJや天保山で人気のエリアですが、
少し前までは、集客的な賑わいは少なかったのは否めず、
「野田」ってどこ?「西九条」??というような反応が
関西人であっても多かったように思います。

写真は終戦直後の阪神野田駅界隈です。
航空写真から見てわかるように
多くの町家が空襲の被害にあわずに残っています。
おかげで今も古い家、狭い路地に石畳、地蔵など
昔の面影が色濃く残っているので町歩きは楽しいものです。
太平洋戦争時の野田は今と同じく西の出入口の役割があり
鉄道、道路ともに新淀川を控えての交通の要衝でした。
そして住宅地でもあり繊維などの工業地帯でもありました。
そういう場所でありながら空襲の被害が少なかったのは
ある意味、奇跡的なことで、よく残ってくれたと思います。
ちなみに淀川大橋は一部で落橋してしまっていますね。

上の写真は鼠島で中津川(旧淀川)の中州にありました。
この特長的な島には隔離病院が建てられています。
当時、流行していたコレラやチフスなどの感染病対策のもので
島という水に囲まれた場所なだけに隔離する上で最適だったのでしょう。
周辺に工場があった影響で空襲で焼けてしまい、
今は川の大部分も埋め立てられ昔の面影は殆んど残っていません。
このように、ベイエリアは埋め立ての歴史と言いますか、
運河や海を埋め立て、新たに土地を作ることで成長してきました。
一方で、埋め立てとは逆に、海や川幅を広げるという事例もありました。
それが安治川内港や大正内港の話です。

上の写真は天保山周辺のものです。
手前が海遊館がある港区で、対岸はUSJがある此花区です。
その境を流れるのが安治川になるのですが
戦後しばらく経つと川幅が倍以上に広げられます。
広げるということは町が沈んでしまう場所もあるわけで、
これほどの規模の工事を随分と思い切ってやったなと思います。
では、なぜ、こうも思い切ったことが出来たのか。
この地域では工業が発展した影響で長年、地盤沈下に悩まされていて、
高潮が発生した際は広範囲に沈んでしまうことが多かったようです。
さらにプラスして港湾設備の設置を急がれた時期でもあり、
戦災で焼け野原になっていた港区の事情もあったのでしょう、
意外と話はスムーズに進んだのかもしれません。
川幅を広げたことで発生した土砂は
港区の地面の上に盛られて随分と嵩上げされました。
川には立派な堤防も築かれて安全になりましたが、
町の一角が大きく消えた事実は寂しいものです。
最後にラサスポーツセンターのご紹介。

蒲鉾型の建物に大きく「ラサ」の文字。
スケートリンクにプールにゴルフ練習場などが入る施設は、
昭和38年に完成し娯楽が少なかった当時ですから
非常に多くの人で賑わっていたといいます。
昭和50年代後半には跡地をマンションに譲りますが、
ラサスポーツセンターは地域のシンボル的な存在だったはずで、
当時を懐かしむ話を今も耳にすることがあります。