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前日とは打って変わっての霧雨の朝。
進路は海沿いから山側へと変わります。
山深くなった道の途中には
かつては家だったであろう石積みが散見できます。
奥には炭焼き小屋がありました。
煙は上っていたものの人の気配は全くなし。
時間をかけて作るものだからそういうものなのでしょう。


旧県道と分かれると一気に勾配が急になります。
人の通りが少ないのか道の真ん中でも蜘蛛の巣がたくさん。
追い払うのに一苦労です。
浦神峠は休平と呼ばれることがあるように
休むには好都合な平場が広がっていました。


僅かな区間ですが石畳が残っていました。
道普請を長い間やっていない影響か
随分と荒れていますが立派なものです。
道標地蔵。
「右ハ 山みち」「左ハ 大ヘチ」


下和田の集落あたりは川を付け替えた歴史があります。
かつての太田川は随分とうねった流路だったようで、
洪水が絶えなかったようです。
周りの家々を見ると立派な石積みの上に建てられています。
おそらくは洪水対策から来ているのではと思われます。
ちなみに次の市屋峠の手前の広場には
紀伊半島大水害の水位標が立ててありました。
過去の災害を忘れないようにするため大事なのものですね。



また、この地は戦国時代においては山城の宝庫だったようで
山城に適した山がいくつもあり地域の要地でした。
椎の大木のある大泰寺は元はと言えば山城ですし、
下の写真にあるような小高い山も元は山城だったことでしょう。


市屋峠。
平維盛がここで一夜を過ごしたという話があります。
左手にあった石仏は文化15年のもの。
峠道は崩落の影響で狭くなってる箇所がありますが、
昔は馬車も通ったであろう道も今は交通体系が変わってしまい
道幅は登山客が通れるようなもので十分かもしれませんね。



与根河池は人工のもので江戸時代に灌漑用で作られています。
この辺りの道筋は池の周囲を進むような感じですが
橋を何本も渡ることから少し不自然な感じに映ります。
古い街道なら橋を作らず迂回するのが一般的ですよね。
もっとも、江戸時代以前は池がなかったわけですから
今回歩いた道筋とは違う道があったことは確かでしょう。


二河峠へは雨天時は川になっているような道筋を案内されています。
元々は左手から少しずつ勾配をあげていく道筋だったと思われますが、
この先での大規模工事の影響で随分と失われています。
階段で迂回したりして二河峠に辿り着くと
遠くに海を眺めることができました。




二河川の河原。
ここは、かつては徒歩渡りだったのですが、
案内板には小さな流れ橋を渡るようにとありました。
ところが橋は少し前に流されてしまったようです。
「流れ橋がない時はコンクリ橋に迂回してください」
このように書かれてあるぐらいですから
橋はよく流されてしまうのでしょうね。

結局は水量が少なかったので徒歩渡りをしたのですが
10月ということで水は結構な冷たさがありました。
冬場の徒歩渡りはきついことでしょう。
冷えた足は少し行った先にある
「ゆりの山温泉」で温めることにしました。


熊野詣の天皇や上皇、武人や宮人が湯垢離をとったといわれます。
料金は安い上に泉質はとても良いもので
湯舟が一つながらも源泉かけ流しで気持ちの良いものでした。
温泉は飲料可ではないのが循環式でない証拠ですね。



呼ばずの坂。
明治初期の話で郵便配達員が
ここで大声を出して郵便物を取りに来させていたそうで、
他の人はここでは大声を出さないようにしていたようです。
なんという怠惰な郵便配達員なのでしょう。


さて、次なる難所は駿田峠です。
峠への入口は各年代のトンネルが並んでいますが、
トンネルが出来る前はこれから通る道筋がメインでした。
そのため幅広の箇所が多い印象です。

駿田峠。なかなか立派な切通し。
馬車も通れる広さがあります。
振り返って見てもこの通り。かなりの大きさです。


やがて紀伊勝浦の町が見えて
天満の集落を抜けると中辺路との合流地点へ。
ここには「大へち」と刻まれたお地蔵さんが鎮座されています。



これで完歩となりましたが感想はまた別の機会としまして、
今回の宿は紀伊勝浦の駅前に取って休んだのですが、
高速道路が延伸してから道路沿いは活気が出ているものの
鉄道の駅周辺は元気がなくなってしまったように感じます。
かつて帰りのくろしおは3連休の帰りとなると満席が常でしたが、
今回は台風の影響があったにせよ、空席だらけの状況を見ると
今後の鉄道輸送はどうなってしまうのか心配でなりません。