2021年05月28日

厄除け参りの水間街道・貝塚→水間寺その2

前回は貝塚駅の少し先まで歩みを進めました。

水間街道は全区間に渡って程よく旧道が残っていて、
距離も手頃なのでミニハイクにもってこいです。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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ここは国道26号と交差する場所「鳥羽」

この先は水間寺に関連する地名が続いていきます。
地名のどれもが難読に近い名前になっているので
それだけでも歴史を感じることができるでしょう。

水間寺は行基が創建したものですが、
その当時の天皇は有名な聖武天皇でした。
ある日、天皇の夢に現れたという観音菩薩を求めて
行基が白鳥(しろとり)に導かれ歩みを進めていきます。

ところが当地で白鳥を見失ってしまったのです。

その後、彷徨っていたところ現在の「清児」付近で
観音菩薩の化身(16人の童子)と遭遇します。

そして、その童子の案内で現在の「水間」の地へ進み、
そこで竜神から聖観音像を授けられたという話です。

いやぁ、こういう話があったとは。
やはり歴史を調べてみて初めて知ることは多いですね。

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さて、今回の水間街道では藪漕ぎもありました。
一見すると普通の農業用のあぜ道といった類ですが、
実は古地図を見ればれっきとした街道そのもの。

所々で、お地蔵さんが祀られていました。

中には地名が刻まれた道標型地蔵の類があるので
気になる方は前掛けをめくってみても良いでしょう。

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この先で熊野街道と合流します。
泉州では小栗街道と呼ばれるのが一般的です。

また並行する府道は13号線と呼ばれています。
ただ、それは正式名称でないんですよね。

「大阪府道30号大阪和泉泉南線」

と、立派な名前がついてるのですが、
地元の古老に聞いてもよくわからないとのこと。

一説には道幅の「十三間」からきているらしいですが、
まぁ、泉州の大いなる謎の一つかもしれませんね。

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清児(せちご)の集落入り口。

良い雰囲気です。
旅人にとっては嬉しい町並みではあるのですが
道路の狭さ一つ見ても生活している人にとっては
いろんな不便があることを想像できます。

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この先で水間街道と並行する水間鉄道と交差します。
昔はキロあたりの運賃が1番高かった記憶がするのですが
今はどうなのでしょう?車両も随分と変わりましたし。

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名越の集落。
各集落の出入口には祠があることが多いので注目です。

森神社は水間寺とセットで参る人が多かった神社で、
拝殿の奥の本殿は江戸時代中頃のものになります。
元々は東方の山頂に建つ神社だったそうです。

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水間街道の文字。
こういうのいいですよね。

鉄道は水間観音の手前で終わっているので
駅からは今も現役の街道と言ってもいいでしょう。

水間厄除け街道マップなるものもありました。

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水間寺が見えてきました。橋を渡ればゴールです。

本堂は文化8年再建。三重塔は天保5年再建。
三重塔は明治以前に建てられた大阪府内唯一のものです。

水間街道は広義の意味では奥水間方面も指すのですが、
これはまたの機会にしておきたいと思います。

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帰りは水間鉄道を利用しました。
水間観音駅は何かを模した駅舎としては
古い部類だったはずで登録有形文化財になっています。

なお、今回の記事での解説およびルートは、
大阪の街道と道標 武藤 善一郎著を主たるものとして
現地の案内看板、古地図を参考にしています。 


  
posted by にゃおすけ at 09:41 | Comment(0) | 大阪近辺の街道 | 更新情報をチェックする

2021年05月21日

厄除け参りの水間街道・貝塚→水間寺その1

泉州地域で厄除けといえば水間さんでしょう。
創建は古く行基の時代まで遡ります。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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水間街道の起点は貝塚の紀州街道との追分。

貝塚は願泉寺を中心とした寺内町で
古い家々が道筋と共に今もよく残っています。
大阪では富田林に次ぐぐらいの規模でしょうか。

貝塚の名は元々は「海塚」だったのですが、
16世紀に寺内町が形成された頃に「貝塚」となります。

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上の写真は駅前にあった領界石。
「海塚」と書かれているのに注目です。

この領界石は明治のものなので
16世紀のものではありません。では、なぜ?
実は貝塚の名は寺内町を中心とした場所のもので、
それ以外の旧村は海塚のまま残っていたようなのです。

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灰色の部分が寺内町に存在した壕の推定場所です。
今は市の名前になって広域を指すようになっていますが、
この寺内町こそが貝塚の原点といえる場所でしょう。

ちなみに貝塚は縄文時代の塚と連想しやすいですが
未だ遺跡が見つかってないので関連は薄いとのこと。

海塚から貝塚になった経緯が気になりますね。

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さて、街道ルートを特定する時に役立つのが古地図です。

それは江戸時代前のものから明治時代まで様々ですが、
貝塚には日本一古い私鉄とされる南海電車が走っているので
明治の地図では既に線路が通ってしまっています。

そこで、古地図が中心となっていくわけですが、
幸いにして願泉寺の絵図が豊富に残されてあるので
それを見ればルート特定は比較的容易かもしれません。

ただし、道筋は車社会の影響で拡幅をしていることがあります。
どちらが拡幅した側なのか調べてみる必要があるのですが、
手っ取り早い見分け方としては現地調査が一番でしょうね。
大抵は古い家が建っている側が昔の旧道沿いといえると思います。

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感田神社。
寺内町の東端に位置する貝塚の産土神です。

境内には寺内町の壕が残されています。
現在はこの一角のみしか残っていませんが、
戦前までは三方にしっかりあったそうです。

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今昔マップより

昔は寺内町を出ると田畑が広がっていました。

田畑に必要なものといえば、水ですね。
泉州地域は河川が少なく水不足が顕著だったので、
古くから溜池が作られ今も数多く残っています。

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ただ、多くのものは老朽化が進んでいるようです。

大雨等で決壊や破損につながる恐れがあるので、
街道筋の溜池では補強しているものも見られました。

今回はここまで。



posted by にゃおすけ at 10:15 | Comment(0) | 大阪近辺の街道 | 更新情報をチェックする

2021年05月14日

京都の宿で古地図を開いてみると

住んでる町や知らない町へ行ったとき、
昔はどのようになっていたか気になることがあります。

先日、京都に泊まった時のこと布団に入って
iPadで今昔マップを眺めていると・・・。

まず、目に入ったのはこの楕円形。

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よく見ると京都競馬場と書いてあります。

えっ、こんなところに!?

どうやら淀に移る前の旧競馬場らしいのです。
明治とはいえ京都駅から遠くない場所にあったとは。

今回は梅小路付近の宿に泊まりました。
近年は鉄道博物館や水族館で人気のある場所です。

でも、それらが出来る前の梅小路はというと、
どちらかというとパッとしない感じだった気がします。

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次にこれを見てください。島原と書いてあります。

島原とは江戸時代は祇園と双璧を成すほどの花街で、
今も開設当時からの建物が残ってる場所です。

名前は知っていても宿の近くにあったとは驚きました。
思わずベッドから外に飛び出しそうな勢いでしたが、
泣く泣く、朝を待ちました。

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入口には大きな島原大門。

そして、花街が出来た当初からある角屋は、
1641年の建築。なんと見学することが可能なのです。
入館料はフルで見学する場合は1800円必要ですが、
江戸時代の揚屋は貴重なので払う価値はあるでしょうね。

島原では地名にも太夫町があったりして、
かつての花街の賑わいを随所に感じることができます。

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この後は嵯峨野トロッコに乗りましたが空いてますね。
やっぱり一番混むのは紅葉の時期なのでしょうか。
今回はあえて逆方向の亀岡から乗ったこともあるのでしょう。

気付けば客車列車は今や貴重な存在になりました。
発車時の衝撃は独特なもので懐かしいものです。

以前に乗車したときと比べると保線状態が悪く感じましたが、
これはこれで揺れ方が面白く楽しいものでした。

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posted by にゃおすけ at 10:44 | Comment(0) | 近畿ボラボラ_京都 | 更新情報をチェックする