これは他の城下町と同じく防衛上からのものですが、
とりわけ佐賀は様々な工夫が見られます。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
東溝口は佐賀城下の東の入口にあたります。
番所が設置され街道を往来する人々が必ず通る場所でした。
ところが、番所を避けて脇道で抜ける人が絶えません。
これでは防衛の意味をなさないことになるので
次第に市中各所に木戸や番所が増えていきました。
特に長崎街道は長崎から来ていることから
キリシタンへの警戒も必要だったのでしょう。


かつての城下には指差し道標があちこちにありました。
これはレプリカですが現存のものもあります。
このような道標があったおかげで
昔の人も迷わず歩くことが出来たものと思います。
現代においても旧街道にはカラー舗装が施されていて、
地図を見ずとも長崎街道を楽しめるのは良いですね。


思案橋からの眺め。
昔は川舟が行き来していた場所ですが、
上流の芦町は歓楽街、下流の今宿には遊郭があったので
「行くか戻ろうか」と思案する場所だったのが橋の由来です。
材木町の町並みを抜けると柳町です。


佐賀城下の町並みといえばココ!というべき場所で、
城下最古の町家建築の牛島家など無料で見学が可能です。
無料というのは旅人にとって有難いもので、
興味がなくても覗いてみようかという気になります。
本丸御殿でさえ無料で公開しているのには驚きました。
佐賀県は歴史分野に関して力を入れてる気がします。
長崎街道を歩いていても案内看板をあちこちで見かけます。

旧古賀銀行。
もちろんこの中にも入ることが出来ます。
資料館になっていて喫茶店にもなっています。
ちなみに地名の佐嘉が佐賀になったのは明治初めのこと。
それまでは佐嘉が一般的だったそうです。



旧道はショッピングセンターの中へ。
ビルの敷地になってしまい消失したと思いきや、
出入口には立派な案内看板があり通ることができます。
そういえば中山道の熊谷にもありましたね。
重装備でこの中を歩くのは場違い感が凄いですが。

龍造寺八幡宮での道筋は少々複雑です。
多くの街道ウォーカーが悩む場所だと思います。
建久年間(1190年〜1199年)に鶴岡八幡宮から勧請され、
慶長9年(1604年)に佐賀城内から現在地に遷座されています。
建物自体は境内を北に拡張した明治34年頃と思われます。
この「北に拡張した」という言葉。重要です。

街道は古地図を見ると本殿の後ろを通っているのがわかります。
現在においても本殿の後ろに道が通っています。
拡張時に本殿なども一式移動していることから、
元々あった道も移動していると考えるのが自然なので、
現在の本殿の後ろにある道は移設したものと考えられます。
では、元々の街道の位置はというと、
鳥居と拝殿のちょうど中間を通っていたと思われます。
ようするに完全に境内に取り込まれているのです。

佐賀城下ではあちこちで恵比寿様の像を見かけます。
上の写真は江戸中期の寛政年間に作られたもので、
最も古い部類になります。
佐賀市内においての恵比寿像の分布ですが、
商家や旅籠の近くが多く特に街道沿いに目立っています。
これは商売繁盛の神様だけに納得の分布です。

善左衛門橋。
元々、土橋が架かっていたところ老朽化したので
私費で架け替えたもので完成は1764年とあります。
その後、明治になって補強が行われています。
下を覗いてみると橋脚は昔のままのようです。
佐賀城下は水路が多く古い橋も多い印象があります。


八戸地区。のこぎり型の町並みとして有名です。
家の敷地をのこぎり状にすることで敵が来襲した際は、
窪みに隠れて奇襲することができるというものです。
これは佐賀城下の東側では見かけなかったので、
長崎側からの襲撃を意識したものかもしれませんね。

佐賀城下の西の端に当たる場所が高橋です。
江戸時代までは川には多くの舟が行き交っていて
橋の周辺は荷物の集積場としての役割がありました。
高橋の地名の由来は”高い”橋からで、
舟の帆が当たるのを避けるための対策が施されてました。


嘉瀬集落にあった「別れの松」。
俗に言う”刑場”というものは
町の中には設けず郊外にあることが多かったわけですが、
佐賀城下も例外ではなく現在の森林公園にありました。
刑場へ向かう罪人との最後の場所がこの場所で、
水を酌み交わすこと許されていたそうです。
ここから刑場へは1kmほどの距離。
どのような気持ちで刑場へ向かったのでしょう。

やがて嘉瀬川を渡れば今回の目的地の久保田宿。
次回は武雄温泉へと向かう道中になります。