2021年07月28日

人気の中国ハイウェイバス

今回はJRハイウェイバスのお話。
東名、名神の大動脈が人気なのは当然として、
ほぼ同列で語られることが多いのがこの路線です。

時刻表を見るとなかなかの本数なのがわかります。
特急や急行、昔は超特急までもが走っていたほどです。
ただ、沿線の都市は目立って大きいのは津山ぐらいで、
輸送需要自体はそれ程多くはないと思われます。

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今回、大阪に住んでいながら初利用だったわけですが、
ネット予約で座席指定まで出来て思わず驚きました。
しかもsuica決済も出来るとは。

座席を指定できるということは発売状況も分かるわけで、
乗車する朝7時の津山行きは空席多数なのが見てとれました。
また、この便は「特急」なので途中停車が少ないタイプ。
津山に近づくにつれ客は減っていくものと想像しました。

ところが・・・。
実際はその逆でした。

行程の2/3までは乗降が少なくガラガラでしたが、
津山まであと少しで続々と乗車があり満席となります。

ようするに、地域の足になっていたんですね。
中国道には並行してJR線も走ってはいるのですが、
スピードは遅いし本数はそれほど多くありません。
快適な高速バスを利用するのは自然の流れなのでしょう。

特に今回の大阪7時発の特急バスは
津山付近では始発便を兼ねていたことから、
買い物客や遊び目的の若者が多く乗車してきました。

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津山からの帰りは急行を利用しました。
ほぼ全てのバス停に停車するので時間がかかります。

津山13時半の便は観光帰りにはまだ早い時間帯です。
予想通りバスの車内は快適そのものでした。

が・・・。
大阪に近づくにつれ満席に。

全行程3時間かかるので、
津山では帰るには早い時間でも
途中のバス停では15時台通過となってしまいます。
ようするに、帰るのに丁度良い時間帯になるわけです。

満席の車内を思うと宝塚渋滞があれば悲惨でしたが、
スイスイと定時の17時前に大阪駅に着けました。

この定時着は新名神開通のおかげでしょうね。
開通によって宝塚の渋滞がガクッと減ったのは有難いことで、
それまでは10km程度の渋滞が当たり前だったことを考えると
まさに革命的な出来事だったと言えると思います。

おわりに。

東名名神高速バスと違う点を挙げるとするならば、
地域輸送がかなりのウエイトを占めてるように感じました。
鉄道のある兵庫県内の北条や福崎といった町でも
高速バスを使った方が便利であることが多いようで、
地域相互間の利用も多く見られるようです。

宝塚渋滞の減少で定時運行が期待できるようになったので、
今後も機会があれば利用したいと思います。



  
   
posted by にゃおすけ at 11:35 | Comment(0) | 中国ボラボラ | 更新情報をチェックする

2021年07月20日

長崎街道その10・小田宿→武雄温泉

山に沿って旧道が続きます。
 
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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

一般的に通行量が増えると旧道を拡幅するものですが
ここの場合は新しい道が並行して作られています。
いわゆるバイパスと呼ばれるものです。

長崎街道は長崎とを結ぶ重要路なので、
山沿いをウネウネした旧道を拡幅するだけでは
需要に対応できないと判断してのものでしょう。

おかげで旧道は生活道路として残されることになり
長い距離に渡って往時を偲べるのは有難いことです。

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代官所跡。

財政難の佐賀藩を立て直すために作ったシステムで
横辺田にある代官所は初期に建てられた一つです。

当時の佐賀藩の財政を調べてみると、
他の藩と同じような一般的なお役目以外にも
佐賀藩には特別に長崎警備強化の負担がありました。

これが財政難の原因とは一概には言えませんが、
直正公の時代の話では江戸から佐賀へ向かった折りのこと、
途中の品川で米や味噌を収めていた商人が押しかけてきて
返済を求めて行列が動けなくなったことがありました。
日用品の支払いにも事欠くほど困窮していたのは確かなようです。

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大町町役場付近の街道はカラー舗装されていました。

右手は石切場跡(下の写真)
建築用材として広く利用され舟で積み出されていました。
享保年間には佐賀城普請にも使われていたそうです。

ここは古代まで遡れば赤坂砦として有名な場所でもあります。

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この辺りは地図を見ると溜池が多いのがわかります。

これは多くのものが農業用として作られているもので、
上の写真の焼米池(当初は龍王池)は江戸中期のものです。
近代になって拡張されているので驚くほど広々としています。

街道の南を六角川が流れてはいますが、
それでも水不足の対策が必要とは不思議なものです。

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しかしながら、六角川でひとたび洪水がおこると、
周辺の地質は有明粘土層なので水はけが非常に悪く、
街道の通行に支障が出るほどだったそうです。

この辺りの長崎街道が山に沿ったルートなのは、
洪水時でも安定した通行を考えてのものかもしれませんね。

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焼米宿はJR北方駅近くにあります。

間の宿ではあるのですが旅籠があり日用雑貨店など
十数軒が並ぶ庶民的な町が広がっていたそうです。

先ほどの赤坂(石切場)で取れた石材や炭鉱のおかげで
昭和初期まで賑わっていたといいます。

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右手に追分観音。
ここが塩田道との追分の場所にあたります。

長崎街道開設当初は塩田道が本道でしたが
度重なる水害で武雄温泉経由がメインとなります。

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北方宿。右が本陣跡で左が脇本陣跡。
手前にある川が堀の役目となっていて東溝口にあたります。

立派な白壁の建物は天保10年のもの。

この付近では江戸中期から石炭の採掘が盛んで
街道は石炭を山積みにした人馬が往来していたそうです。

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その様子を描いた絵馬が八幡社に奉納されています。

この辺りの炭鉱は1970年代に閉山を迎えますが、
幕末の頃は困窮対策に藩が経営に乗り出してくると
特に製塩向けに需要を伸ばしていたといいます。

北方宿の中心部で直角に曲がると西溝口です。

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高橋宿は間の宿でした。

地名の謂れは高橋という古い石橋で、
現在はコンクリート製に架け替えられています。

そして享保橋なるものも高橋宿のはずれにあるのですが、
名前から見て長崎街道がこちらが本道となった時期と重なるので
ちょうどその頃に初代が架けられたものと思われます。

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麦畑と御船山。今回のゴールが見えてきました。

この先の街道は平坦なJR線沿いへは行かず
なぜか、丘を越える道筋をとっています。

おそらく昔は入江が多かったという話があるので
古来からの道を踏襲しているのではと思われます。

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八並地区の石塔は古いもので1200年頃のもの。
ただ風化が激しく何が書いてあるのか不明なのが残念です。

そういえば、写真には撮っていませんが
お墓に供えている花が全て綺麗なもので華やかなものでした。

鹿児島ではよく見られる光景ですが
この辺りも同じような文化があるのでしょうか。

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桝形の跡。
この辺りは既に塚崎宿に入っていると思われます。

武雄は温泉場として開かれた町で古くからある地名ですが
広域においては「塚崎」「柄崎」と呼ばれるのが一般的でした。

武雄が全国的に認知されるようになったのは
鉄道の開業によるものが大きいそうです。

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江戸時代の塚崎宿の絵図。
武雄温泉のシンボルである楼門は描かれていません。

それもそのはず楼門は大正期の建物で辰野金吾の設計。
元々は本陣があった場所だったのです。

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今回はここまで。
次は嬉野温泉までの道中になります。




posted by にゃおすけ at 14:09 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする

2021年07月12日

長崎街道その9・久保田宿→小田宿

今回の遠征の2日目。
間の宿である久保田宿より出立しました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

境川を渡れば小城市に入ります。
小京都小城と呼ばれる場所はまた別の場所です。

次の牛津宿は小城藩の港が整備された重要な場所で
様々な産物の集積地として栄えていました。
それは西の浪花と呼ばれたほどでした。

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宿場中心部は昭和末期に区画整理が行われました。

その結果、古い雰囲気が失われてしまっていますが、
脇道に逸れると区画整理から免れた建物が点在しています。
牛津町会館や牛津赤れんが館は代表的なものです。

町歩きは表通りだけでなく裏通りにも見所があるもので、
忙しい街道歩き中でも気を抜けません。

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長崎街道は砂糖が運ばれた道でもあって
シュガーロードと呼ばれ沿道には菓子文化が花開きました。

小城といえば羊羹が有名ですが小城羊羹も原点を辿れば
長崎街道が関係しているのかもしれませんね。

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牛津駅から先は区画整理が行われず、
昔の繁栄を想像できるような光景が広がっています。

宿場の西の端には牛津川が流れ、かつて港がありました。
痕跡は昔と流れが変わっているので皆無に等しく、
ちょうど中州になっているあたりが川筋だったといいます。

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長崎街道の珍名所「カンカン石」

見ての通り一見すると普通の石に見えますが
小石で叩けばカンカンと音が鳴るのです。

この石の正体はサヌカイトなわけですが、
当時の人にとっては摩訶不思議だったことでしょう。

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新緑の季節は山がパッチワークのようで美しい。

長崎街道は肥前山口駅前を進みます。

新幹線が開業する時期に江北駅になると話題になりました。
すでに山口村の自治体名はとっくの昔にないわけですが、
よく令和の時代まで名前が残っていたなと思います。

この先の長崎街道はいくつかのルートに分かれます。
長崎本線に沿った海沿いの道が鹿島道です。

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今回の区間では旧道が随分と残っていました。
そのおかげで「道路元標」も多く現存していました。

下の写真は旧山口村のものですが、
見ての通りほとんど判読不能となっています。
どうも佐賀県に入ってからは石の材質が違うのか
このようになってるものが多い気がしました。

地元の人と話をしましたが石が何か御存知でない様子で
道路元標で大正時代のものと説明すると驚かれていました。

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間の宿である朝鍋宿。
古い地図を見ても人家は少な目に描かれています。

麦畑をしばらく行けば小田宿に入るので、
需要自体あまりなかったのかもしれません。

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小田宿は古い家が全般的に少ないのが意外でしたが、
道筋と家の敷地に面影を感じることができました。

見所は下の写真の旧家の向かいにある茶屋岩見屋の池園。
池の水は扇状地から流れ出る湧水を利用したもので
藩主もたびたび休息していたそうです。

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ちょうど楠の大木があったので私も暫し休息。
シーボルトやケンベルも日記に書くほどのもので、
樹齢は驚くことに1200年も経っているそうです。

でも、武雄周辺には樹齢3000年なんてのも存在します。
この地域は巨木が育ちやすい環境なのかもしれませんね。

今回はここまで。
次回は武雄温泉までの道筋です。





posted by にゃおすけ at 10:52 | Comment(2) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする