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嬉野温泉は以前にも訪れたことがありますが、
やはり歩きだと見え方が随分と違うものです。
街道歩きでは道中にも時間をかけることから、
たかが移動でも濃厚な時間が流れています。
もちろん、車や鉄道でもそれは可能ですが、
目的地に着いた時の感動は時間をかけた分違います。
見え方が違うのは、この「感動」の部分と、
達成感、疲労感も影響しているのでしょう。

嬉野宿内での旧道はほぼ昔のまま残っていますが、
西溝口(現在のバスターミナル)からは消滅しています。
ここには宿場の出入口にあたる門がありました。
昔の航空写真を見てわかるように
戦後すぐの時点で既に旧道の痕跡がないことから、
早い段階で土地の整理が行われていた可能性があります。
その後、温泉街が西に拡張したという流れでしょうか。


勢いよく流れる水路に勾配を感じます。
下の写真は国道によくあるキロポストです。
鳥栖から74キロと刻まれています。
この74キロという数字は100キロウォーク経験者なら
1日で十分歩ける距離だと思うことがありますが、
街道歩きは大会とは違うのでノンビリ歩くのが一番です。


平野の渡し跡。
渡しとありますが川幅的に舟でのものではなく
大きな石を伝って向こう岸に渡るタイプでした。
安政年間には石橋が架けられますが
洪水で流れてしまい代わりに木橋が架けられます。
このような渡し場というものは
川の両岸に茶屋や神社があったりしますが、
ここも例外なく茶屋があり賑わっていたそうです。


古き良き日本の農村風景が広がっています。
新緑がパッチワークのようで美しい光景です。
石がゴロゴロした畔道を上って行けば、
茶畑を手前に配しての光景がまた見事でした。
この畔道(下の写真)に散らばった石は、
恐らくは急坂に設置されていた石畳の痕跡なのでしょう。
江戸時代の石畳は道普請によって維持されてましたが、
維持する人がいなくなれば荒廃するのは自然の流れで、
このような姿を時おり目にすることがあります。



俵坂番所は正確には俵坂口留番所跡といって
戦国時代には既に関所としての役割がありました。
江戸時代ではキリシタンの取締まりが重要だったようです。
振り返っての景色ですが写真の左手に番所がありました。
ここには佐賀県側の国境石が置かれています。
「従是北佐嘉領」

一方、長崎県側の国境石は峠付近にあったそうです。
番所からしばらく進めば俵坂峠。
いよいよ最後の長崎県に入ります。

峠は車が通りやすいよう掘り下げられています。
これは他の峠でもよくある例です。
このような場所では旧峠が意外と残っていることがあって、
道の両側の小高い場所が実はそうであることが多いのです。
ここも下の写真のような痕跡が残っていました。


長崎県側でも殆どの区間で旧道が残ります。
こちら側も茶の栽培が盛んで茶畑が多いのですが
佐賀県側と比べると段々畑が多いのが特長な気がします。
生えそろった茶畑と石積みの組み合わせは綺麗なもので、
整ってる姿を眺めてると気持ちの良いものです。



新幹線を俯瞰できる場所に出ました。
長崎街道と新旧の共演です。
俯瞰して撮影できる場所は限られてると思うので
もしかすると撮影地として人気になるかもしれません。
それにしても崩れ対策のコンクリートは凄いもので
上から下までというのはなんとも見事です。

鳥越一里塚跡への道ですが廃道になっています。
嬉野側からは少しわかりづらく廃れた看板のみが目印です。
こういった場所で重宝するのはヤマレコアプリです。
先人の足跡が表示されるので藪道でも絶大な安心感があります。
ただ、山歩き向けアプリなので街道歩きの記録は少なめです。
鳥越一里塚への足跡は2人ほどしかないものでした。

藪を進んで行くと真新しい案内板が現れました。
この小山状になってるのが鳥越一里塚跡です。
長崎街道では「ひのはしら一里塚」が唯一現存といいますが
状態を見る限り鳥越も加えても良さそうでしょうね。
真新しい案内看板を読んでみると、
土地の所有者の御好意で通れるようになったとあるので、
長らく日の目を見なかった幻の一里塚と言えると思います。

大楠が見えます。
先代の大楠は中に15人ほど入れるものだったようです。
伝説としては弘法大師が田の畔に杖を突きさしたら
ニョキニョキと楠が生えてきたものといいます。
まあ、よくある弘法大師の逸話ではありますが、
先代と同じような巨木に育った姿を見ていると、
なにやら不思議なものがあるのかもしれません。

高速道路を交差する辺りで遠くに海を見渡せます。
下の写真は川原千部塔です。
1657年に多数の隠れキリシタンの発見を受けて、
街道や集落内に仏教徒の証として設けられたものです。
これは1664年に設置された15基のうちの一つ。
長崎県ではキリシタン関係の史跡が多そうです。


やがて彼杵宿。
長崎街道と平戸街道が交差する宿場町です。
ここの見どころは元禄年間に造られた彼杵港でしょう。
石積みで作られた舟の乗降場では各地の産物が取り扱われ、
旅客輸送では長崎に直接渡ることもできたそうです。
以上、今回の3日間での道中はこれで終わりです。
次回の遠征では長崎市中に入って完歩とする予定です。