2021年08月30日

長崎街道その12・嬉野宿→彼杵宿

いよいよ長崎県との県境を跨ぐ区間です。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

嬉野温泉は以前にも訪れたことがありますが、
やはり歩きだと見え方が随分と違うものです。

街道歩きでは道中にも時間をかけることから、
たかが移動でも濃厚な時間が流れています。
もちろん、車や鉄道でもそれは可能ですが、
目的地に着いた時の感動は時間をかけた分違います。

見え方が違うのは、この「感動」の部分と、
達成感、疲労感も影響しているのでしょう。

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嬉野宿内での旧道はほぼ昔のまま残っていますが、
西溝口(現在のバスターミナル)からは消滅しています。
ここには宿場の出入口にあたる門がありました。

昔の航空写真を見てわかるように
戦後すぐの時点で既に旧道の痕跡がないことから、
早い段階で土地の整理が行われていた可能性があります。
その後、温泉街が西に拡張したという流れでしょうか。

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勢いよく流れる水路に勾配を感じます。

下の写真は国道によくあるキロポストです。
鳥栖から74キロと刻まれています。

この74キロという数字は100キロウォーク経験者なら
1日で十分歩ける距離だと思うことがありますが、
街道歩きは大会とは違うのでノンビリ歩くのが一番です。

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平野の渡し跡。
渡しとありますが川幅的に舟でのものではなく
大きな石を伝って向こう岸に渡るタイプでした。

安政年間には石橋が架けられますが
洪水で流れてしまい代わりに木橋が架けられます。

このような渡し場というものは
川の両岸に茶屋や神社があったりしますが、
ここも例外なく茶屋があり賑わっていたそうです。

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古き良き日本の農村風景が広がっています。
新緑がパッチワークのようで美しい光景です。

石がゴロゴロした畔道を上って行けば、
茶畑を手前に配しての光景がまた見事でした。

この畔道(下の写真)に散らばった石は、
恐らくは急坂に設置されていた石畳の痕跡なのでしょう。
江戸時代の石畳は道普請によって維持されてましたが、
維持する人がいなくなれば荒廃するのは自然の流れで、
このような姿を時おり目にすることがあります。

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俵坂番所は正確には俵坂口留番所跡といって
戦国時代には既に関所としての役割がありました。
江戸時代ではキリシタンの取締まりが重要だったようです。

振り返っての景色ですが写真の左手に番所がありました。
ここには佐賀県側の国境石が置かれています。

「従是北佐嘉領」

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一方、長崎県側の国境石は峠付近にあったそうです。

番所からしばらく進めば俵坂峠。
いよいよ最後の長崎県に入ります。

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峠は車が通りやすいよう掘り下げられています。
これは他の峠でもよくある例です。

このような場所では旧峠が意外と残っていることがあって、
道の両側の小高い場所が実はそうであることが多いのです。
ここも下の写真のような痕跡が残っていました。

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長崎県側でも殆どの区間で旧道が残ります。

こちら側も茶の栽培が盛んで茶畑が多いのですが
佐賀県側と比べると段々畑が多いのが特長な気がします。

生えそろった茶畑と石積みの組み合わせは綺麗なもので、
整ってる姿を眺めてると気持ちの良いものです。

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新幹線を俯瞰できる場所に出ました。
長崎街道と新旧の共演です。

俯瞰して撮影できる場所は限られてると思うので
もしかすると撮影地として人気になるかもしれません。

それにしても崩れ対策のコンクリートは凄いもので
上から下までというのはなんとも見事です。

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鳥越一里塚跡への道ですが廃道になっています。
嬉野側からは少しわかりづらく廃れた看板のみが目印です。

こういった場所で重宝するのはヤマレコアプリです。
先人の足跡が表示されるので藪道でも絶大な安心感があります。
ただ、山歩き向けアプリなので街道歩きの記録は少なめです。
鳥越一里塚への足跡は2人ほどしかないものでした。

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藪を進んで行くと真新しい案内板が現れました。

この小山状になってるのが鳥越一里塚跡です。
長崎街道では「ひのはしら一里塚」が唯一現存といいますが
状態を見る限り鳥越も加えても良さそうでしょうね。

真新しい案内看板を読んでみると、
土地の所有者の御好意で通れるようになったとあるので、
長らく日の目を見なかった幻の一里塚と言えると思います。

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大楠が見えます。
先代の大楠は中に15人ほど入れるものだったようです。

伝説としては弘法大師が田の畔に杖を突きさしたら
ニョキニョキと楠が生えてきたものといいます。

まあ、よくある弘法大師の逸話ではありますが、
先代と同じような巨木に育った姿を見ていると、
なにやら不思議なものがあるのかもしれません。

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高速道路を交差する辺りで遠くに海を見渡せます。

下の写真は川原千部塔です。
1657年に多数の隠れキリシタンの発見を受けて、
街道や集落内に仏教徒の証として設けられたものです。

これは1664年に設置された15基のうちの一つ。
長崎県ではキリシタン関係の史跡が多そうです。

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やがて彼杵宿。
長崎街道と平戸街道が交差する宿場町です。

ここの見どころは元禄年間に造られた彼杵港でしょう。
石積みで作られた舟の乗降場では各地の産物が取り扱われ、
旅客輸送では長崎に直接渡ることもできたそうです。

以上、今回の3日間での道中はこれで終わりです。
次回の遠征では長崎市中に入って完歩とする予定です。

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posted by にゃおすけ at 16:18 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする

2021年08月17日

長崎街道その11・武雄温泉→嬉野宿

GWとなれば4時台から明るいものですが
西の夜明けは遅いことを実感した道中でした。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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街道歩きで至福な時といえば温泉でしょうか。

温泉宿が都合よく街道上にあることは稀ですが、
武雄温泉では1人利用が可能な宿がいくつかあったので、
温泉に入って昔の旅人気分を楽しむことが出来ました。

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西溝口を過ぎるころには夜が明けてきました。
特徴的な御船山が綺麗な朝焼けに映えます。

下の写真は湯の谷石橋です。

パッと見た感じは普通の橋に見えますが、
橋脚を見れば昔の造りなのが一目瞭然です。

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しかし、よく見ると橋脚が欠損しています。

これは2年前の水害によるもので、
いつ壊れてもおかしくない寸止めの状態です。
当然ながら通行禁止の処置が取られていました。

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この先は渕ノ尾峠への峠道となります。

本来ならば川沿いを辿っていくのですが、
ダム設置によって失われています。

でも、安心してください。
迂回路を辿った先で旧道が復活しているのです。

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一見すると普通の山道に見えなくもないですが、
道幅を見ると妙に広すぎる感じがすると思います。

この道幅こそが多くの人が往来していた証拠で、
全体的に緩やかな勾配なのも街道によくある特長です。
人に限らず物資の輸送も多かったことでしょう。

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渕ノ尾峠。

峠道は山の中にあることから、
町中とは違って往時に近い状態である場合があります。
人が通らなくなると必然的に荒れてくるものですが、
藪さえ処理すれば意外と通れたりするものです。

この淵ノ尾峠の区間は保存状態が良好だったので、
昔の有名な人も通ったと思うと感慨深いものがありました。

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真新しい西九州新幹線と交差します。

ここから嬉野にかけては区画整理が大規模に行われ、
旧道を辿ることが困難な状況になっています。
かつての様子は昔の航空写真で確認出来ます。

さらに近年になって新幹線の工事が始まったので、
消失箇所が増えたのではと少し気がかりでした。

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上の写真の場所はギリギリ街道を避けてくれたようです。
工事のおかげで昔の風情はすっかりなくなっていますが、
道筋を昔に近い状態で辿れるだけでも大変有難く思います。

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嬉野が近づいてくると茶畑が増えてきます。
この一帯は茶の生産が盛んで名前は県境で変化します。
佐賀県側を嬉野茶。長崎県側を彼杵茶と呼ばれています。

嬉野茶は1440年に中国から移り住んだ陶芸工が
自家用に茶を栽培したのがはじまりとされています。

有田を含むこの一帯は古くから陶芸が盛んだったので、
陶芸があったからこそ生まれた茶といえるかもしれません。

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遠くに嬉野宿が見えてきました。
北方宿で分かれた塩田道と合流します。

下の写真は上使屋の門ですが
本来、上使屋とは大名などが休む本陣の施設です。
ところが嬉野宿の上使屋は大層狭かったので
専ら瑞光寺が使われていました。

上使屋は明治になると旅館に払い下げられ、
大きな門は必要ないということで移設することになり、
明元寺の山門として今も見ることができるのです。

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大定寺坂を下って温泉街へ。

坂の名前になってる寺は鍋島藩の祈願寺で、
藩から厚い庇護があり伽藍を構えるほど大きな寺でした。

ところが廃藩の際に寺領を没収される目にあいます。
資金が途絶え荒廃し山間に移転となりました。

ちなみに坂の上には地蔵堂と石塔があるのですが、
大定寺と何か関係があるのでしょうか。

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嬉野宿。東西500mの宿場内には
約30軒の旅籠、木賃宿や商家が100軒ほどが並んでいて、
古くから「湯宿」と言われるほど賑わっていました。

嬉野宿の特筆すべき点は「番号が書かれた石」でしょう。

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佐賀本藩と蓮池支藩に支配されていた嬉野宿は
江戸中期に境界紛争が勃発して本藩が勝利します。

その後、新しい境界には約2000個の番号石が
20メートル間隔で設置されることとなります。

驚くべきことは宿場内だけではなく、
嬉野地区の村全体に設置されていたのです。
これだけ見ても紛争が大事だったことがわかります。

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この左手の広場が旧上使屋の場所にあたります。
見渡した感じ本陣として使用するには狭すぎです。
ちなみに藩営の温泉があったのもこの辺りになります。

近接するシーボルトの湯で汗を流しましましたが、
温泉の質は武雄温泉と似ていてヌルヌル感があって、
さすがは日本三大美肌の湯と言われるだけはありました。

この為に朝早く出立したのは正解でした。
  
今回はここまで。
次は彼杵宿までの道筋です。





   
posted by にゃおすけ at 11:42 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする

2021年08月05日

津山のレトロ建築を求めて

津山で思い浮かぶものといえば、
桜の季節の津山城、出雲街道の宿場町、
あと、残虐な津山事件もありましたね。

今回は3時間半の短い時間ではありましたが、
レンタサイクルで巡ってみました。

ちなみに自転車は観光案内所で借りれます。
3時間で400円ほどでした。安いですね。
津山の町は盆地の中に形成されているので、
平坦な場所が多く非常に有効でした。

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まず寄ったのは「津山まなびの鉄道館」
かつて使用されていた扇形車庫が今も残ります。
昭和11年築。現存するものでは二番目の大きさです。

車庫には国鉄型車両がずらりと並びます。
ただ、ただ、圧巻です。

でも、保存だから仕方ないとはいえ、
新車同然の綺麗なのはリアルさに欠けます。
ここはやはり煤けてないと・・・。

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次は城東と呼ばれる古い町並みが残る地区です。
重伝建に指定されているので雰囲気は良いです。

ちなみに津山には城東の他にも、
城南、城西、城北といった地区があり、
それぞれ見どころに特長があるようです。

例えば城西には遊郭だった場所があったり、
寺町や武家屋敷があったりするなどです。

城東地区は出雲街道筋の商家町といった位置づけで、
長さ1.2kmに渡り伝統的建物が半数以上並ぶ様は圧巻です。

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ここの町並みの特長を上げるとするならば、
街道から山へと延びる幾つもの路地があることでしょう。

それぞれ路地には名前が付けられていて、
地域の人に親しまれている様子がわかります。

城東地区には無料の資料館が数か所ありますが、
いずれも手厚い説明をして下さいました。

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津山城のたもとには郷土資料館があります。
元は昭和8年落成の旧津山市庁舎で増改築したものです。

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そして、その横にある資料館がまた凄くて、
大正15年津山基督教図書館として建てられています。

どちらも素晴らしい近代建築なのは明らかで、
今もこうして現役なのは大変嬉しく思います。

津山はこういったレトロ建築が多いですね。

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さいごに津山城。

山全体が石垣になっていると言いますか、
平山城ならではの圧倒的存在感がGoodです。

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と、ここで時間切れ。

今回の旅は再訪だったのですが、
以前訪れた時とは自分の視点が違うことから、
新鮮な気持ちで楽しむことができました。

例えば、城東地区では牛歩の如く見学しましたが、
以前は素通りであるかのように見学したと記憶しています。

再訪は自分の違いを発見できて面白いものです。

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木製電柱の活用例


 

  
posted by にゃおすけ at 11:20 | Comment(0) | 中国ボラボラ | 更新情報をチェックする