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彼杵は鯨が有名で今も鯨肉を売る店を見かけます。
元禄年間の石積みが残る彼杵港からは、
天候が良いと長崎手前の時津まで舟での移動が可能で、
旅程にして1日短縮できたというから大したものです。
このように陸、海の交通の要衝であったので
各地の産物が集まり古くから賑わいがあったそうです、


本町万部塔。
明暦年間に大村で多数の隠れキリシタンが発見されます。
いわゆる「郡崩れ」と呼ばれる事件です。
宝塔は仏教徒である証として建立したものの一つで、
このような史跡は大村にかけて多く見かけます。


彼杵宿大村側の出口には川が流れていますが、
その河口が元禄年間に新港が出来る前の港でした。
二十六聖人はこの港から長崎へ向かい磔の刑に処されます。
1597年というので豊臣秀吉の時代の話です。
さて、この日の気温は30度もありました。
9月も下旬なので涼しくなってることを期待したのですが、
それは叶わず、容赦ない日差しが降り注ぐ道中となりました。



そういうことなので旧道は藪となっていた場所があり、
例えば、上の案内板のように案内されて迂回したとしても、
そこがまた藪になってるという始末で厄介でした。

それでも海と並行しているおかげで
海風があり頬に当たる風がなんとも心地良いもので、
街道に咲く彼岸花とともに秋を感じることができました。


次の千綿宿は正式な宿場町ではないものの商工業の町で
入母屋造妻入の住宅に往時の賑わいを感じました。
また、商売が上手くいっていたのか裕福な人が多く、
人形浄瑠璃や歌舞伎という芸能も盛んだったようです。
町並みの長さは約400m。南北に細長い旧道筋は、
車通りが殆んどなく静かな空間となっていました。


千綿宿大村側出口には川が流れ制札場がありました。
川には橋は架けられず石渡りだったそうです。
長崎県内に入ると飛び石を使った渡しを多く見かけます。
地形的に普段の水量はそれほどでもなかったのでしょうか。
でも、川幅は適度に広く作られているのを見ると、
洪水時とそれ以外の水量差は結構あったのかもしれません。



大村湾の眺めが抜群です!
対岸は天草。そして長崎の時津までも見えています。
線路と並行して進めば千綿駅に到着します。
大村線は歴史の古い路線です。
長崎本線だった時期もある大幹線だったわけですが、
それだけに線路はしっかりしたものが作られたようで、
レンガ造りなどの明治建築を多く見かけました。

ただ、街道のルート調べに関して言えば、
早い時期の鉄道敷設は特定を難しくさせています。
上の写真の場所においても長崎街道上に線路を敷いたのか、
街道の横に併設して線路を敷いたのかよくわかりません。
「そんな細かく考えなくていいでしょ・・・」
と、思われる方が多数だと思いますが、
そういうのを推測するのがまた楽しいんですよね。


JR千綿駅は海が近いことで有名な駅です。
近年はJRのポスターでさらに話題になっています。
そのせいか休日ともなると多くの観光客が訪れるようです。
ちなみに駅舎は11時開店の喫茶店になっていました。