南は大村城(玖島城)と武家屋敷が広がります。
これに対して宿場の位置は北に当たり、
長さ約536mの間に700軒近い家があったそうです。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
明治以降の大村は軍都として栄えました。
おかげで鉄道は早い段階で開通する利点がありましたが、
先の大戦では空襲により町が破壊されてしまいます。
中心部に古い家が残っていないのはこれが理由で、
旧家を見るには少し離れないと難しいようです。

武家屋敷地区を大きく迂回するような道筋で、
大村城下から遠ざかっていきます。
旧円融寺跡である春日神社を過ぎれば、
町の外れになり広大な墓地の中を進みます。
墓地とはいえ眺めは一級品です。


荒川坂、亀山坂、岩松坂といった坂が続きます。
名前が付く坂は大抵いわれがあるものです。
そして斜度が急であることが多い気がします。

坂の途中でこれから進む道筋が見えることがありますが、
その長く続く一本道はもちろん長崎街道です。
一見すると何気ない道に見えますが
「この道は長崎に繋がってる」と思うと
格の違いがあるように見えるのは気のせいでしょうか。


JR岩松駅近くにあった鈴田番所跡を過ぎると
日置峠という小さな峠が目の前に現れます。
ただ、峠のピークは崖崩れなどで通行困難な上に、
戦時中に工場疎開用のトンネルが建設されたことで、
道筋の痕跡がわかりづらくなっています。

ここは迂回するのが賢明です。
峠道のすぐ横には平坦な県道が通っているおかげで
それほど労力をかけず迂回することができます。

にしても、昔はなぜ峠道を経由していたのでしょう?
すぐ横に平坦な場所があるというのに・・・。
これは峠のすぐ横を流れる鈴田川の影響で、
昔は今のように治水が発達していなかったので、
険しくても安全な山道を選ぶことが多くありました。
「急がば回れ」とはよく言ったものです。


そういうことから次の古松集落までの道筋もまた、
鈴田川の影響で天保年間を境に大きく変わっています。
この地域では昭和32年にも大きな水害がありました。
多良岳からの大量の水が大岩を転がしながら流れ込んで、
家はおろか道や線路までも押し流したといいます。
もっとも、鈴田の「鈴」とは、
長崎弁で水が溢れることを「すずれる」と言うそうで、
鈴田は「氾濫で水があふれた所」という意味があります。

鈴田峠への道筋。
途中までは舗装してありましたが険しいもので、
日の当たる場所では軽い藪となっていました。

下の写真は「武士の墓」と呼ばれるもの。
大村藩主からの命を受けて、命を成し遂げての帰路、
大雪の峠道で動けなくなり亡くなったといいます。
さぞや、報告ができず無念だったことでしょう。


遠くに大村の町が見えました。
ここからが本格的な峠道となります。
足元には立派な石畳が残っていました。

こういう場所ではちょっと一服したいものですが
季節的に藪蚊が多くて休むことを許してくれません。
止まれば顔の周りにまとわりついてきます(涙

鈴田峠には立派な硯石がありました。
眺望はないですが広々とした空間で
昔の峠を彷彿させるものがありました。
ここまでは土道ながらも道幅が広いのですが、
峠から先は狭くなり新道と分かれる形になります。
ちなみに、ここで言う新道とは地理院地図にある道で
車両を通すために明治以降に整備した道を指しています。

大渡野番所跡。
江戸道は一見すると登山道のような様相ですが、
それ以上に新道はどこを通っていたかわからないほど
消滅しているようで辿るには困難なように見えました。
新しい新道が廃れて古い道が復活するという逆転現象ですが、
実は他の街道でも時折り見かけることがあります。
例えば、熊野古道の小辺路の一区間においては、
新道は災害で破壊されたので旧道が復活した事例がありました。
もしかすると、ここも災害系だったのかもしれませんね。
やがて視界が広がると諫早側の出口となります。


出口を振り返って撮影したのが上の写真。
パッと見た感じでは峠の入口がどこか分からない状態で、
鬱蒼と木々が生い茂ってるのがわかると思います。
ここから先は諫早市街地に向け下っていきます。
ある程度、標高があるので眺めは良いもので、
雲仙普賢岳を薄っすらと見ることができました。



巨石だけが残る石茶屋と呼ばれた休憩所跡。
”ところてん”が名物だったといいます。
ほどなく進むと永昌宿。
永昌宿は実質”諫早”と言っても良い場所ですが、
それは市域が広域になった今だから言えることです。
諫早城下を含む中心部はまだまだずっと先。
ここにあった集落の名前から永昌宿と呼ばれていました。

今の時代から見れば中途半端と思える場所ですが、
諫早城下を通らせないための防衛上の理由があったり、
諫早に寄らないことからショートカットできることで
距離面で大いに利点があったと思われます。
ちなみに、現在の永昌宿は崖地だったことから
大規模に削られ地形が変わり昔の面影はないようです。